境界と臨界 3
厄介者。
その言葉に胸が痛んだ。
サマンサは、自らが厄介者扱いされていると感じていたのだろう。
彼が、半月もサマンサを放っておいたせいだ。
なにもさせず、情報も与えず、幽閉に近しい状態で置き去りにしている。
フレデリックに会いに行くことは許していたが、それだって、彼が直接に彼女に伝えていたわけではない。
サマンサが言い出したら対処するよう、ジョバンニに指示をしていただけだ。
そういう態度が、彼女を「惨め」にした。
サマンサに、けして惨めな思いはさせないと約束していたにもかかわらず。
その上、ここにはライナール・シャートレーがいる。
彼がサマンサの相手として、ちらりと頭に浮かべた人物だ。
旅に出ていると聞いていたため、候補から外したのだが、意図せずして、2人は出会っている。
レジーことライナール・シャートレーは、シャートレー公爵家の次男だった。
双子の兄ケンドール・シャートレーが時期当主とされている。
代々、王宮の近衛騎士を任されており、真面目できちんとした家柄でもあった。
サマンサにとって、これほど見合う相手もいない。
(対抗措置か……シャートレーを動かすというのだな)
王宮の近衛騎士をしているため、シャートレーと王族との関係は近い。
現在、王族とは距離をとっているローエルハイドより、ずっと懇意なのだ。
レジーがシャートレーを動かせば、それは王族も動く、ということになる。
2人を守るためなら、レジーは手段を厭わないだろう。
常には助力を求めたりしない王宮魔術師も呼び寄せるに違いない。
(魔術師なと脅威ではないが、王族と敵対するのは不本意だ)
彼は、3人を見つめた。
体を寄せ合い、庇い合っている。
彼がここに来たのは、サマンサを守るためだ。
なのに、彼女自身は、彼からレジーや子供を守ろうとしている。
シャートレーの対抗措置よりも、それは大きな壁と成り得た。
サマンサの意思の固さは知っている。
それに、今のサマンサには、ここのほうが「大事」な場所なのだ。
彼の元ではなく。
(無理にでも連れ帰る、というのは無理だな。カウフマンのことに決着がついたら自由にすると言っても、聞かないだろう)
相変わらず、サマンサは、じゃじゃ馬だった。
死んでいるのではないかと恐れていたので、むしろ、安心している。
彼に花瓶を投げつけてくるくらいに元気だったのだから。
「彼女は、命を狙われている」
3人が、彼に視線を投げてきた。
サマンサも、驚いた顔をしている。
カウフマンの手が伸びているとの自覚はなかったらしい。
確かに、トリスタンの猟犬を総動員しても、見つけられずにいた。
この半月、サマンサは穏やかに暮らしていたはずだ。
ここが安全だと誤認しても不思議ではない。
「きみが、ここにいれば、彼らも危険に巻き込むことになるのだよ?」
卑怯な言い草なのは、承知している。
だが、事実だ。
そして、その理屈が通らないこともわかっていた。
「2人のことは、俺が守る」
そう言われると予測はしている。
レジーは、騎士ではあるが、兄とは違い、魔術師でもあるのだ。
正式な部隊はないが、かつて、大公が率いていた、魔術騎士と呼ばれる者と同じ能力を持っている。
彼は、レジーを、じっと観察した。
シャートレーである以上、騎士としての腕は申し分ないだろう。
魔術に関しては、攻撃に特化しているようだった。
おそらく補助や治癒の魔術は使えない。
レジー、それに近衛騎士や王宮魔術師を総動員しても、サマンサを守り切れないと、彼は判断する。
たった1人、退けられない者がいるからだ。
何万という大群で包囲しようが、ジェシーには勝てない。
必ず敗北する。
しかも、一瞬で皆殺しだ。
その中には、サマンサも含まれることになる。
わかっていた。
それでも、サマンサを引き剥がすのは無理なのだ。
彼女の意思を尊重したいのは、彼とて同じだった。
奇跡の子について話してはいたが、その危険性までもは話していない。
説明をして理解を得るのは可能かもしれないけれど。
サマンサの幸せは、ここにある。
あの子供とサマンサを引き離せはしないのだ。
彼女から大事なものを奪うことになる。
「そうまで言うのなら、きみに任せよう、レジー」
彼は、指先をちょいっと動かし、レジーを呼んだ。
レジーが、大丈夫というように、サマンサの肩を軽く叩く。
それから、立ち上がって、彼のほうに歩み寄って来た。
