選んだからには 1
なんだか、とても不思議な感じがする。
彼と一緒にいるのが、あたり前のように思えるからだ。
まだ、記憶は戻っていないのに、と考えた時、気づく。
「それはそうと……あなたの婚約者だから、私は狙われていたの?」
「そうか。きみは、なにも覚えていないのだったね」
「婚約を解消しないとなると、また狙われるのかと思って」
「狙われることのないよう手は打っているが……完全に安心はできないな」
そこから、おおよそのことを、彼が語ってくれた。
どこからともなく紅茶を出してくれたので、それを飲みながら、話している。
サマンサの訊いたことに答えつつ、まるで寝物語のように、ゆっくりと。
出会った日から、夜会でのこと、体型を変えてくれたのが、彼だとも知った。
彼は「そのままで良かった」と、しきりに繰り返し言ってくる。
記憶のないサマンサでさえ、貴族が外見にこだわることは覚えていた。
だから、彼の意図は、今ひとつわからなかったが、それはともかく。
「それにしても、あなたって、本当に禄でなしね。私のことを、半月も放り出していただなんて、信じられないわ」
「深く反省しているよ、本当にさ」
「今度そんな真似をしたら、脛を蹴飛ばすくらいではすまさないわよ?」
「あんな恐ろしい思いをするのは、2度とごめんだ」
「恐ろしい? 私、なにかして出て行ったの? 部屋中の物を壊したとか?」
彼が苦笑を浮かべ、サマンサの額に口づけを落とす。
ふれられるたび、彼への想いを実感した。
少しも嫌ではないし、心地いいと思えるからだ。
なにより、彼の想いが感じられて、それが嬉しい。
「確かに、きみは、じゃじゃ馬だがね。物を、めちゃめちゃにしたりはしないよ。物に八つ当たりするより、私を引っ叩くほうが、気分がいいのじゃないかな」
「それは、理にかなっているからよ。悪いのは物ではなくて、あなただもの」
彼がティーカップを手の中から消す。
そして、サマンサの体を、ぎゅうっと抱き締めてきた。
実のところ、彼女は、まだ彼の膝の上に座っている。
向かい側にもソファはあるのだが、彼が離してくれないのだ。
「きみを探せずにいた間中、私は、とても恐ろしかった。きみを失ってしまったのじゃないかと思ってね。きみの無事な姿に、言葉も出なかったほどだ」
「……心配してくれている人がいるかもしれないって、思ってはいたのよ……」
「わかっている。そもそもは、私が悪いのだから、きみは、私を心配させておいて良かったのさ」
とはいえ、彼は、心底、心配していたに違いない。
なのに、サマンサは別の男性と一緒に暮らしていて、呑気に笑っていた。
もちろん、覚えていなかったので、しかたなくはある。
ただ、あの時、彼が大きな声を出した理由が、ようやく理解できた。
彼は、サマンサを失うことに、恐怖していたのだ。
危険が迫ってもいた。
無理にでも連れ帰ろうとしたのは、そうした強い気持ちからだろう。
だが、サマンサは理解できず、彼を強く拒絶している。
(それでも……彼は、私を尊重してくれたのね。私の意思を優先してくれたわ)
彼は、魔術師だ。
しかも、相当な力の持ち主でもある。
無理を通そうとすれば、簡単にできた。
たとえば、レジーの手足を折らなくても。
「だけど、私は、なにを考えていたのかしら? あなたに腹を立てていたとしても突然に過ぎない? ここを出る方法なら、ほかにもあったはずよね?」
差し迫った状況でも、彼は、サマンサの意思を優先させている。
話し合えば、おそらく、ティンザーの家に帰るのを認めてくれたはずだ。
記憶のあった自分は今より彼を知っていたのだから、それくらいの判断はできていても、おかしくない。
なのに、実際は、彼に黙って、ここを出ている。
「フレディは、きみは私のために、ここを出たのだと言っていた。私も、そうだと思う。カウフマンを釣り出そうとしたのか、囮としての役を果たそうとしたのか、そのあたりは、私も判断はつきかねているが」
「……それなら、もっと、堂々と出て行けば良くない? あなたと喧嘩をして出て行くのなら、なにも隠れて出る必要はないわ。しかも、お金も、なにも持たずに」
「うーん……私に引き留められると思ったから、とかではないかな?」
「半月も顔を出さないあなたに、引き留められるなんて思うわけないじゃない」
「きみは、記憶がなくても、私を、きゃん!と言わせるのが好きだね」
サマンサは、軽く肩をすくめた。
記憶は失っても、自分は自分だ。
なにかしら、納得のいく理由はないかと、思考を巡らせる。
「あ…………」
「どうかしたかい? なにか思い出したのか?」
「あ、いいえ……な、なにも思い出してはいないわ……」
「サム、サミー?」
彼が、ひょこんと眉を上げた。
かあっと顔が熱くなる。
