HOSTA
久里子から電話が掛かってきて、僕は酷くたまげた。僕の方からだったら数多くあれど、彼女の方から電話してくるなどというのは今まで一度もなかったのだ。
とても新鮮な出来事に僕は、彼女との関係が進展した嬉しさと未知への恐怖を半分ずつ抱えながら、携帯電話の通話ボタンを力強く押した。周りにいる乗客のことなど、すっかり頭から吹っ飛んでいた。
「もしもし、どちら様ですか?」と通話先の『男の声』が言った。
僕は自分に向けられた会社帰りらしき疲れた表情のサラリーマンたちの何とも言えない冷静な視線と、窓の枠を早々に去っていくネオンの川を交互に見やりながら、携帯電話の先から答が掲示されるのを待っているしかなかった。きっとこれは何かの間違いだ、と。
しかしそんな僕の淡い希望を打ち砕くように、解答のない問題を投げかけたまま、通話はぷつりと切れた。
僕が状況を把握できずあんぐりしている間に、電車が次の駅に到着した。ドアの付近に密集していた人々が急ぎ足で外に放出されていき、間髪入れずにまた新たな人々の波が押し寄せてきた。
窓の先には大きなパチンコ屋の看板があり、ピカピカと無駄に豪華で下品な輝きを放っていた。明日またある仕事や自分を待つ家族の為に一刻も早く我が家に着きたい人々は、そんな看板など気にも留めず、颯爽とホームの階段に消えていった。
そこでふと僕は、「ここが降りるべき駅」だという大切なことを思い出し、急いで人の群を掻き分け、ホームに脱出した。
同時に、駅員の「駆け込み乗車は止めて下さい」というたくましい声と、電車の沈着な発車音が響き、背後の扉が大袈裟な音を立てて閉まった。
ゆっくりとスピードを上げて去っていく白い車体を見送り、僕は自分の失態を恥じながらホームのベンチに力なく腰を下ろした。まだ終電という訳ではないが、ベンチには僕以外誰の姿もなかった。
きっと久里子も、こんな他愛のないミスを犯しただけなんだ。すぐに訂正の電話が掛かってくるに決まってる。僕は両手で頭を抱え、そう願い続けるしかなかった。
しかし、久里子から謝罪の電話はやってこなかった。
「ごめんなさい。サークルの先輩がベロンベロンに泥酔してて、わたしがトイレに行ってる間に勝手に携帯を使っちゃったみたいなの」
久里子が両手を合わせて謝ってきた。帰宅するまでその答を教えてくれなかった彼女に僕は苛つき、不満をぶつけるしかなかった。
「だったらそうだって、何で早く電話してこなかったんだ。僕がどれだけ落ち込んだと思ってるんだ? どんな気持ちで家路を歩いてきたと思う?」
「いや、だから説明してるでしょ。先輩がわたしの知らない間に携帯を使ってたの。トイレから出た時、わたしの鞄に入れてあった携帯が何故かテーブルの上に置いてあったから、おかしいなとは思ったんだよ? でも問い質しても、先輩からまともな解答は返ってこなかったの。家に帰ってきて、智史の質問責めにあって、ようやく合点がいったってわけ」
そう平然とした顔で言った後、久里子は冷蔵庫からビールの缶を取り出し、僕の座るソファーの前のテーブルにそれらを置いた。缶は大量の汗をかいており、それが僕の喉の内側を無性にくすぐったくさせた。
「飲み会から帰ってきたばかりなのに、大丈夫なのか?」
「智史と違って、わたしはお酒に強いから大丈夫なの」微醺すら帯びていない、至って冷静な顔のまま久里子は言った。
「それよりも心配なのはわたしの方よ。智史ってお酒入ると、服の脱がせ方がけだものみたいに乱暴になるから嫌なの」
僕は何も言い返せなくなった。確かにそれは、過去に幾多も起きている、否定しようのない事実だからだ。
案の定、僕は久里子の服を乱暴に脱がせていた。まるで、己の内にまだ残っている苛立ちを全て、久里子の服にぶつけるようだった。
「ほら、やっぱりこうなった」
床と僕の股の間に力なく倒れている久里子が小さく息を吐いた。久里子のブラウスのボタンは全て千切れ、しわだらけな布が彼女の胸の大切な部分を辛うじて守っている。
「ごめん、またやっちまった。どうしても我慢できなくて」僕は久里子の長くて細やかな睫を見つめながら謝った。
「理性が足りな過ぎよ。けだものね、これじゃあ」
僕からの視線に気が付いていても、久里子は表情を微動だにさせない。胸を隠そうともしなければ、敢えて胸をくすぐる布を退けようともしない。この後自分の体がどうなるのかは、まったく僕に委託しているのだ。
いつも僕のことをけだものだと言ってくるが、どれだけおざなりなセックスをしても、久里子が拒絶をしたことはなかった。