「これを持っていたまえ」
彼は、なんの飾り気もない指輪をレジーに渡す。
真っ黒な輪にしか見えない代物だ。
まだ仕上がっていないため、見た目が整っていない。
だが、用途としては十分な効力が発揮できる。
「これは?」
「最も危険な者が近づくと、反応するのさ」
指輪には、彼の血が混ぜてあった。
濃い血にのみ反応する。
つまり、ジェシーが近づけば、彼に伝わるのだ。
彼ですら、遠くにいるジェシーのことは認識できない。
目視する必要がある。
とはいえ、目視さえできれば、認識はできた。
血の呼応とでもいうべき効力が、その指輪には付与されている。
レジーがジェシーを目視した瞬間、指輪を通じ、彼にも、その存在が認識できるようになるのだ。
「その相手には、絶対に手を出さないように。きみは彼女を守ることだけを考えていればいい。きみが立ち向かったところで、命を落とすだけだ」
ぎゅっと、レジーが指輪を握り込む。
彼の言葉に真実味を感じたのだろう。
今でさえ、レジーは、彼に恐怖を感じていないわけではないのだ。
魔術師としての力を持っているため、彼の力の大きさを理解している。
ただ、2人を守ろうとする意識だけで、その恐怖と闘っているに違いない。
単なる虚勢でないことは、彼も感じていた。
それでも、彼の言葉に嘘がないのも、レジーにはわかっているのだ。
これが、彼の「最大限の譲歩」であることも。
彼は、サマンサのほうに顔を向けた。
サマンサは立ち上がり、子供を背に庇っている。
薄緑色の瞳が、とても遠くに感じられた。
彼を見ているようで、見ていない。
(きみは、もう……私を見限ったのだね……今さらと言われるまでもなかったな)
サマンサへの気持ちを認めたところで、意味はなかったのだ。
彼女の心は、彼の元から離れてしまっている。
機会はいくらでもあったのに、すべてを手放してきた。
彼の愛は、サマンサにとって「不要」となっている。
長く「愛は不要」としてきた、ツケが回ってきたのだ。
そう思って受け入れるよりほかない。
早く安全な暮らしを提供し、サマンサを自由にするしか、できることは残されていない気がした。
「ひと月ほど我慢したまえ。そのあと、きみは願いを叶えられる。それまで、きみには、私のための囮になってもらおう、サマンサ・ティンザー」
新しい愛を手に入れる。
それが、彼女の願いだ。
彼には、その願いを叶えることはできない。
サマンサには、レジーがいる。
暖かく穏やかで、愛のある暮らしを、レジーは彼女に約束できる。
自分とは違うのだ。
「あなたって人は……本当に、人でなしね」
「繰り返し言ってもらわなくても、知っていると言っただろう」
「私を囮にして、その最も危険な相手を釣り出すのね?」
「その通り」
「2人にも危険がおよぶのではないの?」
彼は、軽く肩をすくめてみせた。
サマンサの憂いを断つためにも、彼女を突き放す必要がある。
「そもそも狙われているのは、きみであって、そこの2人ではない。最悪、きみが殺されてしまえば、事態はおさまるさ」
事態はおさまる、というのは本当だ。
ただし、彼自身がどうなるかはわからない。
彼女を失ったらと思うだけで、心が砕け散りそうになるのだから。
「そう。それなら、安心ね」
「サム! 俺が守ると言ってるだろ!」
振り向いて言うレジーに、サマンサが微笑んだ。
以前は、彼に向けられていた微笑みだった。
「いいのよ、レジー。自分だけのことですむほうが、気が楽だもの」
「心配することはない。私がいれば、問題はないさ」
サマンサが、冷たい瞳に彼を映している。
見も知らない誰かを見るような目だ。
どうやら、彼女の心から、すっかり追い出されてしまったらしい。
「わかったわ。私だって、2人を巻き込むのは本意じゃないもの。危険を回避するためなら、あなたの助力を拒みはしないわ」
スッと、サマンサから視線を外した。
彼女を抱き締めるための腕には、なにも残らなかったのだ。
なによりも大事なものを、取りこぼしてしまっている。
すべてが手遅れ。
(サム、サミー……きみを愛しているよ。必ず、きみを守ってみせる。どんな手を使っても)
彼女から愛される可能性は失ったが、彼女自身の存在は失っていない。
サマンサのいない世界では、彼も生きられはしないのだ。
「よろしい。交渉成立だ」
そう言い残し、彼は姿を消す。
彼女のぬくもりは、2度と戻らない。