後手と先手 1
夜会から数日が経っても、なんの連絡もない。
彼は、サマンサが、この森にいることを知っている。
すぐにも連絡が来るだろうと思っていた。
(私の場合は、囮として必要だったっていう……たぶん、契約的な婚約?みたいなものだったのじゃないかしら)
政略的な婚約というより、そっちに近い気がする。
あの「最も危険な相手」を、彼は排除したかったのだ。
なぜ、自分が囮と成り得るような存在だったのかは不明だが、彼は、それを利用したかったのだろう。
(覚えていないけれど、私は、どうして承諾したの? 当然、なにかの取引をしたはずよね? 命を懸けるほどの、なにかがあった、ということ?)
そこは、気にかかっている。
彼がまだ「婚約の解消」を告げて来ないからだ。
皇女は、彼との婚姻を望んでいるような雰囲気があった。
政略的な婚姻を是とするなら、彼に異論があるとは思えない。
領主がアドラント王族と婚姻すれば、よりアドラントは確固とした地位を築ける。
今ですら法治外だというのだから、下手をすれば、半独立国家と言えなくもない地域になるはずだ。
領民からも、大きな祝福を受けられる。
サマンサですらわかることが、彼にわからないとは考えられなかった。
あの親しげな態度からも、皇女との関係を隠す気がないのは明らかだ。
それは、つまり、危険を排除し次第、早々に婚姻するつもりだったからではなかろうか。
(まだ危険があるっていうこと? でも、それならそれで、なにか言ってくるはずよね? また私を囮に使わなくちゃならないのだし)
夜会の会場が、そうした話をするのに不向きだったとしても、ここに話に来ればいいだけのことだ。
もしかすると、相手が同じ手を2度も使わないと判断しているのかもしれない。
だから、サマンサが森にいる間、動きはないと考えているのか。
(だからって、連絡くらい寄越せばいいのに。なにかあるのなら、こっちだって、次の襲撃に備える必要があるのよ? 解決したならしたって言ってほしいわ!)
そして、皇女と婚姻なりしてしまえばいい。
思ったら、ちくりと胸の奥が痛んだ。
そのサマンサの頭に、彼の言葉が思い浮かぶ。
『私が、きみを不要とするまで、きみは私のものだ。それを、きみも承知していたと思うがね』
不要とするまで、と彼は言った。
未だ連絡がないのは「不要」になっていないからだろうか。
自分は、承知していた、らしい。
なにがあれば、こんな理不尽を「承知」するだろうか。
「おー、サム。昼にしようぜ」
「あ……そうね」
サマンサは、少し減ってしまった洗濯物を眺めていたのだ。
眺めながら、物思いにふけっていた。
目の前には、格段に「綺麗」に吊るされた服が並んでいる。
手際も、ずいぶんと良くなっていた。
「ねえ、レジー」
サマンサは、用意しておいた昼食をテーブルに並べる。
リスがいた時とは違い、朝は、ゆっくり目になっていた。
2人で朝食をとったあと、昼食の準備。
そのあと、たいていレジーは薪割りだとか家の修繕だとかをしている。
サマンサは、洗濯や掃除もするようになった。
「ティンザーの家って、財政的に困窮しているの?」
「いやあ? そんな話は聞かねぇなぁ。ティンザーは実直だ。財を食い潰すような暮らしはしてねぇぞ」
ふぅん、と思う。
ローエルハイド公爵は、かなりの資産家のようだ。
ひょっとすると借金の肩代わりでもしてもらったのかと考えたのだが、どうやら違ったらしい。
「どうした、急に」
「あの人、なにも言って来ないわよね?」
「ああ……」
レジーが、少し不機嫌になる。
夜会の日から、ずっと、こんな調子だった。
よほど不愉快だったのだろう。
彼に対して、不信感を募らせている。
(レジーは騎士の家門出身だものね。あの人の、ああいう行動が許せないのだわ)
ケニーの助力のおかげで、サマンサの体裁は保たれていた。
周囲からも「皇女が相手ではしかたがない」との雰囲気が感じられたのだ。
とはいえ、婚約者であるサマンサを尊重しなかったと、レジーは思っている。
それが許せずにいるのだろう。
「私が、まだ狙われているのか、わからないでしょう?」
「詳しい事情は知らされてねぇからな。あれでケリがついたのかは……」
レジーが、肩をすくめた。
公爵次第、とでも言いたそうだ。
「それで思ったわけ。そもそも、なぜ私は囮になっているのかって。それを、私も承諾したらしいじゃない?」
