多くは望まないよう 1
危険は去った、のかもしれない。
けれど、リスの旅立つ時は訪れている。
大人の都合で、リスを振り回すことはできなかった。
「ちゃんと、ご飯を食べるのよ、リス」
「ん……サムもね……」
最後に、リスを抱きしめてから、手を引く。
家の外では、数人のシャートレーの騎士が待っていた。
その中に、ケニーもいる。
隣には、いつぞや見たのとは違う、フード姿の魔術師が立っていた。
ウィリュアートンではなく、シャートレーに雇われている魔術師なのだろう。
「サム、甥っこにも、リスを守るように言ってある。心配すんな」
「そうだね。キースリーの娘も、とてもしっかりしているから、安心してほしい」
「わかっているわ」
リスの手を、そっと離す。
リスが、サマンサを見上げ、にっこり笑った。
「じゃあね」
「ええ。じゃあね」
またね、とは言わない。
いつでも会えるから、とも言わなかった。
リスは頭がいいので、きっと、その意味に気づいている。
だから、大丈夫だとサマンサに示すために、笑顔を見せてくれたのだ。
リスが、ケニーの元に歩いて行く。
小さな背中が遠ざかっていた。
魔術師が開いた点門の前で、リスは足を止め、振り返る。
サマンサに手を振る姿に、泣きそうになるのを我慢した。
そして、サマンサも手を振り返す。
リスが点門を抜け、それに続いて、ケニーと騎士たちも姿を消した。
とたん、胸に、ぐっとせり上がってくるものがある。
サマンサの瞳から、涙がこぼれていた。
記憶をなくし、不安定になっていたサマンサの心を支えてくれていたのは、あの小さなリスだったのだ。
愛してほしいと、必死にしがみついてくる子供。
わずかな時間ではあったが、リスに愛情をそそぐことで、サマンサも満たされていたと、気づく。
自分が愛したからといって、相手からも愛されるとは限らない。
だが、サマンサもリスも、愛したかったし、愛されたかったのだ。
それが符号したから、お互いに心穏やかでいれられた。
「サム……そろそろ中に入ろうぜ。風邪、引くぞ」
「そうね……また頭痛に悩まされるのは嫌だわ」
涙をぬぐい、レジーと一緒に家に戻る。
2人でソファに座ったが、窮屈には感じない。
リス1人分の余裕があるからだ。
いつも、レジーとサマンサの間に、リスは座っていた。
その場所を、手で撫でる。
「……リスが、幸せになれますように……」
「ま、幸せなんてのは、人それぞれだ。あいつは、自分のやりたいことを見つけて、うまくやってくんじゃねぇかな」
「頭がいいから?」
「理解したとは思う」
レジーは、いつものように、ソファに深くもたれかかっていた。
背もたれに頭を乗せている。
「人はそれぞれ違ってて、自分を嫌う奴もいれば、好きになってくれる人もいる。それだけのことなんだって、わかっただろ」
「あなたって、本当に楽観的なのね」
「おー、俺は大人だからなぁ」
サマンサは、ちょっとだけ笑った。
レジーの言葉に、うなずける自分がいる。
見た目や体裁にこだわる人もいれば、まるきりこだわらない人もいるのだ。
サマンサを嘲笑う人だけが、すべてではない。
外見なんてどうでもいい、と言う人もいる……いた。
(そういう人を、私……知っているみたいだわ……以前の私は、容姿にこだわっていたのでしょうね。令嬢としては、悪い意味で目立っていたようだし……)
レジーが気づかなかったほど、今とは違っていたらしいのだ。
ならば、自分の外見に、引け目を感じていてもおかしくなかった。
どんなふうだったのかは思い出せないが、自信を持っていたとは思えない。
だが、そういうサマンサでもいいと言う人がいたのではなかろうか。
過去形で物事を考えたのは、そのせいだという気がする。
(……あの公爵……? まさかね。彼は、外見で苦労する男性ではないもの。だいたい人の痛みをわかるような人物ではないわ。冷酷で、人でなしだったものね)
そう言えば、と思った。
サマンサのことを、彼は「婚約者」だと言っていたのだ。
おそらく、政略的なものであったのだろうとは思う。
サマンサ自身、彼を自分が選んだとは考えられないし、彼が、自分を選んだとも感じられなかった。
(私を囮にしたくて婚約したということは有り得そうだわ。私の願いが叶えられるって言っていたのは、そういう意味じゃない?)
