理不尽と不条理 1
サマンサは、彼の寝顔を見つめている。
彼女の胸に、顔をうずめるようにして寝入っていた。
寝た振りやなんかではなく、本当に眠っている。
その姿に、胸が詰まった。
彼は、安心している。
緊張がほどけているのだ。
きっと、自分のことで悩ませたに違いない、とサマンサは思う。
彼が「いつ死ぬかわからない」と聞かされた時の恐怖が、記憶に刻まれていた。
同じ恐怖を、彼はサマンサを見つけるまで味わい続けていたはずだ。
『あんな恐ろしい思いをするのは、2度とごめんだ』
彼は、そう言った。
本当に恐ろしかったのだろう。
サマンサも、今となっては、その気持ちが、よくわかる。
彼の寝顔を見つつ、考えていた。
なにか「より良い方法」はないのか、と。
決断したことに後悔はない。
それに、サマンサが揺らげば、彼も揺れる。
一瞬の躊躇いが、命取りになりかねないのだ。
彼が寝入っているから、考えられた。
たとえば、子供を作らないと約束させるとか。
ほかの国に移住してもらうとか。
あらかじめ、決められた血筋としか婚姻しないよう契約を結ぶとか。
殺さずにすむのなら、そのほうがいい。
彼の手を汚させるのは、サマンサの本意ではなかった。
順番が回ってきたというだけのことで、なぜ彼が手を下さなければならないのか。
彼の父や祖父の代から、カウフマンは蔓延っていたというのに。
だが、様々と考えてみたが、いい結果は得られずにいる。
おそらく、サマンサが考えたことを、彼も考えていただろう。
躊躇っていた間中、いくつもの「最善」を考えずにはいられなかったはずだ。
(私とのことを、真剣に考えてくれていたのよね? だから、殺さずにすむ方法も考えてくれていたのでしょう?)
彼の髪を、そっと撫でる。
彼は、とても無防備に見えた。
幼いリスと同じくらい、守ってあげたくなる。
彼のほうが、ずっと強いと知っていても、それは体だけのことだ。
心の強さとは、別のところにある。
(私が今回のことで苦しめば、きっと彼は自分を許せなくなる。だからといって、笑って、彼らを殺せと命じられるはずもないけれど……)
将来のことなんて考えるのはやめて、自分たちのことだけ考えればいいと言えば、彼は、そうしてくれる。
サマンサが、彼らを生かしてくれと頼めば、彼は承知する。
先々のことも、彼自身がすべきだと思っていることも、後回しにしてくれると、わかっていた。
短い幸せを取るか、長期的な幸せを取るか。
何世代も先のことなど、正直、彼女らには関係ないと言える。
なにかが起きた時に対処するのは、その時代の者の責任だとすればいい。
百%の安全など、どうせ確保できやしないのだ。
そう思えたら、良かった。
だが、サマンサは「打つ手がある」と知ってしまった。
先に繰り越せば繰り越すほど、犠牲が大きくなるのも、わかっている。
70年の先延ばしの結果が、4千人なのだ。
期間が長くなれば、そのぶん枝葉も伸びていく。
サマンサは、もう1度、彼の髪を撫でた。
彼の寝顔に、涙が出そうになる。
望んで手に入れた力なら、納得もできただろう。
その力を振るうことに躊躇いなどなかっただろう。
常に不条理の中で生きる必要もなかっただろう。
愛を諦めずにすんだだろう。
ほかの人たちが、普通に受け取れるものが、彼には受け取れない。
穏やかで平凡な日常など、彼にはないのだ。
あげく、ツケを支払えと、今、迫られている。
(あなたでなければならない理由なんてなかった。なのに、あなたでなければならないのね……知ってしまった者の責任として……)
ローエルハイドの血の拡散を、ここで止めておかなければ、取り返しがつかないことになる。
それが、明白で残酷な現実だ。
血の拡散をさせたのは彼ではないが、血の責任は彼が負うという不条理さに腹が立った。
ローエルハイドとカウフマンの戦争。
仕掛けたのは、カウフマンだと言える。
そして、ローエルハイドは、それに勝たなければならない。
勝つ手段は、いくら考えても、ひとつしかなかった。
最善は取れないのだ。
ならば、最良とするしかない。
(2ヶ月近くも、それをかかえているなんて……大変だったわね……)
ローエルハイドとカウフマンの血を持つ人々の情報を、彼は己の中に取り込んでいるのだという。
不要な情報まで入り込んでくるため、不快でもあり、気が逸れるのだそうだ。
『でなければ、多少の魔力影響があったくらいで、転移に、ブレを起こしたりはしないのだけれどね』
