変わり始めたこと 3
夜会の日以来、周囲の態度が目に見えて変わっている。
母からは露わな言葉で、罵声を浴びせられた。
父は、母に逆らうでもなく、黙り込んでいた。
下手にティモシーを庇い、自らが標的にされるのを避けたのだろう。
外ではどうだか知らないが、側室の前でさえ父は「大きな顔」はできずにいる。
たちまち正妻である母に伝わってしまうからだ。
情けないと思いはすれど、ティモシーは父を責められない。
ラウズワースとは、そういう家だった。
「こんなことなら……追い出してくれたほうがマシだ」
ティモシーは私室のソファで、頭をかかえている。
荷物をまとめ、辺境地なりどこへなりと行きたい気分だ。
ただでさえ、サマンサに冷たくあしらわれ、ショックを受けている。
なのに、屋敷にいても気が休まることがない。
テーブルの上にあるティーカップは、とっくに空になっていた。
だが、そそいでくれる者がいないのだ。
使用人たちの態度は、ひどくよそよそしくなっている。
呼ばなければ来ないし、来ても、ろくすっぽ会話もしない。
ティモシーは次男との、自分の立場を知っていた。
野心など持っていなかったし、いつ頃からかティンザーに移るとの意識も芽生えていたため、気楽に過ごしてきている。
使用人にも愛想良く声をかけ、婚姻や出産の折には祝い金を渡すこともあった。
彼らも、ティモシーに対しては、温かく接してくれていたのだ。
ほんの少し前までは。
「こういうものか……人というのは……」
裏切られたなどと罵る気はない。
彼らにも彼らの生活がある。
しくじりを冒したティモシーに肩入れして、母に、にらまれたくはないはずだ。
わかっていても、落胆している。
自分の味方は誰もいないのか、と思った時だ。
扉が叩かれる音がする。
遅ればせながら、ティーカップが空になっているかもしれないと、誰かが、思いついたのだろうか。
有り得ない想像をしつつ、ティモシーは入るように促した。
メイドの1人が顔を覗かせ、来客を告げる。
名を聞いた瞬間、ティモシーは立ち上がった。
すぐに招くよう、メイドに伝える。
茶も淹れかえるように指示した。
(そうだ……まだ僕にも……)
そわそわと、室内を歩き回る。
しばしののち、扉が再び叩かれた。
「ああ、ティリー……」
「ティム、大変だったみたいね、あなた」
マクシミリアンの妹、アドルーリット公爵家のマチルダだ。
私室に入ってくると、ティモシーに駆け寄って来る。
ちょうどメイドが新しいティーセットを持ってきたので、会話を止めた。
ひと通りテーブルに並べ、メイドの姿が消えてから、2人でソファに座る。
マチルダは向かい側ではなく、ティモシーの横に腰をおろした。
すぐさま、彼の手をとってくる。
両手で握られ、そのぬくもりに、ティモシーは安堵した。
(ティリーは、僕を好いている。マックスも、そう言っていたじゃないか)
サマンサと婚姻したあと、マチルダを側室に迎える。
当初の予定は破綻してしまったが、彼女自身は残ったのだ。
自分は1人ではない。
マチルダと2人で穏やかな生活を送ることはできる。
サマンサと婚姻していたとしても、子を成す気はなかった。
結果的には、似たようなものだ。
どうこう言っても、外聞というものがある。
母とて、ティモシーを身ひとつで追い出すことはできない。
辺境地であれ、マチルダと子を養うくらいはできるだろう。
「彼女が、あんなに性悪な女性とは思わなかったわ」
「性悪……?」
マチルダの言葉に、ティモシーは微かな違和感を覚えた。
サマンサとの関係が破綻したのは、自分のせいだと思っている。
これまで取ってきた行動すべてが、サマンサを傷つけていたのだ。
破談の責任も、サマンサにはない。
だが、マチルダは別の意見を持っているようだった。
「あなたは彼女に十年もつきあってあげていたのよ? お家の事情で、しかたなくだったとしても、恥をかかせられ続けてきたでしょう? 周りからの嘲笑にも耐えなくちゃならなくて……さぞ、つらかったでしょうね」
「あ、ああ……まぁ……それなりには……気分を害することもあったよ」
ティモシーは、曖昧にうなずく。
確かに、嫌な気分になったことは、何度となくあった。
サマンサの体型は、貴族社会で受け入れられ難いのは周知の事実だ。
なるべく隣にいたくなくて、いつも夜会でサマンサを置き去りにした。