ただし、久里子が行為で喜んでくれたこともなかった。日常生活の中でも見つけられない笑顔を、行為の中で見つけられる筈がなかった。
僕には大学の帰りに頻々寄る店がある。その日もやはり僕は、大学の帰りにその店に寄った。
僕の降りるべき駅の一つ前で下車し、噴水のある広場に面したロータリーを行くと、バスセンターがある。そこのバスには帰りに世話になるが、今は別段用がない。
駅の周辺には華やかな店がたくさん並び殷賑だというのに、徒歩でおよそ十分離れてしまうだけでえらく物淋しい住宅ばかりになってしまう。影に飲み込まれそうな住宅たちの隙間を縫い、まるで何かから隠れるようにその店はある。
齢七十を越えた老婆がやっている煙草屋と、質素な滑り台があるだけの小さな公園の間の路地を入っていく。腰が窮屈そうに曲がった老婆が店頭の雑誌を整理整頓しており、公園にはコンクリートの壁とキャッチボールをする男の子が一人いた。
少々進むと突き当たりに古びた建造物が現れる。ガレージのように入口のシャッターが大きく開いているが、まさかここが店だなんて普通は思わない。看板の一つですら出していないのだから。
何かの拍子でたまたま路地に入ってきた「部外者」がいたとしても、ここで皆引き返すだろう。外からでは発見しにくいが、入口を越えたところに地下への階段がある。
やたらぐるぐると回らされる階段を下りると、木の扉が現れる。中からピアノの音が微かに聴こえてくる。即座に弾いてる人間のレベルが分かる。とても下手くそだ。
扉を開けても鈴が鳴るといったようなことは起こらない。それどころか客が来てもマスターは挨拶すらせず、カウンター内の椅子に座って眠りこけている。律儀に腕と足まで組んでいる辺りなど、ふてぶてしいことこの上ない。
あら、こんにちは。
女性の美しい声がした。短めな花柄のキャミソール型ワンピースを着た、三十がらみの声の持ち主がピアノから立ち上がり、こちらにやってきた。ここで働いてるエレナだ。
「相変わらず素晴らしい美声ですね。まるで天使の声だ」間近にあった丸型テーブルに断りなく座りながら僕は言った。
エレナも同じテーブルに座った。胸元が大胆に空いてるのに、あまり魅力を感じない胸だった。
「ありがとう。でも、ピアノについては褒めてくれないのね」
「声があまりにも魅力的だから、他の長所が霞んでしまうだけです」
ふふふ。濃い紅で塗りたくったエレナの唇から、僕の知る限りで最も澄んだ笑い声が漏れた。
「お世辞が上手なのね。でもちゃんと分かってるわ、わたしにはピアノの才能がないってこと」
僕は何も言えなくなって沈黙した。エレナは無言で微笑し、怠惰の塊みたいなマスターがいるカウンターの方に行ってしまった。
彼女の声が素敵なのは本当だ。歌ったところを一度たりとも見たことがないので歌唱力は判断しかねるが、声に関して言えば、完璧だ。人の耳を強引に傾けさせ、壮麗な世界にいざなう魔力を秘めている。
そんなエレナが歌手になろうともせずに、こんなちっぽけなバーで幼稚園児レベルのピアノを披露している理由が分からない。やはり、歌唱力に難があるのだろうか。
いや、そうだとしても、エレナはこんなところにいてはいけない人間だ。何の弱みを握られてるかは知らないが、どう仕様もないマスターと一緒に廃れて良い人間ではない。
歌唱力がないのならば、ないなりに声を生業としたものがあるではないか。アナウンサーだとか声優、コールセンターで働くなどでも良い。
とにかく、彼女の声をもっと世の中に聴かせるべきなのだ。宝の持ち腐れなど許されはしない。
「これ、どうぞ」エレナは最高の声を添えて、ジョッキーのビールを賄ってくれた。カウンターに目を向けてみると、やはりマスターはふんぞり返っていた。
「マスターには秘密ね」と彼女は言った。
だらしのない男が妬ましかった。エレナをこんな窮屈な世界に閉じ込めて独り占めしようだなんて、浅ましいことこの上ない。
僕の胃袋はいつの間にか大きな空洞ができたように飢えていた。早く何かを補充しろと騒いでいる。ジョッキーを勢いよく掴むと、中身を二口で飲み干した。
エレナは頬杖をつきながら、僕の喉をなぞるように見つめている。「次からは有料よ」
胃はまだきりきりしているが、喉は傷付けられたように苦痛を訴えていた。僕は次の注文を断った。
「何よそれ、これじゃあ商売にならないじゃない」
