幸せの手前には 2
ころん。
フレデリックは、顔をしかめる。
少し上の空になっていたらしく、手から羽ペンが滑り落ちていた。
羽ペンは、書き物机の上に、転がっている。
フレデリックは、地下にある自分の私室にいた。
めずらしく書き物机の前に座っている。
たいていのことは、頭に入れておくのが、フレデリックのやりようだ。
書類にするのは証拠を残すことになるため、文字に起こさない。
そのため、書き物机は、ほとんど用無し。
「まったく、トリスタンのところにいた後遺症かもな」
溜め息交じりに、羽ペンを握り直す。
毎日、こき使われていたので、あの暮らしに馴染みかけていた。
そのせいなのか、屋敷に戻ってから、時間を持て余している。
マクシミリアンもマチルダも死んでしまったし。
当面、急ぎの仕事もない。
相変わらず、情報収集のため、サロンへの出入りはしていた。
だが、これといって有益な情報もなく、空振りが続いている。
もちろん、なにが「有益」になるかはわからないので、頭には入れていた。
細切れの情報も、きっかけひとつで繋がることがあるからだ。
それは「嘘つき」の材料になるものでもあった。
完全に無駄と言い切れるもの以外は、ひとまず記憶に残している。
「あと半月か。それまで暇だ」
ハインリヒのお守りも終わった。
カウフマンとのこともケリがついている。
ラペルを継ぐのは、まだ先のことだ。
あと半月は、のらくらと過ごすしかない。
ひと月後、公爵とサマンサの婚姻の式がある。
王宮の広間を貸しきっての式となるようだ。
ティンザーからの招待状も届いている。
ラペル公爵家は、公にはローエルハイドとは懇意ではない。
ローエルハイドに怯えて、重臣たちの片隅で縮こまっている。
それが、ラペルの表向きの姿なのだ。
父も「それなり」に、うまくやっているらしかった。
ローエルハイドとの裏での繋がりは、周りに露見していない。
そのため、ローエルハイドからの招待とはならないのは、当然と言える。
対して、ティンザーは、ラペルと同じ公爵家だった。
格の違いはあっても、爵位の上では、横並びとされる。
当主の1人娘の婚姻ともなれば、すべての公爵家を招くのも不思議ではない。
分家や下位貴族だけを呼ぶといった、身内だけの式をすることもあるが、貴族の間で、それは体裁が悪いことなのだ。
ティンザーが、そこまで体裁を気にするとは思えない。
おそらく、公爵が、ティンザーに花を持たせようとしているのだろう。
ほかの公爵家も、相手が格下だろうが、ある種の礼儀として列席はする。
とくに、今回は、誰も「欠席」などしない。
招待状をもらった家は血相を変え、準備に追われているはずだ。
サマンサの婚姻相手は、ジェレミア・ローエルハイド公爵なのだから。
ころん。
握り直した羽ペンが、また手の中から落ちる。
招待状の返事は、あらかた書けていた。
急ぐ必要もない。
集中力も落ちていることだし、後にしようと、フレデリックは、紅茶を用意してから、ソファに移動する。
「公爵様の仰っていた新しい仕事って、なんだろう? 楽しみだな」
サマンサとの婚姻したあと、新たな仕事を任せてもらえることになっている。
どういう仕事であれ、楽しみでたまらなかった。
近くで働くことはできなくても、役に立てるなら、それでいいのだ。
何年かに1度くらいは、顔を合わせられるだろうし。
フレデリックは、5歳で初めて公爵に会って以来、11年も公爵とは会っていなかった。
基本的には、当主である父が、対応しているからだ。
とはいえ、あと十年もすれば、フレデリックが当主になる。
「そうなれば、今より、お会いできる回数が増えるもの。新しい仕事も任せてもらえるのだから、これまで以上に、頑張らないと」
公爵に頭を撫でてもらうことが、フレデリックの喜びだった。