「なのに、彼女ときたら、人前でも、平気でケーキを平らげていたわよね。見るに耐えなかったわ」
その理由を、ティモシーは知っている。
だが、言えずにいた。
反論すれば、マチルダの機嫌を損ねることになる。
そんなことを気にして、真実を告げられない自分の弱さを思い知った。
(僕は、つくづくラウズワースなのだな。父たちと、なにも変わらない)
内心では軽蔑していた父や、ラウズワースの男性陣と同じだ。
女性の顔色ばかりを窺っている。
「でも、良かったじゃない。これで、あなたも自由の身よ。彼女に縛られることはないでしょう?」
「ああ、そうだね」
少し上の空になっていた。
ティモシーは、思い出していたのだ。
サマンサに対してだけは、顔色を窺ったことがない。
差し出される愛を当然のものとして受け取り、失うとは考えもしなかった。
「ねえ、ティム。あなたは、分家を継ぐ前に、婚姻をすると思うのだけれど……」
「なにを……僕が分家を継ぐ? どこから、そんな話を……」
「え……だって、そう決まっていると聞いていたわ」
それは、サマンサとの婚姻が前提だ。
破談になった上、大恥を晒したティモシーが継げるはずがない。
マチルダのびっくりしたような顔に、ティモシーの心が暗く沈んでいく。
「ティリー、僕は辺境地にやられると思う。それでもついてきてくれるかい?」
マチルダが、表情も体もこわばらせた。
そういうことか、と納得する。
マチルダは、ティモシーが分家を継ぐ話が、未だに確約されていると思い込んでいたのだろう。
正妻になるはずだったサマンサがいなくなり、そこに座ろうと考えた。
案の定、マチルダが、ティモシーの手をサッと離す。
顔色は悪く、作り笑いが張りついていた。
あれほど美しいと感じたマチルダが、ひどく醜く見える。
サマンサが周囲に言われていたような外見的なことではなく、内面から滲み出るようなものだ。
「ご、ごめんなさい、ティム……私は王都を出たことがないから……」
「わかっているよ。辺境地の暮らしは楽ではないからね」
「え、ええ……本当に、ごめんなさい」
マチルダは立ち上がり、そそくさと部屋を出て行った。
ティモシーの頭に、ある日の会話が聞こえてくる。
サマンサとの会話だ。
ティンザーの別邸に通い始めて、しばらくしてからの記憶だった。
ラウズワースに、最も嫌気がさしていた頃でもある。
『僕が、辺境地に行くことになったら、きみはどうする?』
『どうするもなにも。そうなったら、早目に教えてほしいわ』
『なぜ?』
『準備が必要だからよ。辺境地となると、自分で食糧を確保しなくちゃならないこともあるらしいじゃない? どういう野菜や果物を育てるかとか、その栽培方法とか、あらかじめ学んでおきたいもの』
その時には「また食べ物の話か」と、うんざりして会話をやめた。
だが、今にして思えば、サマンサには「ついて行かない」との選択肢はなかったのだとわかる。
辺境地でもどこでも、サマンサなら、きっとついて来てくれたに違いない。
「……僕という個人を愛してくれていたのは、彼女だけだった……」
母に言われた言葉が、頭の中で、ぐるぐるしていた。
無視しようと思っていたのに、できなくなってくる。
『もし、公爵からサマンサを取り返せれば、面目が立つわ。いいえ、それ以上の効果があります。ローエルハイドが寵愛している愛妾を奪うなんて、ある意味では偉業よ。辺境地行きが嫌なら、彼女を取り返しなさい、ティモシー』
できるはずがない。
そう思っていたし、する気もなかった。
サマンサを深く傷つけた上に、さらに母の言うなりになるのは嫌だったのだ。
彼女は、公爵といるほうが、自分と婚姻するより幸せだと思ったに違いない。
結果、愛妾という道を選んでいる。
その選択を、ティモシーは否定できなかった。
だから、母の指図には従わず、辺境地に飛ばされる覚悟をしていた。
「愛妾、か……永続的な関係ではないな。いずれ公爵に飽きられ、捨て置かれる。公爵には、正式な婚約者がいるのだから……」
母の言葉に従うのではない。
ティモシーは、体を起こす。
サマンサを取り返したいとの気持ちが、ぶり返していた。
彼女との日々を、今度こそ大切にしたいと思う。
「どれだけ大事なものを失ったか……やっと気づいたよ、サマンサ……」




