幸せの手前には 1
サマンサは、かなり憤慨していた。
アドラントに帰ってからは、彼とは話をしていない。
婚姻の報告をしに行ったはずなのに、式のことまで決められてしまったからだ。
(しかも、王宮の広間を借りるですって?!)
いったい、どれほどの人数を呼ぶことになるか。
少なくとも、全公爵家に招待状を送らざるを得ない。
王宮の広間を借りたにもかかわらず、一部の家門だけを呼ぶことは非礼となる。
父は、王宮の重臣だ。
しかも、格だけで言えば、中間どころ。
格上の公爵家を無視したとなれば、王宮での立場が危うくなる。
そして、公爵家が来るなら、その下位貴族も同伴するに違いない。
自らの権力を誇示するためだ。
貴族は、見栄張りが多く、なにかというと競り合いたがる。
サマンサは、というより、ティンザーのような家門はめずらしかった。
だが、今回ばかりは、その中立的精神が仇となる。
どこの家門にも与しないと示すためには、やはり、どこの家門も外せない。
式の列席者の人数を考えただけで、頭痛がした。
それも、彼が事前に相談もせず、家族に話してしまったせいだ。
予定を早めるのはともかく、サマンサは、大袈裟ではない式を考えていた。
家族の前では、彼女が反論しづらいとわかっていてのことに違いない。
以前、それでやらかしている。
耳に囁かれたことも気になってしまい、サマンサは、ほとんどうなずくことしかできずにいたのだ。
「全部、あの冷酷な人でなしが悪いのよ!」
「あれ、きみ、まだ怒っていたのかい?」
「勝手に入って来ないでちょうだい! そうやって私に訊きもしないで、なんでも事後承諾できると思っているのっ?」
サマンサは、寝室にこもっていた。
そこに、彼が、ひょいと現れている。
突然、姿をみせる彼には、すっかり慣れていた。
もう少しも驚かない。
ただ、今日は腹が立つだけだ。
「今しがた、アドルーリットとラウズワースに、ちょいと出向いてきたのだよ」
「アドルーリットとラウズワース? どうして?」
サマンサは怒っていても、関心のあることまで無視はできない性格をしている。
つい聞き返してしまった。
彼が、サマンサの横になっていたベッドに腰かけてくる。
「アドラントの領地返還のことさ」
「それに関わっていたのは、やっぱりラウズワースだけではなかったのね?」
ラウズワース夫人がサマンサとティモシーを婚姻させようとしたのは、票集めのためだった。
ラウズワースとアドルーリットは懇意であるため、手を組んでいると予測してはいたが、確信があったわけでもない。
「フレディから聞いてね。アドルーリットも唆されていたらしい」
「そうだったの……それで、領地返還は回避できるのよね?」
「できるのじゃないかな。ほんのちょっと、言い聞かせておいただけだがね」
「脅したってことでしょう?」
サマンサは、少し目を細めて、彼を見る。
貴族を相手にすると、彼は、とたんに冷淡さに磨きがかかるのだ。
彼の貴族嫌いは、彼女にも理解できる。
サマンサだって、貴族の在り様を好ましいとは感じていない。
「脅すだなんて、物騒なことはしちゃいない。幼い子供にもわかるように、言って聞かせれば、誰だって、自らの間違いに気づくものさ」
彼の「言い聞かせかた」は、すなわち「脅し」だ。
そのくらいしなければ懲りないのだから、しかたがないのだけれども。
「これで、つまらないことをしようとする人たちが出て来なくなるといいわね」
アドラントは、いずれコルデア侯爵家が管理することになる。
ジョバンニはともかく、アシュリーには苦労をさせたくなかった。
貴族同士の諍いや謀略に巻き込まれてほしくない。
それに、と、サマンサは、少しうつむく。
「……ラウズワース夫人は、なにか仰っていた……?」
「ジリアンがかい? アドラントを諦めるということを遠回しに言っていたがね。それだけだったよ」
「そう……」
結局、ティモシーも、そうしたことの犠牲になったのだ。
ラウズワースから、あれほど逃れたがっていたのも、わからなくはない。
息子が死んでも、ラウズワース夫人は悲しんでもいないのだろう。