「家に借金でもあるんじゃねぇかと思ったのか」
今度は、サマンサが肩をすくめてみせる。
レジーが、明るい声で笑った。
「ティンザーは、本当に実直で誠実だ。借金だけは有り得ねぇよ。もし、借金するほど贅沢好きなら、サムだって、こんな食事じゃ我慢できなかっただろ」
テーブルには、簡素な料理が並んでいる。
ほとんど自給自足に近い生活をしているので、貴族の食事らしくはなかった。
夜会で出されていた料理のような豪勢さはない。
とはいえ、サマンサは、それを不満には感じずにいる。
「それなら良かったわ。でも、ほかに理由を思いつかなかったのよね」
レジーが、食事の手を止めた。
サマンサを、じっと見つめてくる。
灰色の瞳には、なにか言いたそうな気配が漂っていた。
サマンサは、きょとんとして首をかしげる。
「なに?」
「いや……サムは、公爵様をどう思ってたのかなってな。ちょっと気になった」
「冷酷な人でなしと思っていたのじゃない?」
「けどな。借金はねぇんだぞ? なのに、わざわざ囮になったわけだろ?」
「だから、意味がわからないのよね」
「いっそ、公爵様に訊いて、はっきりさせたらどうだ?」
それが手っ取り早いのは、わかっていた。
だが、気乗りがしないのだ。
自分に記憶がないのを話すのも、気が進まなかった。
「私は覚えていないのだから、向こうの都合のいいように、話を作られてもわからないのよ? 嘘はつかない人のようだったけれど……」
すべてを話すとも限らない。
都合のいいところだけを切り取って話されれば、正しい判断はできなくなる。
レジーが、小さく息をついた。
いずれにせよ、思い出せないのでは、いくら考えても答えは出ないのだ。
「ま、そりゃそうだな。ただ、向こうからなにも言って来ないってことは、当分は安全なんじゃねぇか? 危険だってことなら、この前みたいに、突然、来るだろ」
「そうね。なにか言ってくるまで気にしないようにするわ。期限がわからないのは少し落ち着かないけれど、しかたないわね」
主導権は、彼にある。
それだけは、はっきりしていた。
サマンサは彼に「不要」とされるまで、待つだけだ。
「俺は、サムが傷つかなけりゃ、それでいい」
「さすがシャートレーの騎士様だわ。とても騎士道精神にあふれているのね」
「からかうなっての」
笑い合ってから、席を立つ。
昼食の片づけも、手慣れてきた。
「今日は、昼から出かけるのだったかしら?」
「おー、町まで買い出しに行って来る。ちょっと遅くなるかもな」
「そう。なにかしておくことはある?」
レジーは、少し考えるそぶりをしたあと、顔をしかめる。
そして、渋々といった様子で、サマンサの手を握ってきた。
「安全だとは思う。けど、万が一ってこともある」
「……わかったわ。平気よ、レジー」
サマンサを、1人にすることに抵抗はあるのだろう。
だとしても、2人して籠り切りになってもいられない。
自給自足にだって限界はあるのだ。
「危ないと思ったら、すぐに連絡すんだぞ?」
「ええ、遠慮なく助けを乞うわ」
夜会の日、レジーはケニーから魔術道具を借りてきている。
花瓶の代わりに、箱型の道具を置いていた。
ふれるだけで、シャートレーに「警報」が伝わるのだ。
シャートレーは魔術師を雇っているため、レジーに連絡が行く。
「そんじゃ、行ってくる」
「レジーこそ気をつけてね」
「おー」
手を振ってから、レジーが、しゅんと姿を消した。
レジーも転移が使える。
知った時には、道理でと思った。
釣り場は離れているはずなのに、いつも、レジーは出かけてから帰るまで、それほど時間をかけていなかったのだ。
サマンサは、大きく息をつき、伸びをする。
この小屋は狭くて、部屋も少ない。
掃除をする場所も少ないのだ。
することがないと、また色々と考えてしまいそうだった。
「洗濯物が乾くまで、まだ時間があるのよね」
なにをしようか。
思った時だ。
「お久しぶりにございます、サマンサ様」
びくっと、体がかこわばる。
1人の男性が、室内に現れていた。
それだけで魔術師だとわかる。
「お話があってまいりました」
サマンサには、相手が誰だかわからない。
ちらっと、警報用の魔術道具に視線を走らせた。
だが、魔術師との距離のほうが近い。
赤褐色の髪と瞳を見据えながら、サマンサは、どうすべきかを考える。