冷酷な手のぬくもりが 1
気持ちが悪い。
とにかく気持ちが悪い。
吐き気はするし、体中が熱かった。
そのせいか、あちこちに、緩慢な「だるい」という感覚がある。
怪我をした時にある「痛い」といった感覚とは違うのが、また苦痛だ。
なのに、頭痛がする。
脳の皺と皺の間に、綿でも詰め込まれたみたいだった。
鋭敏な痛みではなく、鈍い痛みだ。
それが吐き気を助長している。
ひどく気持ちが悪くてしかたがない。
だが、体は動かず、目も開けられなかった。
元々、腫れぼったかった瞼が、さらに腫れている気もする。
「意識は戻っているようだね、サム?」
(ええ……戻っているわ)
彼の声がした。
とはいえ、こんな具合では返事もできない。
これが「あれか」と思った。
(目が覚めたら、唸ることになる……)
言われていたが、むしろ唸れたほうがマシだ。
意識はあり、苦痛も感じているのに、身動きできず、声も上げられない。
傍目からは眠っているようにしか見えないのではないか。
意識が戻っていると気づいてもらえたことが、不思議に思える。
「半日もすれば、体は動くようになるはずだ」
半日。
この状態で半日も過ごさなければならないのかと、気が遠くなった。
いっそ吐いてしまえたら楽になりそうだが、そうもいかないようだ。
なにしろ、唸ることさえできないのだから。
(治癒とか……どうにかできないものなの……?)
彼は魔術師だ。
しかも、この大陸で唯一無二の特異な魔術師なのだ。
不可能も可能にできそうなものなのに、と恨みがましくなる。
「魔術は万能ではないと言っただろう? きみは怪我をしているのでも、病気でもないのだよ? 体が変化に対して、抵抗を示しているだけだ」
彼の「だけ」という言葉が、癪に障った。
サマンサにとっては「だけ」ではないのだ。
(他人事だと思って……あなたにも、この苦痛を分けてやりたいわ……このだるさ……運動したあとの痛みみたいな感じなら我慢できたけれど……)
魔術で、この苦痛の半分でも吸い取ってくれるとありがたい。
せめて、体にある「だるさ」が和らげば楽になるだろう。
サマンサは痩せるために、尖塔を登ったり降りたりと、過度な運動をしたことがあった。
その翌日だって、体に痛みはあったが、だるいというのとは違ったのだ。
「筋肉の痛みは、目に見えない傷により引き起こされるものだから、治癒できる。今の症状とは、質が違うのさ」
声が出せたら、唸っていたのは間違いない。
苦痛からではなく、彼の言い草に腹を立てて、だ。
(魔術が万能ではないって、よくわかったわ)
「私は、役立たずの魔術師だからなあ」
ここで、初めて「あれ?」と思う。
意識が戻ってからずっと、気持ち悪さと頭痛で、気づかずにいた。
(人の心を読む魔術はなかったはずよ……?)
「やっと気づいたかい? 聡明なきみでも、今の状態では頭がぼんやりしてしまうようだな」
心を読まれているわけではない。
これは、魔術なのではなかろうか。
(あなた、私と会話をしているのね?)
「そうとも。即言葉という魔術を使っている。頭の中での会話さ」
(いつ、そんな魔術を私にかけたの?)
