遠いのに近くて 4
彼は、今後について、ジョバンニと打ち合わせをしている。
アドラントの私室で、いつも通り、イスに腰をかけて頬杖をついていた。
「リシャール・ウィリュアートンは、キースリーの分家にあずけられたそうです」
「キースリー……ああ、シャートレーの下位貴族だったね」
答えながらも、彼は上の空だ。
本音を言えば、あれもこれも、どうでもいいと思っている。
アドラントなど放っておきたかったし、カウフマンのことも放っておきたい。
ローエルハイドの血が拡散し、それが悪用されたとて、どうでもいいのだ。
(だが、きみの生きていく地を、綺麗にはしておかなければな)
彼の目的は、それだけになっている。
サマンサがどう生きていくかは、彼女次第だ。
だが、その取り巻く環境を整えておきたいと考えている。
危険のない、安心して暮らせる地にしたいのだ。
「アドラント王族を粛清なさるのですね」
ジョバンニから言われ、彼は嫌な気分になる。
先日の夜会のことを思い出していた。
とはいえ、無表情を保っている。
たいていの場合、彼の表情と感情は切り離されているのだ。
「私が、直接、手を下しはしないがね」
アドラント王族の始末は、マルフリートがつけるだろう。
そうでなければ、筋も通らない。
彼は、マルフリートの「味方」を増やす手伝いをしただけだった。
さらに必要があれば、直接に手を下すことも頭にはある。
「彼女は、うまくやるだろうよ」
マルフリートは、十歳の頃から、すでに「女王の器」を持っていた。
そういう瞳をして、彼を見ていたのだ。
いずれ「自分は女王になる」と、その目が語っていた。
遊蕩な皇女を演出していたのも、自らが脅威と見做されないためだ。
「どうせ、カウフマンに飲み込まれた連中だ。彼女が女王となる際の生贄にされたところで、自業自得さ。穢された権威を取り戻せるのなら、安いものだよ」
「アドラント王族が民心を下支えしてくれると、こちらとしても助かります」
「アドラント領民は、アドラント国民だったからね。王族に恨みをいだくものもいるが、敬服している者のほうが、未だに多い」
祖父が、この地を法治外とし、アドラント王族を排斥せずに残したのは民からの反発を抑えようとしてのことだった。
当時の宰相ユージーン・ウィリュアートンが手を尽くしてくれたのだという。
リーフリッドはともかく、ユージーンとキースは剛腕な宰相で、どれほど王宮を紛糾させようと、その意思を曲げることはなかったのだ。
おかげで、アドラントは平和でいられたと言える。
ただ平和が長引けば、箍が緩むものでもあった。
今のアドラント王族はカウフマンによって欲に溺れさせられている。
もちろん、彼が領主としての権限で、罰することもできたのだけれども。
「腐っても権威、ということだね。民が内情を知らないのをいいことにしている。その危うさに、マルフリート皇女だけが、幼い頃から気づいていたのだよ」
「ですが、民が皇女を認めるでしょうか?」
「遊蕩のことを、心配しているのかい? そのようなものはね、きみ。どうにでも書き換えられる筋書きのようなものさ。事実、彼女は誰とも寝ていない」
むしろ、遊蕩に見えていたものが実は違っていた、というほうが、人心を掴む。
民たちは、自らが浅はかだったと、反省すらするに違いない。
そして、マルフリート皇女は、女王としてアドラントの「権威」となるのだ。
彼にとっても、領民の心が穏やかであってくれたほうが、都合がいい。
いずれにせよ、カウフマンに染まった者は、排除するつもりでいた。
ただし、彼が手を下すより、マルフリートを立てたほうが影響は少ない。
彼は、サマンサの言葉を思い出している。
『結果がすべてと言うなら、同じ結果を得るために、より良い方法を取ったほうがいいじゃない』
回りくどい手ではあるが「より良い方法」だ。
宮殿に血の雨を降らせるよりは、ずっといい。
民を怯えさせることもないだろう。
彼は、いずれ居を移すと決めていた。
サマンサが来る以前、4年前から、考えていたことだ。
ジョバンニとアシュリーが結ばれてくれれば、この地を2人に任せる。
当初は、2人が婚姻するような関係になれるかどうかは、わからなかった。
だが、今は確約されている。
アドラントが、ローエルハイドの領地であるのは変わらない。
だとしても、管理や運営、権限は、下位貴族のコルデア侯爵家に渡す。
ジョバンニは、初代コルデア侯爵家当主であり、アドラントの領主となるのだ。
彼は、アドラントから税収を取ろうとは思っていない。
今でさえ、ほとんど無いに等しい程度だった。
今後、アドラントをどうしていくかは、ジョバンニとアシュリーが決めていく。
2人なら、うまくやれるはずだ。
(街に出た時、彼女と一緒なら、政に手を出してもいいと思ったっけ……)
サマンサは、政に興味があるらしかった。
果物を手に取り、高いとか安いとか話していたのを覚えている。
