理不尽と不条理 4
長い攻防の末、サマンサは、彼を説き伏せることに成功していた。
完全に安全ではないと、わかってはいる。
だが、ジェシーは、すぐに戻ることはない。
戻ったとしても、それを彼は認識できる。
そして、カウフマンは捕らえられた。
彼は、トリスタンという人のところに行くという。
ならば、その間、サマンサは1人になるのだ。
当然、彼は屋敷に留まるように言った。
とはいえ。
サマンサは、いったん森に戻ると言い張っている。
レジーに説明することなく、出て来てしまったからだ。
心配させているに違いない。
とにかく、無事なことと、彼との関係について話す必要がある。
そのサマンサの考えに、彼は猛烈に反対した。
思った通りだったが、それはともかく。
それでも、レジーを放ったままでいることはできない。
彼にも話したが、レジーがいなければ、サマンサは死んでいたのだ。
川に流されただけでも、死ぬ寸前だったと言える。
ましてや、ずぶ濡れで、意識を失った状態でいたら、確実に凍死していた。
命の恩人に対し、そんな不義理はできない。
サマンサは、根気強く説明をし、やっと彼の承諾を取り付けている。
ともあれ。
「これって、絶対に嫌がらせだわ。彼、存外、子供みたいなところがあるわよね」
「ひとえにサマンサ様の安全のためにございます」
むうっと、サマンサは顔をしかめた。
彼は、森に戻ることを承諾はしている。
ただし、この無礼な執事を「お供」とすることを、サマンサに約束させたのだ。
(私とは、ソリが合わないって知っているくせに!)
相手も、ついて来たくてついて来たのではないのだろう。
無表情の影から、憮然とした雰囲気が伝わってくる。
彼とは違い、未熟らしい。
表情はともかく、感情が漏れ出ていた。
「でも、ひとつだけ、あなたに感謝しなければならないわね」
「私にですか?」
「あなたの独断のおかけで、彼との関係が正されたのは確かだもの」
「我が君のために、そうすべきだと感じただけにございます」
けして、サマンサのためではない。
そう言いたいようだ。
彼に「大恩」がある者としては、サマンサの、彼に対する態度は受け入れがたいものがあるのだろう。
わかっていても、無礼さにカチンとくる。
(なんなのかしら? 同じことを言われても、倍増しで腹が立つわ)
以前の自分の感覚が、なにか残っているのだろうか。
初対面の相手とするには、気に食わなさが強過ぎる。
第1印象といっても、森に、この執事が現れた時、ほとんど会話はしていない。
そもそも、それどころではなかったし。
「あなた、私のことを、彼から聞いている?」
「森にお連れし、お守りするように言いつかっております」
「そうじゃなくて、私の記憶のことよ」
「お聞きしておりません」
ここは、アドラントにある彼の屋敷の別邸だ。
その寝室に、サマンサはいる。
ほかの勤め人たちには、サマンサが帰っていることを、伝えていなかった。
記憶のことについて、どこまでを誰に話すかが決めきれていない。
そのため、朝食も、彼自ら、出してくれている。
「私は川に落ちて、記憶をなくしているのよ」
「さようにございますか」
「それだけ?」
「ほかになにが?」
イラっとした。
心配してくれとは言わない。
だが、ここまで「どうでもいい」という態度を取られると、腹が立つ。
主の婚約者に興味や関心を持たないのは、執事としては正しい。
適切な距離だと思えなくもなかったが、しかし。
「あなたのことを忘れているのは、幸いという気がするわね」
「サマンサ様と、私の間には、個人的な接点はございません。今後も、思い出していただかなくとも、なんの不便もないかと存じます」
「あら、そう。それを聞いて、とても気が楽になったわ」
本当に、無礼な執事だ。
と思ったのだが、ふと、あの時のことを思い出す。
今のように無表情ではなく、雰囲気だけではなく、顔にまで感情が出ていた。
それほど、この執事にとっては、切実だったということだ。
「まぁ、かまわないわよ。私のことはどうでも。彼に忠実でありさえすれば、私も文句はないもの」
「それをお聞きして、大変、気が楽になりました」
「それはどうも」
ぱっぱっと、サマンサは手を振る。
正直、連れて行きたくはないが、彼との約束があった。
それに、森に戻るには「点門」が必要なのだ。
サマンサの合図に、柱が2本、現れた。
家の中ではなく、外だ。
あの日も、わざわざ家の外に出てから、点門でアドラントに移動している。
「点門を使う時には、外と決めているの?」
「基本的には」
「例外もあるということ?」
