目に見えないからこそ 4
サマンサが記憶を失くしているだなんて、まさかにも思わなかった。
彼は、つくづくと冷静さに欠けていた自分を、恥じるばかりだ。
思い返してみると、あの小屋を訪れた際、レジーが、なにか言いかけていた。
きっと、サマンサの記憶について話そうとしていたのだ。
それを断ち切り、強硬な姿勢をとったことで、サマンサを怒らせている。
記憶のないサマンサにとっては、いかにも「冷酷な人でなし」に見えただろう。
より頑なになった彼女の態度にも、納得できる。
(だが……記憶を失っても……彼女は、私を愛していると……)
胸の奥が暖かくなるのにつられたのか、なぜか頬が熱くなった。
サマンサの肩口に、顔をうずめていることにも、今さらに気づく。
ひどく顔が上げにくい。
どういうわけだか、意味不明なほど、恥ずかしいのだ。
「きみが……私のような、人でなしの碌でなしを、選ぶとは思わなかったよ」
「同感ね。ちっとも否定する気にならないわ」
だが、サマンサは、彼を選んでいる。
以前の彼女であれば、彼にも、多少は思い当たる節がなくはない。
ともあれ、2人の関係は良いものだったのだ。
その感情が、愛に変わることは有り得る。
サマンサ自身からも言われていた。
『それでも、もし……万が一、私があなたを愛してしまったら、どうなるの?』
『あまり踏み込まれると、私はあなたを愛してしまうかもしれないから』
彼女と口論になった日の、サマンサの言葉だ。
可能性としてあり得ると、彼女も考えていたからこそではなかろうか。
彼の「自意識過剰」ではなく。
さりとて。
今の彼女には、記憶がない。
サマンサが別邸を出てからの、自分の行動を鑑みると、ただの無礼で傲慢な男に過ぎないのだ。
花のひとつも贈っていないのだから。
彼は、ようやく顔を上げる。
改めて見てみると、サマンサは、彼を「よく知っている」ふうには見ていない。
てっきり心が離れてしまったからだと思っていたが、これは記憶がないせいなのだろう。
見ず知らずの男。
だが、こうして膝に抱いていても、嫌がる様子はなかった。
サマンサからも、はっきり「愛している」と言われている。
なのに、ふれていいものか、彼は迷っていた。
「最初から始めたほうがいいかい?」
「最初から、というのは、初めて出会ったみたいに挨拶から始めようってこと?」
「だって、きみは、私を知らないだろう?」
「そうね。知っているのは、ローエルハイド公爵という人でなしで、役に立たない魔術師で、過保護で、愛に臆病な人だというくらいかしら。ああ、それと」
サマンサが、にっこりして言う。
「とても無礼な執事の主だということね」
彼は、声を上げて笑った。
記憶がないにもかかわらず、まだジョバンニを嫌っているようだ。
彼もジョバンニも、サマンサには、評価を上げてもらえないらしい。
やはり、サマンサは、どこまでもサマンサなのだ。
「記憶がないのに、きみは少しも変わらないなあ」
「あら、変わってほしかったの?」
「生憎、私には想像力がなくてね。お淑やかな、きみを思い浮かべられない」
「そう言えば、さっき脛を蹴飛ばしてもいいと言っていたわよね?」
小さく笑いながら、彼はサマンサの頬に、自分の頬を摺り寄せた。
ふれていいのか迷っていたが、彼女は、あまりに魅力的に過ぎる。
そのまま、頬に口づけた。
サマンサの頬が、ほんのりと赤くなる。
その表情に、彼は、わずかな気まずさを感じた。
少し体を離し、サマンサを見つめる。
「どう言えばいいのか……その……きみ、レジーのことは……いいのかい?」
サマンサが、何度か瞬きを繰り返した。
そのあと、目を、スッと細め、彼を小さくにらんでくる。
「それは、どういう意味かしら?」
「いや、きみたちは……一緒に暮らしていただろう?」
「だから、なに?」
「まぁ……男女が、同じ家で暮らしていたわけだからね」
「それで?」
いつもは、彼だって、もっと率直なのだ。
だが、サマンサのことになると、どうにも上手くいかなくなる。
「レジーは、とってもいい人だわ。一緒にいるのは楽しいし、気楽よ? レジーの楽観的なところを、私は好ましく思っているの。あのまま、森で一緒に暮らすのもいいかもしれないと考えていたわ」
「彼と……婚姻するつもりだったのかい?」
「わかっていないのね」
サマンサが呆れたように言った。
彼の胸は、じりじりしている。
比較すると、レジーには「非の打ち所がない」気がした。
自分のように「非ばかり」の男とは違う。
「私は、レジーに求婚されてもいないし、愛し合っていたわけでもないわ」
「だが……」
「ベッドを、ともにもしていません! レジーとは、友人よりも仲がいいと言える関係ではあったけれど、お互いに、それだけよ」