(それも楽しそうだったが……日頃は、2人だけで、ひっそりと過ごして、時々はティンザーの相談に乗ったり、王都の屋敷の切り盛りをしたり……そういうふうに過ごせたら……)
「我が君、お訊きしてもよろしいでしょうか」
「ああ、なにかね?」
自分の願望を、頭から消した。
幻想の世界に浸る時間は、この先、いくらでもあるのだ。
サマンサの無事を確保し、ロズウェルドを綺麗にすれば、彼の役目は終わる。
それでも、サマンサが生きている限り、遠くから見守り続けるに違いない。
彼女に再び危険が訪れないとは、言い切れないからだ。
「サマンサ様は、いつお帰りになられるのですか?」
彼は、言葉を失う。
ジョバンニは、彼の次に、今の状況を把握していた。
サマンサが戻る要素など皆無だと知っている。
頬杖をやめ、ジョバンニに赤褐色の瞳を見つめた。
「いつ、我が君は、サマンサ様をお迎えに行かれるのでしょう?」
「きみは……なにを言っているのかね……?」
ジョバンニは、本気らしい。
彼から目をそらすことなく、まっすぐに視線を繋げている。
その瞳にも、揺らぎはなかった。
本気だということだ。
「彼女は、ライナール・シャートレーと一緒にいる」
「存じております。ですが、それが理由になるとは思えません」
「ジョバンニ、彼女がレジーを選んだのだよ」
「私がお訊きしているのは、サマンサ様のことではございません」
「では、なにかね?」
ジョバンニの言いたいことを、彼も理解した。
理解した上で、拒絶を示す。
冷ややかな瞳で、ジョバンニを見据えた。
「我が君のなさりたいことを、お訊きしております」
「私のしたいことだって? 私は、彼女を自由にする。それだけだ」
「それが、サマンサ様の望みだからですか?」
「それ以外に、なにがある。彼女の望みは、暖かく愛のある暮らしだ」
自分には、けして与えることのできないもの。
「彼女の選択は正しい。レジーなら、彼女の望みを叶えられる」
「私が、お訊きしているのは、サマンサ様のことではないと申し上げたはずです」
「私も、私のしたいことを答えたはずだがね」
「いいえ。我が君は、サマンサ様の望みとしか、答えてはおられません」
「彼女の望みを叶えることが、私のしたいことだと言っているのだよ」
ジョバンニが、スッと跪いてきた。
彼を見上げ、口を開く。
「それでは、サマンサ様が、我が君に守られたくないと仰られたら? 我が君の手、庇護を拒絶したいと仰られたら、いかがいたしますか? それが、サマンサ様の望みならば、我が君は、それを受け入れられ……」
バァンッ!!
私室内の音は、外には漏れない。
だが、内側は別だ。
大きな音とともに、そこいら中にあったものが、みな弾け飛んでいる。
ツ…と、ジョバンニの頬から、ひと筋の血が流れ落ちていた。
彼は、イスに座ったまま、両手で顔を覆う。
「彼女は……サミーは、もう戻らない……私が彼女の手を放した……彼女に惨めな思いをさせ、傷つけた……私には、彼女の幸せを奪う権利などない……」
「ですが、我が君のお心を告げることはできるではありませんか」
「今さら、愛していると言えと?」
「今さらでも、お伝えすべきにございます」
彼は、顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。
イスから立ち上がり、窓の外を見る。
冬の濁った空だった。
昼間は灰色に見える分厚い雲が、真っ暗な空では白く見える。
「私は、彼女に愛されることは望んでいない」
彼は、サマンサを愛していた。
だからこそ、彼女の愛は望まない。
「私ですらできたことが、我が君に、できないはずがあるでしょうか」
「きみだから、できたのさ」
アシュリーが、実家のセシエヴィル子爵家に帰ると言い出した日だ。
ジョバンニは、それまでの関係を捨て、アシュリーに心を差し出している。
アシュリーを守り、慈しむのは、己でなければ嫌だと言った。
そのためなら、彼とも対峙するとの意思を示した。
だが、彼には、レジーと対峙する気はない。
たとえ、レジーがいなかったとしても、サマンサに、心を打ち明けるかどうかも迷っていたほどだ。
彼は、静かに言う。
「私は、彼女に愛されようとは思っていない」
「サマンサ様を、愛しておられることを、我が君は否定されませんでした」
「否定できないさ。私は、彼女を愛している……」
サマンサを失ったら、自分も生きてはいけない。
そう感じずにはいられないほど、彼女を愛していた。
「サミーは……私の愛するたった1人の女性だ……なにがあろうと変わらない」
ライナール・シャートレーと婚姻しようが、子供を持とうが。
彼の心から消えることはない。
「ジョバンニ、私は……」
サマンサを愛してから、彼は、心を守るすべを失った。
最低限のことはできても、彼女が絡むと簡単に崩れ落ちる。
長く否定してきた父や祖父の気持ちを、彼は、今、身に沁みて味わっていた。