トリスタンに「犬コロ」と呼ばれるのも、屈辱には感じていない。
実際、そうなのだから、否定する気にもならなかったほどだ。
客観的にどうかはともかく。
前途洋々。
フレデリックにとって、未来は明るく感じられる。
公爵に従うことこそ、生きる意味そのもの。
ほかの生きかたを、フレデリックは知らない。
する気もなかった。
ぱしゃ。
うっかり紅茶を、膝にこぼしてしまう。
暇過ぎて、よほどぼんやりしているようだ。
ここまで気が抜けるのは、初めてと言える。
「まぁ、今回は、色々あったからなぁ。その分、暇ってなると……反動だな」
やれやれと、腰を上げかけた。
フレデリックは、この部屋にメイドすら入れないようにしている。
すべて自分のことは自分でしているのだ。
ともあれ、こぼした紅茶の始末も、自分でしなければならない。
そのフレデリックの動きが、ぴたりと止まる。
違う、と感じた。
これは、自分ではない。
これほどに、ぼんやりするなんて有り得ないのだ。
物心ついてから20年以上、こんなことは1度もなかった。
フレデリックは、呼吸をするかのごとく嘘をつく。
無意識に、自分も含め、周りを観察していた。
それこそ、意識しなくても、勝手に「嘘をつく」準備をしているのだ。
(やぁっと気づいたのかよー)
バッと、フレデリックは立ち上がる。
だが、室内には、フレデリックしかいない。
「姿を見せろよ」
(そりゃあムリだな。オレ、隠れてるわけじゃねーもん)
「魔術を使っているんだろ?」
(オレは、お前みたいに嘘が上手くねーの。魔術なんか使ってねーよ)
心臓が、ばくばくしてくる。
本能的に、悟っていた。
ジェシーは、嘘をついていない。
魔術を使って隠れているわけではないのだ。
だとすれば、どこにいるのか。
フレデリックは、グッと手を握り締める。
答えは、ひとつしかない。
すぐに公爵のところに行かなければ、と思った。
それを察したように、ジェシーが言う。
(こーしゃくサマのところに行くのは、やめたほうがいいぜ?)
「お前に指図されたくないね」
(でも、こーしゃくサマでも、お前を助けらんねーのに行ってどーすんの?)
フレデリックは「助けてもらおう」などとは考えていない。
それも、察したように、ジェシーが笑った。
ような気がする。
(それも、やめたほうがいいと思うぞ)
「公爵様なら、僕ごと、お前を殺してくださるさ」
(だろーな。こーしゃくサマは、お前を殺したって、なんとも思わねーもん。ま、ちょっと残念ってくらいなもんだよ)
「わかってるじゃないか。僕だって、公爵様に殺されるなら本望だね」
ジェシーを、体の中に飼ったまま生きるより、公爵に殺されることを選ぶ。
思っているフレデリックに、ジェシーは呆れたように言った。
(ティンザーの娘はどう? 平気かな? ただでさえ、大勢、殺したあとだろ? 仲良しのお前を、こーしゃくサマが殺したってなったら、平気じゃいらんないぜ?)
部屋を出かけていたフレデリックの足が止まる。
ジェシーの言うことに納得するのは、本意ではなかった。
だが、その言葉は正しい。
サマンサの心は折れてしまう。
そうなったら、公爵はどうなるか。
実際、目の前で見ていたのだから、知っている。
あの様子では、躊躇なく後を追ってしまうに違いない。
(あ、それと、自死ってのもムリだぞ? オレは、生きてたいもん。お前が死のうとしたって、体が拒否する。もう、わかってんだろ?)
わかっていた。
羽ペンも紅茶も、ジェシーの仕業なのだ。
ジェシーがしたくないと思うことは、フレデリックに影響をおよぼす。
どうすればいいのか判断しかねていた。
そのフレデリックの「中」で、ジェシーは、あっけらかんとしている。
(そんな心配しなくてもいいんじゃねーの? オレ、なんもできねーからサ)