細めた目で見つめられ、いよいよ恥ずかしくなった。
「なにか気づいたのだろう?」
「た、たいしたことではないわ」
「だから?」
「それなりの理由があったってだけのことよ」
「それで?」
彼が、首をわずかに傾け、さらに、目を、すうっと細める。
うつむいたサマンサの顎が、くいっと持ち上げられた。
視線が、まともにぶつかる。
「それで?」
はくはく…と、サマンサの口が動いた。
首元にまで、熱を感じる。
が、彼の視線からは逃げられない。
「……あ、あなたを…………愛していたから……」
彼が、数回、瞬きをした。
サマンサは、半ば自棄になって答える。
「だから! その時にはもう、私は、あなたを愛していたのよ! あなたに弱味を作らせるわけにはいかないと思ったのだと思うわ! でも、私は、あなたを愛してしまっていて、それを悟られたくなかったから、黙って出たのよ!」
その前の夜。
彼の語った内容からすると、サマンサは彼と口論になっている。
本物の婚姻だとか、子供の話だとかで諍いになったらしい。
その根本にあったのは「愛」に関する、2人の意見の相違だ。
そして、カウフマンがサマンサを狙うのは、彼女が彼の婚約者だからというだけではない。
彼の弱味に成り得る存在だと想定している。
そのことに、自分は気づいたのだろう、と思った。
同時に「彼の弱味になってはならない」と考えたのがわかる。
なぜなら、サマンサ自身が、すでに彼を愛してしまっており、その感情が、彼に変化を与えることを危惧したからだ。
「へえ。それは、知らなかったなあ。あれほど怒っていたのにねえ」
「嫌な人ね! 正直さなんて、腹が立つばかりだわ!」
「きみは、怒っている時が最も魅力的だよ、サミー」
本気で引っ叩いてやろうと思った。
その振り上げた手を、彼があっさりと掴む。
そして、サマンサの手のひらに、唇を押し当てた。
「……卑怯じゃないの?」
「私は、恥知らずな男なのでね」
「まったくだわ……」
そんなふうに愛おしげにされると、脛を蹴飛ばすことだってできない。
怒っていたのも忘れ、なにもかもを許してしまう。
「だけれど、ねえ、きみ」
彼が、サマンサを見つめてきた。
さっきとは違い、甘く緩く目が細められている。
「私も、あの夜にはもう、きみを愛しかけていると思っていた」
「え……?」
「正確には、もっと前から愛していたのだろうが、知っての通り、私は愛に臆病な男だ。長く、気づかない振りをしていた。まぁ、そうした必死の抵抗も、きみが、私の私室の扉を、威勢よく開いた瞬間に吹き飛んでしまったがね」
胸が、どきどきと鼓動を速めていた。
今のサマンサにとって、彼は、ほとんど見ず知らずの男性に近い。
なのに、胸が高鳴る。
どうしようもなく「愛」を感じる。
彼を失う日がいつ来るかわからないのは、怖い。
だが、愛したかったし、愛されたかった。
繋いでいられるうちは、この手を放したくない。
サマンサの手を握っている彼の手に、サマンサも口づける。
彼自身が、彼の心を守れないのなら、自分が彼の心を守るのだ。
最後の、その時まで、独りにはしない。
「あなたが、私の心に気づかずにいたことに驚くわ」
「しかたがないさ。なんでも見通せる眼鏡を持っているわけではないのでね」
「本当に、役立たずな魔術師ね」
「そうとも」
自然に、唇を重ねる。
繰り返し口づけをかわしたあと、彼が肩をすくめた。
「これは、どうも……まいったね」
なにか言いたげに見つめられ、サマンサは首をかしげる。
それこそ「なんでも見通せる眼鏡」は持っていないのだ。
彼が、なにに「まいっている」のかなど、わかるはずがない。
「このまま、きみをベッドに連れて行きたくなった」
「な……っ……」
「以前は、きみが望むならと言っていたが、それは却下しよう」
「きゃ、却下って……」
「だって、しかたがないじゃあないか。前々から、私は、きみに、破廉恥な真似をしたがる男でもあったわけだし」
指先で、さらりと首元を撫でられ、焦る。
このままでは、本当にベッドに連れて行かれかねない。
サマンサが望もうと望むまいと、ということらしいけれども。
(の、望まないなんて言えないってわかっているくせに……っ……)
彼に求められて、否と言えるはずがなかった。
というより、嫌だと思っていないとの自覚がある。
それを、彼はわかっていて言っているに違いない。
「ま、待って……とりあえず……今は……その……駄目よ……」
「今は? それなら、いつならいいのか、教えてくれると助かるね」
鼻を、つうっと指で撫でられ、頬が火照った。
彼は、とても魅力的で、ものすごく厄介な男性だ。
だとしても、今はベッドになだれ込むわけにはいかない。
「……あなたが、まだ話していないことを、話してくれてから、と言っておくわ」