伸ばした手にあるものは 1
トリスタンは、頭がいい。
彼が、突然に現れることのできた理由に辿り着くのに、さほど時間はかからないだろう。
そして、歯噛みして悔しがるに違いないのだ。
思うと、わずかに気分が良かった。
もちろん、どんな魔術師でも同じことができるかと言えば、それは違う。
彼だからこそ可能な手段だと言える。
だとしても、警備強化の見直しはしたほうがいい。
見つからないことを主眼としているのなら、なおさらだ。
誰でもができるわけではなくても、誰もできないというわけでもないのだから。
今の彼にとっては、トリスタン自慢の「城」も意味をなさなさい。
情報が混在し過ぎている状態では、正しく転移できなかっただけだ。
トリスタンに魔力を揺らされただけで、転移先にブレが生じたほど、彼は本領を発揮できていなかった。
(やはり情報の取捨選択は必要だな。それに、集中力にも欠けていた)
サマンサのこともあり、彼は、上の空になることが多かったのだ。
その上、常に4千人の位置を把握しておく必要もあり、想定していたより負荷がかかっていたらしい。
情報をかかえることに慣れ過ぎていたため、意識せずにいたのを反省している。
原因に気づけば、トリスタンも納得するはずだ。
実際、彼は、とても簡単な手を使っている。
なにも難しいことはない。
フレデリック・ラペル。
ここには、フレデリックがいた。
トリスタンに置いていけと言われ、彼は同意している。
匿うのにちょうど良かったというのもあるが、それ以外の理由もあった。
トリスタンには言わずにいたが、それはともかく。
ジェシーとのことで壊れたネックレスと、サスペンダーの金具は作り直し、フレデリックに渡している。
魔術道具なので、当然に、魔力の供給は必要だった。
それにより、彼はフレデリックと繋がっている。
刻印の術で「個」を特定して、彼を締め出せても、フレデリックには効かない。
フレデリックは、フレデリックという別の「個」だからだ。
何度目かに、ここに来た時、彼は気づいている。
(まったく、トリスタンの自慢したがりは、災いの元だ)
トリスタンは、フレデリックをこき使っている、と言っていた。
つまり、内部を自由に行き来できていた、ということになる。
外に出たらどうかはともかく、トリスタンの「城」での自由は確保されていた。
それにより、フレデリックは、刻印の術に縛られていないと、判断できる。
彼は、トリスタンの「城」に入ろうとしたのではなかった。
フレデリックのいるところに転移したに過ぎない。
魔術道具を通じて、フレデリックとは繋がっていたため、より簡単だ。
自らの魔力供給先に転移すればすむ。
今時点での、刻印の術の大きな欠点に、トリスタンは気づくだろう。
魔術道具への魔力供給に、刻印の術は発動しない。
(魔術師ばかりに気をとられているから、ほかが疎かになるのさ)
魔術道具は道具であって、人ではないのだ。
魔術師であれば、魔力感知で、そうした魔力にも気づける。
だが、刻印の術は、まだそこまでの感知能力を有していなかった。
今後、トリスタンは血眼になって魔術道具の研究も始めるに違いない。
(まぁ、スタンは狂人だから、好きにするだろうよ)
彼は、床に座らせられているカウフマンを見下ろす。
艶のある薄い金色の髪に透明感のある薄い青色の瞳、とても62歳には見えない若々しい姿をしていた。
初めて見た時から、滲み出るような厭らしさを感じている。
ラスがジェシーに言った言葉は、そのままカウフマンにもあてはまるのだ。
人の姿をしているが、人ではない。
カウフマンの血には、脈々と受け継がれてきた「商人」の血が流れている。
商人というだけなら、なにも問題にはしていない。
カウフマンという商人の一族が持つ「思想」が危険なのだ。
アニュアルフレアバン。
どこかの国では、ヒメジョオンと呼ばれている花。
どこの国でも見かける花。
以前、サマンサがカウフマンを、その花に例えたことがある。
花は可愛らしい。
だが、ほかの花や植木に悪い影響を及ぼす。
そして、知らぬ間に国中に広がっている。
花ならまだしも、それが「血」となれば、薄気味の悪いことだ。
そのカウフマンの「思想」のせいで、サマンサは危険に晒された。
加えて、今となっては、背負わずにすんだ罪まで背負っている。
「本当に、よけいなことをしてくれた」
冷たい瞳で、カウフマンを見つめた。
その彼に向かって、カウフマンが問う。
