踏み出す勇気を 1
サマンサは、かなり苛ついている。
彼女を苛つかせる相手が、近くにいるからだ。
しかも、サマンサの私室で、我が物顔をしている。
彼は足を伸ばし、ソファに横になっていた。
「ここ3日ほど、そういう調子だけれど、本邸に行かなくていいの?」
サマンサは、向かいのソファに座っていた。
膝に置いていた本を、ぱたんと閉じる。
彼を無視しようとしてのことだったが、3日も続くと辟易していた。
サマンサが無言を貫いていても、彼はどこ吹く風。
目を伏せ、昼寝でもしているみたいにくつろいでいる。
「私には、人より多くの時間を活用するすべがある」
当然に、そうだろう。
彼は、サマンサのように中庭を歩かずとも、本邸に行けるし、馬車なしで王都にだって行けるのだ。
1日の長さが伸びるわけではないが、行動に伴う時間を短縮することはできる。
「そんなことよりねえ、きみ。きみも、こちらに来てはどうだい?」
「こちらがどちらなのか、わからないわ」
「私の体の上」
びゅんっと本を投げつけたが、どうせ当たらないとわかっていた。
だから、投げたのだ。
案の定、本は、瞬時に消えている。
「きみの代わりに書庫に片づけておいたよ?」
「だと思った。あなたは、気が利くから」
「ご褒美に、頭を撫でてやると喜ぶ子がいてね。私も、きみに頭のひとつも撫でてもらいたいものだ」
「それは、なにに対するご褒美かしら?」
彼は頭の後ろで両腕を組み、クッション代わりに頭を乗せている。
足先だけを交差させ、目は閉じたままだった。
なにかを思案しているのか、いないのか。
見た目では、判断できない。
「手紙を届けた」
「勝手にね」
サマンサが書いたティモシーへの「別れ」の手紙だ。
書き物机に置いていたのに、気づけばなくなっていた。
訊けば、王都にいる勤め人に渡し、ティモシーに届けさせたという。
サマンサが承諾するもなにも、ないままに。
「封蝋もしてあったし、印璽も押していたじゃないか、きみ」
「それはそうだけれど、黙って持ち出されるのは不愉快だわ」
「手紙を出す段になって、きみに、しくしく泣かれても困ると思ってね」
「泣くわけないって、わかっていて言っているでしょう?」
「そうでもないさ。人の心、とくに女性の心はわからないものだ」
ちくっと刺すような口調だった。
彼は、サマンサの心変わりを示唆しているのだ。
手紙を出してしまったからには引き返せないぞ、と言われている。
「彼との復縁なんて有り得ない。服を脱がないでほしい、とまで言われたのよ?」
「それを言ったのは、マクシミリアンではなかったっけ?」
「でも、ティ……彼は否定しなかったわ」
「信じられないよなあ。私なら、きみに服を脱いでほしいくらいだがね」
「絶対に脱がないから」
「本当に?」
「本当よ」
彼が、小さく笑った。
嘲る様子ではなかったが、面白がっている態度が気に食わない。
サマンサにとっては、人生のかかった一大事なのだ。
ちっとも面白くない。
「ねえ、ちゃんと考えはあるの? もう7日もこんなふうで……」
「ところで、きみは手紙に、どう書いたのかな?」
話を断ち切られたが、それよりも気になったことがある。
サマンサは、わずかに首をかしげ、目を伏せている彼を見つめた。
「読んでいないの?」
「私は、人の手紙を盗み読みするような、恥知らずではない。たとえ可能であったとしても、だ」
「ああ、いえ、そうではないのよ」
うーん…と、考えてしまう。
自分でも、よくわからなかったのだ。
サマンサは、無意識に、彼に「読んでもらっている」と思っていた。
「あなたが確認してくれたものとばかり思っていたわ」
「なぜ、私が確認しなくちゃならないのかね?」
「だって、よけいなことを書いていたかもしれないじゃない。そのせいで、あなたの立てた予定を崩してしまう可能性もあるでしょう?」
「それほど、さめざめとした手紙だったのかい?」