「ついさっき。私の呼びかけに、きみは答えただろう?」
意識が戻ったかと、問われた時らしい。
彼の声に、頭の中で、サマンサは返事をしている。
魔術の理屈はわからないが、なにか「会話」に合意してしまったようだ。
無意識の合意に、ちょっぴりムッとする。
(それならそうと、先に言っておいてちょうだい。頭で考えていることが、筒抜けなんて不愉快だわ)
「すべてではないから、安心したまえ。きみが、私に伝えたいと思う内容に限定はされている。これは会話だからね」
だからといって、安心できるものでもなかった。
しゃんとしている時ならまだしも、今は「頭がぼんやり」している。
会話と思考の狭間も見えない。
どれが話そうとしていることで、どれが考えようとしていることなのか。
その判断がつかないのだ。
しかも、考えないようにしようとすることも難しい状態だった。
(これが半日も続くなんて……でも、しかたないわ。我慢すると言ったもの)
「実際、どういう具合なのか、教えてくれ」
(とにかく気持ちが悪いのよ……全身がだるくて、熱っぽくて……)
「熱は、不要なエネルギーの放出だな。だるいのは、おそらく、小さくなった器に体が馴染もうとしているのだろう」
言われて、少し気が晴れた。
この苦痛は無意味ではないのだ。
今までしてきた努力や我慢は、すべて無意味だったけれど。
(あと半日……それから、少しずつ変わっていけるのね……)
「予想では、ひと月もすれば、ほっそりしたきみと出会うことになるよ」
(この体で過ごした年を思うと、ひと月なんて、“すぐ”って感じだわ)
それに、こうして話していると、苦痛が和らぐ。
1人で耐えているのではないと感じられるからだ。
言葉を交わすのは、自分の意思や感情を伝えることになる。
実際に苦痛を分け合ってはいなくても、わかってもらえているのが嬉しい。
「サム、サミー……ちょいと、きみにふれてもいいかい?」
(どうして?)
「うーん、きみの、この体の感触を覚えておきたくてね」
目が開くのなら、冷たくにらんでいたはずだ。
即言葉というのは、声の抑揚が伝わりにくい魔術のようだが、それでもわかる。
(あなたって、本当に禄でもない人ね。私がこんな状態でも、平気で軽口を叩くのだから、呆れるわ)
「最近、きみを虐めるのを趣味にしているのさ」
(悪趣味だこと)
「ともかく、私が、きみにふれても、あとで引っ叩かないように」
合意はしていない。
そう言おうとして、やめた。
彼の手が、そっと足首にふれているのを感じる。
そこから冷たさが広がっていた。
(熱冷まし?)
「まぁ、そのようなものだ」
加えて、彼はサマンサの体を、揉みほぐしてくれている。
熱とだるさが緩和され、少し楽になっていた。
(う~ん……気持ちいい……)
「きみ、そういう声を出されると、おかしな気分になるじゃないか」
(声の抑揚なんて伝わっていないでしょう?)
「伝わらなくても、想像する」
(そうね。あなたは、破廉恥な真似をする男性だったわ)
「考えたりもするさ」
まだ苦痛は感じているのに、思わず笑いたくなる。
同時に、ほんの少し胸に痛みを覚えた。
訊きはしないが、訊いてみたくなる。
あなたは、誰かを愛したことがある?
どうして、私を愛せないの?
はっきりと頭の中で考えたわけではない。
漠然と、思考をよぎっただけだ。
なのに、サマンサは不安をいだく。
彼との関係が良好になるのは危険だ。
便宜上の「特別な客人」であり、彼の「駒」としての存在。
2人を繋いでいる理由は、それしかない。
この関係は、交渉の上に成り立っている。
彼とは、友人ですらないのだ。
こんなふうに甘やかすような態度を取っていても、彼の心に愛はない。
けして、間違えてはならない。
絶対に踏み込んではならない。
線引きを誤れば、どうなるかは、わかっている。
自分だけが傷ついて終わりだ。
「少しは楽かい?」
(魔術師としてのあなたよりは、役に立っているわよ?)
「素晴らしい評価だ」
(早く……ほっそりした自分に会いたいわ……)
「ひと月なんて、“すぐ”だろう?」
あと、ひと月。
少なくとも、その間は、あの「離れ」で暮らすことになる。
それが確約されたように感じられ、どこかホッとした。
彼の「用事」がすむまで、必要とされている間は、このままでいたい。
(どういう出会いが待っているのか、楽しみに過ごすわね)
「きっと……きみに見合った愛に出会えるさ」
自分に見合った愛とはなんだろう。
わからなかったが、新しい愛を探す必要はあるのだろうと、サマンサは思った。




