できることをしたくて 1
馬車の中は、非常に気詰まりな空気で満ちている。
行きと同じく、ジョバンニと2人だ。
サマンサは、ティモシーのことを考えていた。
以前の彼女であれば、言われた内容そのままに受け止めていただろう。
盗み聞きも、その後のティモシーの言葉により、きっと許していた。
だが、もう許すとか許さないとかいう話ではなくなっている。
(ティミーの、なにもかもが信じられなかった……なにを言われてもティンザーを乗っ取るためなのじゃないかって疑わしく思えて……裏があるかもしれないなんて考えながら、相手を愛せる? そんなわけないわよね……)
ティモシーの目には、真剣さがあったように思えた。
それでも、信じられなかったのだ。
内心では、別の考えを持っている可能性を想像してしまう。
ティモシーは、サマンサの信頼できる相手ではなくなっている。
なのに、跪いているティモシーに、ほんの少し手を伸ばしたくなった。
ティモシーからサマンサに歩み寄ってきたのは、初めてだったのだ。
十年の間で笑い合ったこともあれば、優しい言葉をかけてもらったこともある。
信頼はできなくても、思い出は消えない。
情にほだされるのが嫌で、サマンサはテラス席からホールに戻った。
人が大勢いる中で、ティモシーが跪くとは思わなかったからだ。
貴族は、外見にも体裁にもこだわる。
人目がなかったので、ティモシーは、サマンサに手を伸ばせただけだ。
(もし誰かいたら、人のいない場所に連れて行こうとしたでしょうね。中庭とか)
ふと、アシュリーとジョバンニが中庭を散歩しているのだろうという彼の言葉を思い出す。
2人はホールにもテラス席もいなかった。
きっと彼の判断は正しい。
そこでなにがあったかはともかく、彼も中庭に行ったはずだ。
ジョバンニから、彼が先に帰ったと聞かされてもサマンサは「そう」とだけ答えている。
動揺も怒りもなく、表情ひとつ変えることはなかった。
アシュリーの元に行くよう促したのは、サマンサだ。
ジョバンニが迎えに来るのも、知っていた。
テーブル席にいたサマンサをジョバンニが迎えに来た際、大勢の目が自分たちを追っていたことにも気づいている。
会場を出て、馬車に乗るところも、見られていたはずだ。
だが、気にせず、ジョバンニのエスコートで、堂々と会場を出た。
以降、沈黙状態の馬車の中でティモシーのことを考えていたのだが、今は、それよりアシュリーが気がかりになってきている。
アシュリーは、危険な状況なのだ。
彼との婚約が政略的なものであっても、ほかの男性と関係を持っていいことにはならない。
ジョバンニに、恋などすべきではないのだ。
幼い恋で終わればいいが、深みにはまることもある。
サマンサとて、大人になってからティモシーと出会っていれば違った見方をしていたかもしれない。
思うと、ジョバンニに腹が立ってくる。
ジョバンニは、アシュリーの気持ちに気づいていない。
「彼女は、とても“いい子”よね」
視線をジョバンニに向けず、窓の外を見ながら言う。
その窓枠を使い、軽く頬杖をついていた。
実は、そうすることで、窓に映るジョバンニの様子をうかがっている。
アシュリーには、彼がついているのだろうから危険はない。
最大の「危険人物」は、ジョバンニだとサマンサは思っていた。
だから、ジョバンニの真意を測るつもりでいる。
「素直で純真? 汚いものや醜いものを見たことがないという感じだったわ」
あえて、分かり易い「棘」を言葉につけてみた。
敵意があるというほどではない、ささやかな「棘」だ。
ジョバンニは反応せず、黙っている。
「14歳とはいえ、少し子供過ぎる気がしない? 大事に育てられたから? それとも、これまでも彼が守ってきたからかしら?」
ジョバンニのほうも、サマンサを測っているに違いない。
だが、サマンサのほうが有利ではあった。
ジョバンニの知らない事実が2つある。
彼との関係は、契約に過ぎないこと。
サマンサには、アシュリーを傷つける気がまったくない、ということ。
それは、サマンサのカードだ。
その優位性をもって、ジョバンニを、さらに煽る。
「外見だけではなく、中身まで美しい、というのは、まるで、おとぎ話に出て来るお姫様のようね。実在するなんて思っていなかったけれど、考えを改めるべきかもしれないわ」