「相手を尊重する必要がない場合や急ぎの際は、室内に開くこともございます」
ということは、一応、レジーのことは尊重しているらしい。
サマンサは、執事を後ろに従え、森小屋に向かって歩いた。
無言だと、どうにも気詰まりだ。
無理に話す必要もないのだが、ちょっぴり気になっていることを訊いてみる。
「あなた、彼に叱られた? 独断で動いたわけでしょう?」
「我が君は、それほど心の狭いかたではございません」
サマンサは、背後にいる執事に見えないのをいいことに、目を細めた。
確かに、彼は、たいていは「心が広い」と言える。
彼女が怒っても、お腹を殴っても、笑っているくらいだ。
が、しかし。
(心が広い、とは言えないわよね。心が狭い部分もあるもの……)
手を治癒しなくていいと言っただけで、へそを曲げてしまった。
森に戻るために、どれほど苦心惨憺させられたか。
こと、相手が男性になると、彼の心は極端に狭くなる。
嫉妬と独占欲の塊のようになるのだ。
(よくわからないわ。なにを、それほど気にしているのか)
サマンサは、彼とはベッドをともにした仲だと思い込んでいる。
そして、記憶はないが、自分は誰とでもベッドに入るような性格ではない、とも思っていた。
だから、彼が「特別」であるのは、彼もわかっているはずだと、考えている。
そのため、彼が、必要以上に、ほかの男性を気にする意味がわからない。
「あなたは、そこで待っていて」
「かしこまりました」
小屋の扉を開き、サマンサは、1人で中に入った。
扉の前に立っている執事の前で、その扉を閉める。
レジーと関係があるのは、サマンサだけだ。
関係のない者に、会話を聞かせたくはなかった。
「レジー?」
声をかけてみるも、返事がない。
時間的に、まだ昼前なので、家にいるはずだと思っていた。
だが、室内は静まり返っている。
サマンサに特殊な能力はないので、人の気配も察知できない。
とりあえず、調理室兼食堂のほうも見て回ったが、レジーの姿はなかった。
レジーの部屋にもいないようだ。
サマンサは、リスと2人で使っていた部屋に入ってみる。
懐かしい感じがした。
サマンサが使っていたベッドに、なにか置いてある。
近づいて、手に取った。
とても高級な軟膏だ。
見た目も綺麗で、可愛らしい。
町で買える代物とは思えなかった。
おそらく、昨日、レジーはサハシーまで足を伸ばしている。
だから「遅くなるかもしれない」と言っていたのだ。
そして、もうひとつ。
封にも入れられていない手紙が残されている。
レジーからのものだろう。
男性らしい整った文字が並んでいた。
それほど長くはない。
『サムへ。きみのことだから、きっと、1度は、ここに戻るだろうな。だから、俺も約束を守っておく。手荒れ、早く治せよ。ここで、サムと暮らしたかったってのが本音だが、今頃はもう、サムの気持ちは決まってるだろ? 俺も、そろそろ、真面目に騎士をすることにした。サムが危険な目に合わないことを、心から願っている。ライナール・シャートレー』
サマンサも、レジーといるのは気楽で、楽しかった。
記憶がなく不安だったが、レジーのおかげで、毎日を穏やかに過ごせたのだ。
一緒に料理をしたり、片づけをしたり、とても「普通」の暮らしができた。
ここで過ごし、新しい自分も見つけられたように思える。
『前の自分のことは、思い出してから考えればいいのさ。それまでは、サムは今のサムでいろ。新しい自分として生きてりゃいいんだ』
今も、サマンサの記憶は戻っていない。
いつ戻るのか、戻らないのかも定かではなかった。
だからこそ、レジーの楽観的なところに救われている。
「新しい自分として、今やりたいことを、やる」
それでいいのだ、と思った。
サマンサは、軟膏の容器と手紙を、胸に抱き締める。
ここでの暮らしは、大事な思い出だ。
彼女とリス、そして、レジーの3人で笑い合っていた。
贅沢でなくても、質素な生活でも、幸せだと感じられる。
いつか、こういう家庭を持ちたい。
心の中で、そう感じていたのだ。
レジーは手紙に「また会おう」とは書いていない。
サマンサが、リスに言わなかった言葉でもある。
「……あなたは、本当に……騎士道精神にあふれているわ、レジー……」
レジーの心遣いに、胸がいっぱいになった。
彼とのことがなければ、もしかすると別の道を歩んでいたかもしれない。
けれど、サマンサにとっての道は、ひとつになっている。
レジーもわかっていたから「またどこかで」とも書かなかったのだ。
「そうね。今、やりたいことを、私はやるわ」
サマンサは、彼との間に、願った家庭を築けると信じていた。