むしろ、死してすら、怒っているかもしれないと思える。
アドラントを諦めなければならなくなったこととか、彼に脅されるはめになったこと、そのすべてをティモシーのせいにしているような気がした。
「サミー」
くいっと、顎が引き上げられる。
彼が、サマンサを、じっと見つめていた。
「それについては、深く考えちゃいけないよ。きみが、予定通りに、婚姻していたとしても、たいして結果は変わらなかったのだからね」
「そうかしら……なにもなければ、辺境地に追いやられずにすんだし、死ぬこともなかったのじゃない?」
「どこかで、私は気づいていたと思うね。それに、結局のところ、どこにいようがジェシーは、いずれ彼を使うつもりだったさ」
小さく息をつき、彼に、うなずいてみせる。
あの日ではなかったにしろ、結果は変わらなかった。
ラウズワース夫人が、アドラントに欲を出した時点で、ティモシーは生贄に選ばれていたのだから。
「ああ、それから、宮殿にも行っていた」
「宮殿って……皇女殿下に会いに行っていたの?」
なにをしに行っていたのか、ちょっぴり気になる。
彼が、特段に、皇女と親密でないのは知っていたが、懇意ではありそうだった。
その上、皇女のほうは、彼と、より親密になりたがっている様子だったのだ。
「気になるかい?」
「ちっとも。儀礼的に、訊いてあげただけよ」
つんっとして、そう答える。
彼が、小さく笑った。
その含み笑いとも言える態度が、気に食わない。
だが、気にしていると悟られるのは、もっと気に入らない。
なので、あえて黙っていた。
「アドラントの王族を踏み台にするのは、私たちの婚姻が終わってからにしてくれと、言いに行っていたのだよ」
「皇女殿下には、ご納得いただけたの?」
「納得もなにも、そうでなければ手は貸さないと言っておいた」
「あなたって、誰に対しても容赦がないのね」
ロズウェルドに併合されてはいても、アドラントの王族は、王族として存在している。
王族相手でも貴族と同様に「脅す」など、サマンサには考えられない。
王族というのは権力ではなく、権威だからだ。
財産があるとか、身分だとかいう以前に、敬意を示す相手だとされている。
「宮殿が混乱すれば、私も、なにもせずにいるわけにはいかないのでね。それで、式がずれこむなんてことになったら、宮殿ごと吹き飛ばすだろうよ」
「あなた、今日も、皇女殿下に、せっかちさんって、言われたのじゃない?」
「今日は言われなかったが、今日なら言われたって、不愉快にはならなかったよ。実際、私はせっかちになっているからなあ」
彼が、サマンサの頬を撫でてくる。
その頬が、ほわっと熱くなった。
昨日、言われた言葉が、まだ耳に残っていた。
「きみが、式を後回しにすると言っていたら、私も、これほど、せっかちにはならなくてすんだのだけれどね」
サマンサは、しばし、ふわっとなっていたのだが、急に、ハッとなる。
なにやかやと話がずれて、怒っていたのをすっかり忘れていたのだ。
頬にあった、彼の手を、ぱしっと、はたき落とす。
「私が、とても怒っていたって知っている?」
「知っているさ」
「あなたは、どんどん式のことを決めてしまったわよね」
「きみにも相談したじゃあないか。きみの家族にも話し合いに参加してもらって、より良い結果が得られた。いったい、なにが問題なのか、わからないな」
「とぼけないで! 私が口を挟めないように先手を打ったくせに!」
「というわけでもない。実は、きみの嘴でつつかれるのを待っていたのさ」
彼の横腹を、どんっと足で蹴飛ばした。
彼は、平然としていて、さらには、声を上げて笑う。
それから、体を倒し、サマンサの両手を掴んできた。
顔を、すいっと近づけられ、目をしばたたかせる。
それほど強く疲れているわけではないので、振りほどけなくはない。
だが、黒い瞳に、心が吸い込まれそうになっていた。
そのせいで、身動きするのも忘れる。
彼が、ゆっくりとサマンサの唇を、視線でなぞっていた。
「ああ、いけないよ、サミー。怒ると、ほら、もう何度か唇を腫らさなくちゃならなくなるだろう? いや、その覚悟をしておいたほうがいいかな」