エレナは頬杖を外すと、わざとらしく頬をぷっくりと膨張させた。すぐ近くで熟視してみると、彼女の頬は赤過ぎた。三十路を意識して化粧をやり過ぎた所為だ。
エレナは自ら色々なものを隠し過ぎなのだ。それによって今まで見えなかったものを逆に見えるようにしてしまっているのだから、本末転倒だ。
「あなたは隠し過ぎだ。もっと素の自分を見せていくべきだ。世のため、そして自分のために」
エレナの真っ黒な目の枠が大きくなっていく。僕は言ってから自分の言及にたまげた。知らず知らずのうちに己の心のうちを晒け出していた。
「この世はあなたが思ってるよりもずっと残酷よ。天はわたしに欲しい才能を与えてくれなかったの」
「違う」僕は低く、それでいて力強い声を腹の底から絞り出した。
「それはただ、自分にないものを人が持っているのを見て、羨ましくなっただけだ」
冷ややかに僕を捉えていたエレナの瞳に、陰りが現れた。僕はここぞとばかりに、更に言葉と情熱で押し続ける。
「個数は違うかも知れないけど、人間誰しもが、何かしらの才能を持っているんだ。でもそれが自分の望む才能だったなんて人間は、ほんの一握りしかいない。自分の才能が何か気付かないまま、一生涯を終える人間も多い。天才ってのは、自分のやりたいことを順調にこなせる人間のことじゃない。自分の才能を最も有効活用させられる術を模索できる人間のことだ」
陰りを帯びていたエレナの瞳には、涙と僅かな希望の光が浮かんでいた。
もうすぐだ。もう少しでエレナは、その才能を開花させる。先行きの見えないこの暗雲な世の中に、彼女の天使の声が響き渡り、人々を導く日がやってくる。
僕の才能によって。
「でも……わたし……」
冷静沈着なエレナから、らしからぬ弱々しい声が発せられた。まるで、触れてしまうだけで壊れてしまうほど繊細な、ガラス細工のようだった。
でも大丈夫だ。僕はガラス細工を扱うのに関しては長けているから、壊さずにいじることができる。
「確か、彼女がいるんじゃなかったかしら?」
僕の手を自分の髪に絡ませながらエレナは言った。散々喘いで疲れているからか、彼女の声にはいつもの覇気が宿っていない。
「うん、いるよ」僕は正直に答えた。
「悪い人ね」エレナはちょっとだけ上半身を起き上がらせると、頬を下にして僕の二の腕に飛びついてきた。
ベッドが三回軋んだ。一回目から回数を重ねるごとに順序正しく音は小さくなっていったが、それにしても三回目の音はやけに小さかった。部屋に滞った暗闇に吸い込まれていた。部屋中に冷気を撒き散らすクーラーの音に、儚く掻き消されてしまったのだろう。
「僕を軽蔑する? 今日のことは綺麗さっぱりなかったことにする?」
「ううん、そんなことはないわ」エレナは僕の胸に右手をことりと載せた。右手で僕の心臓の鼓動を測っているかのようだった。
「今日あなたがしたことは、わたしの人生に大きな影響を与えてくれたに違いないわ。たくさんの空洞を埋めてくれたの。勿論精神的にも、身体的にも」
僕は豊かな想像を膨らませはじめた。エレナの声が瞬く間に世を騒がせ、マスメディアがこぞって彼女の取材をしようと競う。
取材の時のエレナは微塵も照れくさそうな素振りをせず、ただ両手をきちんと膝に載せて、椅子に座っているだけだ。記者からの質問があると、彼女はものの数秒で口を動かしはじめ、滑らかに語りはじめる。無駄な言葉などひとつもなく、質問に適切な言葉だけで回答は紡がれていく。
だがしかし、冷たい印象など誰も抱きやしない。何故ならば、彼女の声が天使のように美しく、己の胸のうちがじわじわと感極まっていくからだ。
「それにしても、どうしてあんな店で働き続けるんだ? ピアノをやれる店なんて、幾らでもあるんじゃないのか?」
「幾らもないわ。そりゃあ、ある程度人に聴かせられるレベルだったらあるでしょうけど。数件受けた面接の中で、こんなことまで言われたわ。『君が演奏するくらいだったら、まだ愛くるしい幼稚園児の演奏団を雇った方がマシだ』って」
僕の腕にしがみついていたエレナが、一段と腕に力を加えた。エレナは顔を僕の腕の中にうずめたが、僕は彼女がどんな表情をしているのかが分かった。
「それは酷い。でもそんな店、雇われなくてよかったよ。こっちからお断りだって」
「うん、そうだね。ありがとう」
エレナは今までで一番ぬくもりのある声を出した。しかし僕はあまり嬉しく思わなかった。違う、僕の好きなのは、心の闇をどことなく感じさせる静謐な声なのだ。
ようやく最近慣れてきた住宅街は旭日を上手に纏い、実に綺麗な姿へと変貌していた。見慣れた電柱、見慣れた公衆電話、見慣れた青い屋根の家、見慣れた公園。それらは新鮮味を持って輝いていた。