『あと、ひと月ほどの我慢だ。そのあと、きみは願いを叶えられる、そのために、きみには、私のための囮になってもらおう、サマンサ・ティンザー』
彼は、そう言っている。
そのひと月の期限は、残り半月ほど残っていた。
囮役はすんだようだが、自分は「自由」になれるのだろうか。
彼からの連絡がないので、わからない。
「サムも、家に帰るか?」
「え……?」
「ティンザーの屋敷に帰るか?」
そこには家族がいる。
帰れば、なにか思い出せる可能性もあった。
心配をさせているようでもあるし、顔を見せておくほうがいいのは確かだろう。
サマンサは、しばらくの間、レジーの提案について考える。
考えた末、首を横に振った。
「もう少し、ここにいても、いいかしら? あなたに、迷惑をかけるのはわかっているのだけれど……」
「俺は、かまわねぇぞ? 人の世話を焼くのは嫌いじゃないんでね」
「知っているわ」
「けど、いいのか? ティンザーの家族に会わなくても」
会いたい気持ちがないとは言えない。
自分には家族がいて、心配してくれているのも、わかっているのだから。
「彼らを忘れているのがつらいのよ。覚えていないなんて言えば騒ぎにもなるわ。これは、病気じゃないでしょう? 今の私では、家族と言われても……変に、よそよそしくなってしまいそうで……もう少しだけ、ここで過ごしたい」
どうしても思い出せないと諦めがつくまでは、顔を合わせることに抵抗がある。
記憶がないことで、落胆させたり、傷つけたりするのが怖かった。
サマンサが、心の整理をするためでもある。
思い出せる保証は、どこにもないのだ。
「あと半月でいいわ。もし、それで思い出せなければ、諦める。新しい自分としてだけ生きていくことに決めるから」
「わかった。サムが、そうしたいんなら、俺はとやかく言わねぇさ」
もし思い出せなかったら、という話は、以前にもしたことがあった。
ここで暮らせばいいと、レジーは言ってくれている。
思い出すのを諦めて、家族にも打ち明けて、そのあと、ここで暮らしていくのもいいかもしれない。
「この辺りは、シャートレーの領地なのよね?」
「この森の手前のところは、そうだな」
「手前?」
「サムを見つけた川の向こう側と、半島全域はローエルハイドの領地だ」
「え……? そうなの……?」
「ローエルハイドの領地は、元々、領民のいない森ばかりなんだよ。王都の屋敷とアドラント以外、人は住んじゃいない」
となると、彼が領地に現れることはなさそうだ。
川の下流からは離れているし、行く用もない。
なんとなく、彼とは顔を合わせたくなかった。
気まずさもある。
『ああ、サム、サミー! きみを失うかと……っ……』
本気で心配していたのかと思えるほど、切羽詰まった様子だったのを覚えている。
その彼を、サマンサは突き飛ばすようにして、押しのけてしまった。
リスのことがあったからだとしても、そのリスを助けてくれたのも彼なのだ。
なのに、彼に対してだけは、まともに礼を言っていない。
抱きしめられたことに戸惑い、ひどく落ち着かない気分にさせられていた。
彼は、すぐに冷ややかな態度に戻ってもいたので、混乱したというのもある。
なにを考えているのか、サマンサには、少しも理解できずにいた。
(婚約者という立場上、私に、なにかあったら困るのよ、きっと……囮にはしても命まで取られてしまっては、都合が悪かったのだわ……)
ローエルハイドもティンザーも公爵家だ。
サマンサが殺されたら、なにか不利益を被ることは考えられる。
我ながら、ひねくれた考えだと思わなくもない。
だが、そうでも思わなければ、彼の態度に説明がつけられなかった。
大事にしているのなら、なぜ囮になどするのか。
囮にしたくせに、なぜ、あれほど心配したのか。
彼の言動は、矛盾に満ちている。
とても理解できそうにないと、サマンサは諦めた。
ともあれ、あと半月で結果は出る。
彼が婚約を解消するつもりでいると、彼女は予感していた。
不意に、胸が、ずきずきと痛み始める。
頭痛はしていないのに、胸が苦しい。
彼の冷たく黒い瞳が、サマンサを捉えて離さないのだ。
(……私たちの婚約に……愛はない……彼は、私を愛してはいない……)
それだけは、なぜか確信している。
記憶を失う以前から、そう思っていたのではないか。
そう感じられてならない。
「やっぱり風邪をひきかけてるみたいだな、サム。顔色が悪ィぞ」
レジーの声に、ハッとなった。
サマンサの頬に、レジーが手を当てている。
灰色の瞳は穏やかで、ホッとした。
心がざわつくような感覚は、必要ない。
あの黒い瞳は、見つめているだけで吸い込まれそうになる。
サマンサは、少しだけレジーに寄りかかった。
目を伏せ、なにも考えないことにする。
やはり、もうしばらくはここで、ゆっくりとした時間を過ごしたい。
「このまま寝ちまえ。あとで部屋に運んでやるから。今日は疲れただろ」
レジーが、ゆるく頭を撫でてくれる。
その感覚に、サマンサは、眠りに引き込まれていた。
けれど、夢の中にも、彼の声が落ちてくる。
『私も、きみに頭のひとつも撫でてもらいたいものだ』