「ティンザーの娘は、どうした?」
ぴくっと、彼の眉が吊り上がった。
それを見てか、カウフマンの口元に薄い笑みが広がる。
「生きておるのだな。お前と一緒か。そうか」
彼の中に、怒りが満ちてくる。
カウフマンは、わかっているのだ。
彼とサマンサが、愛し合っていることも。
彼のしたことで、サマンサが罪を負ったことも。
「あれは、ティンザーの娘。この先、正気でおれるのか、さぞ心配であろう」
「お前が、彼女を語るのか」
「ほう。やはり、ローエルハイドは愛に執着するようだの」
カウフマンか、彼を挑発していた。
気づいていても、怒りを抑制できない。
サマンサを巻き込んだカウフマンを、許せなかった。
もとより許すつもりもなかったけれど。
「私が、お前の背を押してやったのだぞ」
カウフマンが、にぃっと嗤った。
「ティモシー・ラウズワース。劇場で会ったろう?」
彼は、ようやく知る。
サマンサが出て行った本当の理由だ。
彼女が打ち明けてくれた「愛していたから」というのも本当だった。
だが、それ以上に、サマンサは彼を愛してくれていたのだ。
劇場でのことは、カウフマンが水面に投げた石。
それに、サマンサは先に気づいたのだろう。
彼が、劇場で、彼女に「感情的」になったのも知っていた。
だからこそ、大きな危惧をいだいたのだ。
自らの「愛」が、彼に影響を与えることを。
(……私の心を守ろうと……きみは……)
彼の元を、黙って去った。
たった1人で、なにも持たず。
言葉のペテンを使った手紙だけを残し、彼が追わないように手を打って。
彼への「愛」だけで、走ったのだ。
野盗に捕まりかけて、どれほど恐ろしかったか。
記憶をなくし、どんなにか不安だったか。
彼は、ぎゅっと手を握り締める。
なにもわかっていなかったのだ。
サマンサの愛は、とても深く、強い。
それほどに愛されていると、彼は知らずにいた。
たった1人の愛する女性、サマンサ・ティンザー。
失うところだった。
手放しかけていた。
諦めようとしていた。
「ローエルハイドの弱点。それは愛なのであろうが」
「いいや、違うな。お前の情報は、古いのさ」
カウフマンの言葉を、彼は否定する。
確かに、愛に臆病だった。
弱味になると思っていたし、父や祖父のように縛られたくはなかったからだ。
おまけに、いつ死ぬともしれない身となれば、愛を遠ざけるよりなかった。
自分が手を出していいものではないと、そう思ってきたことは否定しない。
だが、サマンサと出会い、考えを変えた。
彼は、サマンサに愛されているし、サマンサを愛している。
彼女を失えば、彼も生きてはいられない。
誰かが彼女を奪ったら、暴走するに違いない。
ただ、それでもいいと思った。
今の彼は、愛に溺れている。
サマンサとの幸せを守るためなら、なんでもする。
同情も憐憫も彼にはなかった。
ぱちん。
指を軽く弾く。
カウフマンの薄青い瞳が見開かれた。
バンッという音が響く。
「お前には、それが似合いだ。永遠にへばりついていろ」
薄く広く引き伸ばされた体。
それが、壁に張りついている。
広がった両手両足には釘が刺さっていた。
引き伸ばされ薄くなっていても、目には彼が映っている。
同じく、べちゃんとした口からは、小声で呻き声が漏れていた。
「苦痛は感じるのですね」
「きみは、肺を圧し潰されても苦痛を感じないのか?」
「確かに。これだけ、ぺちゃんこになっていては、あちこち痛みそうです。まるでタペストリーのようではありませんか」
「きみの城には、うってつけだろう」
トリスタンが、机のほうから、なにかを持って戻って来る。
それを「カウフマンであったもの」に向かって投げた。
腹のあたりと思しき場所に、ナイフが刺さっている。
カウフマンが、細く小さな声で呻いた。
平たい目も、視線をさまよわせている。
「これはいい退屈しのぎになりそうです。ところで死にはしないでしょうね」
「殺せるものなら、殺してみればいいさ」
「まさか。こんなに見事なタペストリーは大事にしませんと、もったいない」
トリスタンは狂人だ。
カウフマンが、今後、苦痛を味わい続けるのは間違いない。
ここですることは終わった。
転移しかけた彼に、薄低い声でカウフマンが嗤う。
「……これで、よい……ジェシー……私の……宝……」
彼は、眉をひそめた。
ロズウェルドに、ジェシーはいない。
認識できてはいたが、彼の胸に不安がよぎった。