彼にすれば、とても、そんなふうには見えなかった。
とはいえ、サマンサの認識を受け入れることにする。
彼女がそう言っているのだから、それ以上に追求する必要はない。
認めればすむ。
「あなた、ホッとしているの?」
「当然だよ、きみ」
彼の言葉に、サマンサが、目をしばたたかせた。
なぜか、くすくすと笑う。
「おかしな人ね。さっき、私は、あなたを愛していると、言ったばかりじゃない。もしかして、あなたって前時代的な思想の持ち主?」
「まさか。私は……いや、どうかな……きみに対しては、そうかもしれないな」
サマンサが言っているのは、かつては男性が、男性を知らない女性を好む傾向にあったということだ。
彼に、そうしたこだわりはない。
なかったはずなのだけれども。
「ほかの男が、きみにふれると考えるだけで、不愉快になる」
「意外だわね。あなたは、嫉妬する必要なんてなさそうだけれど」
「必要があるかどうかではないよ、きみ。気に食わないということに理由などあるかい? あったとしても、それは後付けだろうね」
サマンサが体型を変えたあとも、似たようなことを感じた。
彼女の魅力に気づく者などいなければ良かったのに、と思ったのだ。
あの頃から、いや、それ以前から、彼は、自分が「嫉妬」していたと気づく。
(ティムだかティミーだかいう奴も、不愉快だったな)
サマンサが、ティモシー・ラウズワースを「ティミー」と呼ぶだけで、苛ついたのを覚えていた。
つまり、その時にはもう、彼女を愛し始めていたのだろう。
単なる「気に入った」程度ではなかったのだ、きっと。
彼は、たいていの者を、どうでもいいと考えているのだから。
まさに、サマンサの言ったように「嫉妬」などしたこともなかった。
自分のものだと誇示したくなったのも、サマンサが初めてだ。
長く「愛は不要」とし、距離を置こうとしてきたため、気づかない振りも上手くなっていたに違いない。
(愛に臆病か……その通りだな)
彼は、誰かを愛し、弱味を作ることを肯とはせずにいた。
愛されることで、愛する相手を嘆かせるのも怖かった。
だから、愛し愛される関係は望まないと決めていたのだ。
父や祖父とは違い、彼の問題は大き過ぎた。
3人目の出現による、いつ死ぬかもしれないという状況は「人ならざる者」だけに生じる。
父と祖父には起こり得なかった問題だ。
『ジェレミー、いいかげん、その諦めグセ直せ! そいで、勝手に決めて、勝手に諦めてんじゃねぇよ! オレたちは、1回だって、お前を諦めたことねぇぞ!』
『ノアの言うておることは正しい』
自然淘汰の話を、ラスとノアは知っている。
彼らの母親に関する話だ。
彼は、彼自身の存在を忌むべきものと感じた。
彼が「人ならざる者」でなければ、叔母は死なずにすんでいる。
次の「人ならざる者」が現れても、無事でいられた。
当然に、叔父も、叔母の3人の子供たちも、そう思うに違いない。
だが、彼らは、みんな、それまでと変わりなく接してくれている。
むしろ、彼を心配していた。
(諦め癖を直すことにするよ、ラス、ノア。いつ死ぬかわからないとしても、それまで、私は彼女と生きられるのだから)
それに、必ずしも彼の存命中に3人目が現れるとは限らない。
今までは、不確かな期待に賭ける気にはなれなかった。
自分だけのことではすまないからだ。
「本当に、私でかまわないのか?」
「交渉は成立したと思っていたのに、あなたって、同じことを、繰り返し聞くのが好きなのね」
「嫉妬深くて、独占欲が強いものでね」
「ただの臆病者のくせに、よく言うわ」
「そうとも。私は、毒を持たない、小さな蛇みたいなものさ」
「もっと可愛らしい喩えはできなかったの?」
サマンサが、小さく笑う。
彼女は、とても美しかった。
外見ではなく、内側が光り輝いている。
サマンサは、強い女性だ。
彼は、彼女を信じる。
もし3人目が現れて、それが自らの子であっても、サマンサはその子を愛する。
もし彼が命を失うことがあろうと、いつまでも嘆き悲しんだりはしない。
そう信じることにした。
「あなたが、いいの。私は、あなたを選ぶわ。あなたのことを、愛しているから」
彼は、サマンサの体を抱き締める。
抱きしめ返してくれる腕に、初めて知った。
心を差し出し、受け取ることの意味と、心地良さ。
そして、愛し愛される関係が、どれほど心を満たしてくれるものかを。
部屋中が、パッと花であふれかえる。
口論した日から贈るのをやめていた花だ。
これから先、この日課がなくなることはないだろう。
「サム、サミー……私もきみを愛している。きみだけを、愛しているよ」
サマンサの頬に手をあて、薄緑色の瞳を見つめる。
それから、そっと唇を重ねた。