終わりはきっぱりと 4
彼の背中に、そっと手を回す。
早鐘になっている心臓の鼓動が伝わってきた。
それで確信する。
(やっぱり……彼は知らなかったのだわ。なのに、私ったら、誤解して彼を責めてしまった……冷酷な人でなしだけれど、こういう傷つけかたはしない人なのに)
ティモシーのことで疑り深くなっていると感じた。
誰もが自分を傷つけようとしているみたいに思えてしまうのだ。
彼は本音を語らないが、ティモシーとは違う。
不正直ではなかった。
サマンサの肩口に顔をうずめている彼の頭に手を伸ばす。
なぜかはともかく、彼のほうが傷ついている気がした。
サマンサは、彼の頭を緩く撫でる。
「本当に、ごめんなさい。勘違いで、あなたを責めるなんて……」
「きみは謝らなくていい……謝らないでくれ……」
「でも、あなたが悪いわけでは……」
パッと、彼が体を起こした。
サマンサを抱き締めていた手が離れ、両頬をつつんでくる。
すぐに唇が重ねられていた。
意図せずして、彼を挑発してしまった時とは違う。
サマンサは知らずにいたが、まるで恋人にするかのような口づけだ。
強く押しつけられる感触に苦しくなって、彼の胸にしがみつく。
それでも、唇は重ねられたままだった。
呼吸を求めることすら許されない。
薄く開いた唇から、やわらかな感触が伝わってくる。
なにかわからないけれども、体が、ぞくりと震えた。
怖いとか気持ちが悪いとかいうのとは別の感覚がある。
だが、瞬間、体が引き離された。
「私は……どう言えばいいのか……動揺していたらしい」
「そ、そうなの……それで、おさまったかしら……?」
「ああ、きみのおかげでね」
肩にあった手も離れていく。
寂しい気もしたが、引き留めなかった。
彼は「動揺していた」のだ。
ティモシーが現れるとは想定しておらず、慌てて駆けつけたところに謂れのない責めを受けたのだから、しかたがない。
(まぁ、これで公平になったわ。私は勘違いで責めてしまったけれど、彼の動揺を抑えてあげられたみたいだもの)
はあ…と、彼が大きく息をつく。
乱れていた髪をかきあげてから、サマンサに肩をすくめてみせた。
「きみはどうだい?」
「私は、平気とは言い難いけれど、なんとかね。きっぱりできて良かったって思うことにするわ」
「動揺は?」
「もうしていないわよ? 私は、あなたより“動揺”には慣れているの」
彼が小さく笑う。
いつもの調子に戻った彼に、ホッとした。
あれほどに動揺している彼の姿を見たのは初めてだ。
そのおかげか、サマンサの心は、落ち着きを取り戻している。
ティモシーより、彼のほうが心配だった。
不思議になるくらいティモシーとの「終わり」を、清々しく感じる。
夜会のあとも、まだ引きずっていたように思うが、今度こそ「終わり」だ。
もうティモシーのことで思い悩むことはないだろう。
「それはそうと、あなた、私を監視していたの?」
「監視とは語弊があるね。見守っていたと言ってくれないか?」
「見守るだけなら、あの魔術があるじゃない」
「即言葉かい? きみは、あっさり無視したようだが?」
あの時は、彼に腹が立っていて、返事をする気になれなかった。
次からは無視しないようにしようと思う。
彼にサマンサを言い負かすカードを渡してしまうことになる。
「まぁ、今回は大目に見てあげる。今は、お芝居を観なくちゃ」
「きみ、これから芝居を観る気かい?」
「ええ、そうよ。せっかく来たのに、観ずに帰るなんてもったいないじゃない」
彼は呆れ顔をしたあと、声をあげて笑った。
サマンサも、思わず、にっこりする。
やはり彼の笑った顔のほうが好ましいと感じた。
なにか安心する。
(彼は、大きな責任を負っている。アドラントのことも、アシュリー様のことも。たぶん、ほかにも色々とあるのでしょうね)
本音を見せずにいるのも、そのためだ。
守りの薄いところが狙われるのは、当然だった。
(彼の最も弱いところ……それが、彼自身の心なのだわ)
胸が、きゅっと苦しくなる。
誰にだって弱い部分があってしかるべきだ。
完全無欠な人などいない。
魔術が万能ではないように、人も完璧ではない。
それでも、彼は強くあろうとしている。
それが、サマンサをなんともいえない気持ちにさせていた。
恋人でもなんでもないけれど、支えてあげたくなる。
せめて味方であり続けたいと思った。
彼の持ち駒のひとつとしてでもいいから。
「座る気がないなら、フレデリックに席を譲ってあげてちょうだい」
サマンサは、さっさと席に座っていた。
彼が、隣に座ってくる。