「私はお詫びしただけのつもりよ? でも、彼が、さめざめとしていると受け取ることは有り得るわ」
十年のつきあいで、ティモシーを理解していたはずなのだ。
にもかかわらず、ティモシーは、サマンサの考えもつかないことを考えていた。
手紙だって、どう受け止められるか、わかったものではない。
「だから、確認してもらいたかったのに、さっさと出してしまうのだもの」
「封がしてあれば、すぐにでも出すつもりだと思うだろう?」
「なによ、魔術師のくせに」
「役立たずな魔術師さ」
「本当ね」
サマンサにも、理不尽なことを言っている自覚はある。
なのに、彼は少しも怒らない。
怒っているのは、常にサマンサだけだ。
それが癪に障るのだが、ちょっぴり自己嫌悪になった。
「これでも、あなたには感謝しているのよ? ただ、先々のことがわからないのは不安だわ。計画があるのなら話してほしいの」
「嫌だね」
即答に、ぱちんと瞬きをする。
自己嫌悪も罪悪感も、吹っ飛んでいた。
しおらしく見せようとして言ったのではなく、本当に感謝はしているのだ。
それに、彼がどうするつもりなのかわからず不安だというのも真実だった。
なのに、彼は「嫌だ」の、ひと言で片づけている。
「あなた、なにを考えているの?」
「きみが、私をベッドに誘ってくれないかなぁと考えている」
「はぐらかすのはやめて! それなら命令すればいいじゃない!」
「それは条件に入っていないよ、サム」
あくまでも、サマンサの意思によるものでなければならないということらしい。
だが、サマンサに、その気はなかった。
だいたい、彼が本気だとも思えないのだ。
ティモシーとの復縁の可能性を探りつつ、からかっている。
手紙を出し、ティモシーには、彼との関係が伝わっているだろう。
仮に、サマンサが手のひらを返して復縁などすれば、彼は恥を晒すことになる。
それが嫌なのだ、きっと。
用意周到なのは悪いことではないが、からかわれる側にとっては迷惑に過ぎる。
「彼との復縁は、絶対に有り得ないと断言するわ。だから、金輪際、からかうのはやめてちょうだい」
「いったい、誰が、きみに復縁の話などしたかね? あのティミーだかティムだかいう奴のことと、きみに誘われたがっていることとは無関係だ。まったく、全然、かすりもしない」
「本気とは思えないわ」
むくっと、彼が体を起こした。
初対面の日、イスに座ったまま、彼の腕に閉じ込められたのを思い出す。
今日はソファなので、あんなことにはならないはずだ。
とはいえ、もっと危険な状態になるかもしれない。
「あなたをベッドに迎えたがっている女性に声をかければいいじゃない」
「なぜ? きみがいるのに」
「私は、こんなふうだし、あなたが喜ぶとは思えないわ」
すくっと、彼が立ち上がった。
思わず、サマンサは身を引く。
と言っても、ソファに座っているので、どこに逃げられるわけでもないのだが、それはともかく。
「私は、きみに女性的な魅力を感じている」
「そんなの……ありっこないわ」
「いいや、私は、それを証明する手立てを持っている。ほんの少し、きみが協力をしてくれれば、実証してみせるよ」
彼と話していると、不意に、自分がとても弱くなった気がする。
彼の冷酷なところだと思った。
自らの言葉や振る舞いで、サマンサが脆くなると知っているのだ。
だが、彼女も、これ以上、負けてはいられない。
「あら、だとすると、私は、あなたを愛さなくてはならないわ」
「愛だって? それとは別種の……」
「私は、ティンザーなの」
彼が口を閉じる。
それから、両腕を左右に大きく開いてみせた。
「今日のところは降参だよ、サム」
やっと落ち着いて、今後のことを話せる。
と、思った時には、もう彼の姿は私室から消えていた。
代わりに、さっきまでとは違う花が、室内にあふれている。
彼は、私室からの帰り際に、必ず新しい花を飾りつけていくのだ。
(ものすごく厄介な人……彼に振り回されて、私だけ馬鹿をみるのはごめんよ)