サマンサの当てこすりが気に障ったらしい。
ジョバンニの雰囲気が変わる。
問題は、ここからだ。
ジョバンニが、アシュリーに、どの程度の思い入れを持っているのか。
その深さ次第で、事が大きくなってくる。
「ティンザーのご夫妻は、今回のあなたの行動について、なにも仰っておられないようですね」
ぱっと聞くと、サマンサの言葉を無視した話題にも思えた。
だが、なにか関連性がある気がして、サマンサは眉をひそめる。
それをどう思っているのか、ジョバンニの視線を感じた。
「ラウズワースの子息との婚姻が破談になってもかまわないと、ご判断をされたのでしょうか?」
「私の両親は私に寛大なのよ。私が望まない婚姻をする必要はないと言ってくれているわ。彼のところで暮らすことについても、理解してくれているの」
「でしょうね」
ジョバンニの口調は冷たい。
アシュリーを守るためなら、サマンサとの対立も辞さない構えだ。
それが「護衛」的な意味合いに留まるものであれば、不満はなかった。
逆に、その一線を越える感情があるのなら、不安要素に成り得る。
「あなたが、私に興味があったとは驚きね」
「旦那様の特別なお客様となれば、無関心でいることはできませんから」
「彼女にも、特別なお客様がどういう意味か、きちんと教えてあげたらどう?」
「私が教えてさしあげるまでもなく、ご存知でいらっしゃいます」
サマンサは、初めてジョバンニに視線を向けた。
イラっとしたからだ。
婚約中の女性にとって、ほかの男性と取り沙汰されるのが、どれほど危険かを、アシュリーは絶対にわかっていない。
貴族は口さがない者が多く、女性たちは醜聞好きだ。
ないことをあるように噂して、相手の家名を平気で貶める。
「あなた、本当に、そう思っているの? だとすれば、彼女は、自身の立場をわきまえていない、ということになるのではない? 彼の婚約者だという自覚があるのかしらね?」
言いながら、ちくっと胸が痛むのを感じた。
ティンザーを守るためとしながら、その家名を貶めているのは自分なのだ。
相手がローエルハイドであれ、愛妾は愛妾に過ぎない。
外聞がいいものではないと、わかっている。
(でも、アシュリー様は、まだ間に合うわ。この執事のことなんて、きっぱり諦めて、彼に気持ちを寄せればすむ話だもの。私はともかく、彼女の気持ちが、自分に向いているとなれば、彼が周りにとやかく言わせやしないわよ)
所詮、自分とは便宜上の関係なのだ。
扱いが異なるのは、当然だと思う。
正式な婚約者を、第一に考えなければならない。
そもそも、アシュリーは幼いのだし。
「旦那様が、あなたを、お選びになると思っているのですか?」
ぴくりと、サマンサは眉を引き攣らせた。
誰にも話さない、というのは、ジョバンニにも適用されている。
未だ、サマンサを本物の「特別な客人」だと思い込んでいるらしい。
サマンサは、ジョバンニから視線を外し、ふっと小さく笑った。
「まさか」
ジョバンニは、サマンサが正妻の座を狙っているとでも考えているのだろう。
有り得ないことを心配していることが、おかしかった。
「ともあれ、ラウズワースとの婚姻が破談になったのは喜んで良いのでは?」
確かに、と心の中でだけ、うなずく。
あれだけ派手にやれば、ラウズワースとの婚姻は破談で間違いない。
彼は、ちゃんと約束を守ってくれた。
「目的が叶ったのなら、気に入らないことを我慢することはありません。いつでもローエルハイドを去ってかまわないのですよ。旦那様も引き留めはしないかと」
突き放すような言いかたにも、サマンサの心は動かない。
決めるのは彼であって、自分ではないのだ。
サマンサは、まだ「対価」を支払っていない。
必要な際、彼の「駒」となる。
それがいつになるかはともかく、要求に応じないまま、立ち去れはしない。
「そうね。わかっているわ。ただ、私にも体裁というものがあるの。だから、もうしばらくは、ローエルハイドにいるわね」
もちろん、彼が、王都に戻って指示を待てと言うのであれば、そうする。
目的が達せられた以上、サマンサの身の振りかたは、彼女自身では決められないのだ。
さりとて、王都に帰りたいのかも、わからなくなっている。
しばらくは、ティモシーと顔を合わせたくなかった。