隣といっても、小さなテーブルを挟んでいた。
魔術を使ったらしく、そのテーブルの上に紅茶が現れる。
「私も芝居を観るのは久しぶりでね。席を譲るのは、ごめんだな」
「前は、どなたと来たのかしら? 金髪のご令嬢ではないわね?」
「気になるかい?」
「ちっとも。儀礼的に訊いてあげたって、わからないの?」
「私は、きみに蹴飛ばされるのが好きなのさ。おかしな嗜好の持ち主だと、専らの噂だからなあ」
サマンサは、くすくすと笑った。
ティモシーに連れ出されてしまったので多くは聞けなかったが、周囲から聞こえてくる噂が、少しは耳に入ったのだ。
「あなたったら、私に愛想をつかされたのかもしれないって言われていたわよ?」
「おかしな嗜好のせいで?」
「私、とんでもなく、いかがわしいことをさせられているみたい」
「さほど間違っちゃあいないがね」
「あなたが破廉恥な真似をしたがる男性だと、周りが知らなかったことに驚くわ」
笑っているうちに、幕が上がり始める。
落ち込んでいた気分も晴れやかになり、初めての芝居見物に夢中になれた。
内容は悲劇で、身につまされる部分も多かったが、それほど悲劇的には感じずに観終えることができた。
「あの兄たちは、本当に禄でなしよ。許せないわ」
「彼女を助けられるものなら助けてあげたかったねえ」
「まったくだわ。彼女、なにも悪いことはしていないじゃない? 妹の財産狙いで再婚を阻止しようと企てるほうがおかしいのよ。その上、せっかく彼女が新しい愛を見つけたというのに、殺してしまうなんて」
「善良な者ほど損をする、という見本のようだったな」
芝居を観終えたあとでも、個室で話し込むことはできるらしい。
彼が、テーブルの上の紅茶を、新しいものに淹れ替えてくれている。
それを口にしつつ、彼女は溜め息をついた。
「それでも、彼女が最後まで愛を貫いたのは正しかったと思う。もちろん殺されてしまっては意味がないと思う人もいるでしょうね。ただ、私は、自分の正しさを、1度でも曲げると、本心から幸せだと思えない気がするの」
「きみは、まさしくティンザーだよ」
「だといいけれど。家族を騙している身としては、確信が持てないわ」
彼が、一瞬、黙り込む。
どうしたのかと、彼のほうに視線を向けた。
「きみが話したければ、彼らに事実を告げてもかまわないよ」
急な話に、サマンサは驚く。
危うく紅茶をふいてしまうところだった。
まださっきの動揺を引きずっているのだろうか。
ティモシーの件は偶然に過ぎず、彼のせいではない。
だが、彼は責任を感じているようだ。
「どうせ話すことになるのだし、今すぐでなくちゃならない理由はないわよ」
「きみの心に、重しを乗せっ放しにしておくのもどうかと思ってね」
「これから、なにが起きるかわからないのに? すべて片が付いてから、まとめて話したほうが楽だわ。聞かれされるほうだって、気楽じゃいられないのよ?」
彼が、カップをテーブルに戻す。
サマンサもカップを置いた。
「私が、きみの言動を制限する気はないってことだけ、覚えておいてくれ」
「今までだって、ほとんどやりたいようにやってきたもの。配役に不満がなかったとは言わない。でも、支払いをちゃんとしたいっていうのも、私のやりたいことのひとつなの。私の誠実さを見縊らないでほしいわ」
わざと軽口めかして言う。
あまり彼に深刻に受け止めてほしくなかったのだ。
家族に対して心苦しさがないわけではない。
だとしても、彼の協力で、ティンザーが救われ、サマンサも救われている。
「あなたの片棒を担ぐ。それが、今の私のやりたいことよ」
彼が立ち上がり、サマンサの前に立った。
スッと、彼女に手を差し出してくる。
サマンサは、その手を躊躇わずにとった。
立ち上がり、彼の目を見つめる。
黒い瞳を恐ろしいと思ったことはない。
彼にも「人並み」の感情があるのは、初めて会った日から知っていた。
そして、今は彼にも「弱い心」があると知っている。
彼は冷酷な人でなしだが、それでも「人」なのだ。
彼が、サマンサの手をわずかに持ち上げ、その甲に口づけを落とす。
顔をあげてから、言った。
「私は、容赦なく、きみを利用する。それでも?」
「それでも、よ。今さら、しおらしいことを言わないでほしいわ」
これから危険なことが起きるのかもしれない。
その前に、彼は、サマンサの手を離そうとしている。
だから、なおさら、その手を離したくなくて、サマンサは言い切った。
「あなたは、いつだって冷酷な人でなしだったじゃない。今さらな話よ」




