幸せの手前には 4
式の準備は、ちゃくちゃくと進んでいる。
不満がなくはなかったが、もう諦めていた。
動き出してしまったものは止められない。
それに、人生1度きりの式なのだから、楽しまなければ損だ。
「サミー、ちょっといいかい?」
めずらしく、彼が声をかけてくる。
というのも、ここは寝室ではなく、私室だからだ。
寝室でも、場合によって、彼は転移で現れる。
私室に来るのに、扉を叩くなんて初めてのことだった。
(着替えをしているわけでもないのに、どうしたのかしら?)
ドレスの試着だとか、仮縫いだとか。
そういうことは、本邸のほうで行っている。
相変わらず、サマンサは別邸で暮らしているが、私室で着替えることはない。
「着替え中ではないわよ?」
答えると、彼が入って来た。
表情が、いつもと違うように感じられる。
なにか気がかりなことがあるようだ。
彼は、ソファに座っていたサマンサの隣に座ってきた。
「なにかあったの?」
「フレディから手紙がとどいた」
「招待状の返事ではないわよね? ラペル公爵家には、ティンザーから送ったはずだもの。どういうこと? めずらしいのじゃない、手紙なんて……」
表向き、ラペル公爵家はローエルハイドを恐れている。
積極的には関わりを持とうとはしないはずだ。
いっときサマンサに手紙を出していたことになってはいたが、実際にはとどいていない。
彼が、手紙をサマンサに差し出してくる。
迷わず受け取り、手紙を開いた。
読み進めて、目を見開く。
読み間違いではないかと、本当に思ったのだ。
だが、何度、読み返しても間違いはない。
サマンサは、彼のほうに顔を向ける。
どういうことになっているのか、わからなかったからだ。
サマンサの知らない事情があるのだろうか、と思う。
「どういうこと?」
「私にも、よくわからない。ただ、決意が固いのは確かだね」
「…………あれが通じないのね?」
彼は、時々、フレデリックと魔術を使って連絡を取っていたと聞いている。
サマンサにも使っていた「即言葉」という魔術だ。
それが、今は通じていない。
彼の言う、フレデリックの「決意の固さ」は、そこに表れているに違いない。
「でも、フレデリックが、あなたとの連絡を拒むなんて有り得ないわ」
サマンサは、何度も、フレデリックと、彼のことで話をしている。
フレデリックの忠誠心は本物だ。
というより、彼に心酔していると言ってもいいくらいだった。
会話の中で「公爵様に死ねと言われたら、迷わず死ねる」なんてことを、平気な顔で言っていたのだから。
「拒むというより、きみが言った“通じない”というのが、妥当だな。拒まれてはいない。だが、なにかに遮断をされている感じがする」
「なにかって……魔術でってこと?」
「それも違う。きみが記憶をなくしていた時に近い。本人の意識していない部分に原因があるのだろうと思うよ」
「フレデリックは手紙を寄越したのだから、記憶はあるはずよね?」
彼が、溜め息をつく。
少し落胆しているようだ。
裏切られたとは思っていないだろうが、想定外のことに、彼も戸惑っている。
サマンサだって信じられずにいた。
「旅に出るということだけれど……」
フレデリックは、手紙で、そのように書いている。
当然、旅行自体は、めずらしくもない。
誰だってする。
「いつ帰るかわからないというのが、どうにもね」
そこなのだ。
手紙の雰囲気から、サマンサは、フレデリックが「帰らない」と言っている気がしている。
なんとなくの直感でしかないのだけれども。
「なにかあったのかしら?」
訊いてはみるが、手紙には、そのようなことは、なにも書かれていない。
長期的に諸外国を回ることにした、とだけ記されていた。
具体的な内容は、ほとんどわからないような手紙だ。
見に危険があるような感じはしない。
「フレデリックが危険だと思うのなら、そのことを、手紙の文章にうまく隠すはずだもの……むしろ、危険はないって言いたいみたい……」
「そうだね。私も、そう感じているよ。あえて手紙にしたのには、身に危険はないと報せることが目的なのじゃないかな」
「攫われたって話ではないわけね」
彼がうなずく。
攫われそうになり、無理に手紙を書かされたのなら、痕跡を残したはずだ。
フレデリックは嘘が上手い。
手紙であっても、それは変わらないだろう。
相手に気づかれず、彼にだけわかるように危険を伝えることなど簡単にできる。
「……式に出られないのを、謝る手紙にしか読めなかったわ……」
「フレディの真意だろう」
フレデリックは、式に列席する気でいたに違いない。
表立って話しかけたりはできなかっただろうが、端っこの席からでも自分たちを祝福してくれたはずだ。
サマンサには、この急な、心境の変化が、どうしても理解できなかった。
「フレデリックは……もう帰って来ないのじゃない……?」
彼からの返事がない。
返事がないのが、返事なのだ。
手紙には、自分が帰るまでは「弟に家督を継がせてくれ」というようなことも、書かれていた。
それが、逆に「帰らない」ことを意味している。
帰る気があるのなら、家督の心配なんてするはずがない。
たとえ長期的な旅行だとしても。
「私は、フレディに期待をしていたのだがね。とても残念だよ」
「探さないの?」
「探さないよ、サミー」
彼の答えに、サマンサも同意するよりほかなかった。
フレデリックになにかあったのは確かだ。
だが、身の危険はないらしい。
「フレディの意思を尊重する」
「ええ……そうね……」
きっと、フレデリックは、彼のために「そうする」のだ。
サマンサも同じことをした。
だから、わかる。
フレデリックの、この行動は「彼のため」だと。
「もう2度と会えないなんて……私、まだフレデリックにお金も返していないし、お礼も言えていないのに……」
借りた金のことについては、どうとでもなる。
ラペル公爵に返せばすむことだ。
だとしても、それくらいしか言葉にできなかった。
本当には、フレデリックを探したい気持ちがある。
「時々、手紙を寄越すと書いているのでね。会えはしないだろうが、元気でいるかどうかはわかるさ」
彼も、フレデリックの突然の「旅行」には、心が揺れているのだろう。
フレデリックは、彼に忠実だった。
彼に頭を撫でられ、嬉しそうにしていたフレデリックの顔が浮かぶ。
「ともかく、これで終わりじゃないさ」
「そうよ。もし、どうしても会いたくなったら、会わせてくれるでしょう?」
「もちろん、きみがフレディに会いたいと思う時には、いつでも」
彼が、サマンサに、小さく微笑んでいた。
あの日の約束を、彼は覚えていて、これからも守ってくれるはずだ。
「私は、フレディに生きていてくれるだけで役に立っている、と言った」
聞いて、少しだけ安心する。
フレデリックの忠誠心からすれば、その言葉を忘れはしない。
危険があれば、どうやってでも、連絡を取ろうとするだろう。
死なない努力を、必ず、する。
「今頃は、リフルワンスにいるかしら」
ただ1文、具体的なことが書かれていた。
最初にリフルワンスを訪れようと思っている、というところだ。
ロズウェルドから近い国なので、不思議ではない。
そこから、どこに向かうのかは、わからないけれど。
「フレディなら、どこででも上手くやれるさ」
彼は、彼自身が思っていたよりも、フレデリックを気に入っていたのだろう。
つぶやいた言葉には、わずかながら寂しさが漂っている。