なにか嫌なことでもあったのか、彼は顔をしかめて、そう話していた。
彼曰く「情報の処理速度が落ちている」らしい。
なにしろ4千人分の情報をかかえているのだ。
サマンサには想像もつかないが、大変なことであるのは間違いない。
明日には、トリスタンという人から連絡が来る。
サマンサは、彼の額に口づけを落とした。
自分の腕の中で眠る彼が、どうしようもなく愛おしい。
この孤独で優しい人の傍にいたいと思う。
なにができるわけでもないが、寄り添っていたかった。
(もう、いいのよ……独りぼっちは、もうおしまい……あなただけが損をすることなんてないの……)
彼には命の天秤という不条理さ、サマンサには罪悪感、彼らには命。
それぞれに、代償がある。
釣り合っているのかは、わからない。
ただ、サマンサは決めていた。
彼に幸せを与える。
だから、心の奥に消せない罪を残しても、彼の前では笑ってみせるのだ。
けして、揺らぎはしない。
彼を守れる自分でありたいと思っている。
(おとぎ話の、お姫様は呑気よね……相手がどうなろうと知ったことではないって顔をして、幸せな自分に疑問を持ったりしないもの)
けれど、それは、知ってしまうのが、怖いからかもしれない。
知らずにいたほうがいいこともあるのだ。
おそらく。
「……私も強くならなくちゃ……」
つぶやいて、彼の頬に口づけた。
瞬間、体が、ぐいっと引き寄せられる。
「これ以上、どう強くなるつもりだい?」
「お、起きていたのっ?」
「いや、今、目が覚めた」
彼は、嘘はつかないので、頬への口づけで起こしてしまったようだ。
もう少し寝顔を見ていたかったのだけれど、それはともかく。
「うーん……」
「なによ?」
「おとぎ話では、唇への口づけで目覚める話が多いのにと思ってね」
ちょうど「おとぎ話」のことを考えていたので、どきりとする。
とはいえ、それは口には出していない。
彼の「今、目が覚めた」との言葉も疑っていなかった。
偶然というのは恐ろしい、と思う。
実のところ、サマンサは、ひとつの可能性について気づいていた。
彼も気づいているのではなかろうか。
仮に、4千人の命を絶ったとしても、長い時の中、偶然は起こり得る。
カウフマンの生き残りが、再びローエルハイドの敵となることもあるはずだ。
自分たちの子孫が、次はカウフマンに殺される可能性も残されている。
偶然という名のもとに。
(殺すなら、殺される覚悟も必要よ。これは……戦いなのだから)
「サミー?」
「それなら、まず先に、あなたが、お姫様を敬う騎士みたいに、手に口づけをするべきじゃないかしら?」
だいたい唇への口づけで目覚めるのは、たいてい「姫」であって王子ではない。
サマンサは、彼の髪に手を伸ばす。
少し、くしゃっとなっていたからだ。
「あら、あなた、髪に寝癖がつくのね」
「言わせてもらえば、きみの髪は、もっと大変なことになっているよ」
「わかっているわ。でも、あなたが気にしないと知っているから平気よ」
「それはまた、どうしてだろうね。私がきみのベッドにもぐりこんだのは、これが初めてだというのに」
言われてみれば、その通りだった。
昨日は、記憶をなくしてから初めて、彼と1日を過ごしている。
以前の自分は、彼とベッドをともにしていたのだろうけれど、と思った。
なぜなら、昨日、彼は「前々から、私はきみに、破廉恥な真似をしたがる男でもあった」と言っていたからだ。
名ばかりの婚約者だったとしても、ベッドをともにすることはある。
心の奥では、お互いに好意があったのだし、関係が良好であれば、おかしなことでもない気がした。
さりとて、記憶がない今の自分にとっては「初めて」だ。
「本当ね……なぜかは、わからないわ。もしかして、気にする人なの?」
「いいや、ちっとも気にしない。きみは、巻き取り損ねた毛糸玉みたいな頭をしていても、美しいよ」
「あなたの喩えって、いけ好かないわ」
彼が、小さく笑う。
それから、サマンサの手を取ってきた。
「昨日から気にはなっていたのだがね。ずいぶんと手が荒れているようだ」
「あ! 治癒はしないでちょうだい! 約束が……」
「約束? 約束とは、どういうことかな、サミー?」
しまった、とは思うが、いったん出た言葉は取り消せない。
嘘をつくのも苦手だ。
彼の、すうっと細められた瞳に、サマンサはレジーとの約束について白状した。