朝は普段、駅に向かって歩くというのに、今日に限っては逆に家に向かって歩いている。僕はこの景色を夜にしか見たことがなかった。どれほど見慣れたものでも、少しだけ角度を変えてやっただけで、新しいもののように感じるのだ。
鳥の囀りがどこかの民家の庭の木から聞こえた。甲高いのにいまいち抑揚がない。エレナの声に比べると何とも醜悪なものだった。まるで久里子の声のようだと思った。
「聞かせてよ」と久里子が落ち着いた声で言った。
帰ってみると、土曜日の早朝だというのにリビングのテーブルに久里子が着いていた。僕に背を向けたまま、カーテンをしていない窓から差し込む朝の弱々しい日を見つめていた。
テーブルの上には昨晩の夕食がまだそのまま置いてあった。どれにもラップが皺なくピンと張ってあった。邪魔者が何ひとつ入り込まないよう、隙間を完璧になくしていた。
糸のぶら下がった電灯がチカチカと点滅していた。風前の灯火のようだった。久里子はそんな電灯の明かりを煩わしがることなく、ただテーブルに腰を下ろしていた。
「聞かせるって、早朝帰りだった理由を?」僕は恐る恐る尋ねてみた。
「当たり前じゃない。他に何があるって言うのよ」
「いきなりサークルで飲むことになったんだ。先輩が気まぐれに言い出してさ。てか、ちゃんとそう連絡も入れたじゃないか」
「ええ、わたしの携帯にメールがあった。しっかりと連絡してくれてた」久里子は未だ僕に顔を向けることなく言った。
「久里子なんて、急遽飲み会が入っても連絡してくれないじゃんか。そもそも久里子の方から電話やメールをしてくることなんてない。いつもいつも僕から一方的にするだけだ。報われないよ」
「ええ」
「それなのに、どこに不満があるって言うんだ?」
何も返事がなかった。久里子は応えてくれなかった。
彼女の背中は魅力的だった。痩躯なのに骨っぽい訳ではなく、適度に女性らしいふっくらとした脂肪を携えている。じっと見取れてしまう程の色気だ。
僕が彼女と出逢った時もそうだった。友人たちと教授の愚痴を言いながら講堂を出ようとした時、彼女が入れ替わりに入ってきた。
ドアが開き、チェックのワンピースを着た彼女が視界に捉えられた瞬間から、僕は彼女から目が離せなくなっていた。旋律を奏でるようにきっちりと動かされる腕や脚、背中からつま先までの美麗なライン、全てが完璧だった。僕はその全てを目に焼き付けようと試みた。
僕に気付き、友人たちも立ち止まった。友人たちが何かを言っていた気がするが、僕の耳にはこれっぽっちも届いていなかった。僕の感覚は彼女に注がれていた。
彼女はと言えば、僕の視線など知らぬようで、女友達らと座席に着いて談笑しはじめた。周りもなかなかスタイルの良い女子大生がいたが、彼女の後ろ姿だけは別格だった。こんな素晴らしい身体を持つ人間など、そうそういない。
僕の中で何かが掻き回された。気が付くと、友人たちの言葉を無視して教室を逆戻りしていた。そして、彼女に易々と声を放っている自分がいた。
彼女の友人らは鳩が豆鉄砲を食らったように、口をぽかんと開けてこちらを見ていた。しかし、彼女だけは至って平然とこちらを見ていた。冷淡でも憤然でもなく、ただ見ているだけ。とても聡明そうな表情だった。
僕にとっての彼女はその日から始まったというだけで、彼女自身にとっての「彼女」はもっとずっと前から存在しているだろう。その実、「本当の彼女」を彼女は隠していて、僕は全く知らないのかも知れない。
でもその日以降、彼女の態度はいつも同じだった。痴話喧嘩した時も、久里子が風邪をひいてしまった時も、セックスをした時ですら全く何ひとつ変わらなかった。恐らく今後もそうだろう。今後も何ひとつ変わらないのだ。
もしかしたら、ごく親しい友人や両親には違う顔をしているのかも知れない。でもそれが久里子の本当の顔なのかは分からない。僕に見せているのが本当の顔かも分からない。誰も本当の顔を知らない可能性だってある。
とにかく何にしろ、僕にとっての久里子は、永久に同じ「久里子」を維持していくだろう。それだけが真実なのだ。
あの早朝から久里子は、またいつもの久里子に戻った。もしかしたら彼女は、抑えきれない感情を必死に隠そうとしていたのではないかと思うことがある。
あの時、弱々しい日射を放つ太陽だけは、彼女の晒け出された顔を見ていたのかも知れない。今になっては、その真相を確かめる術などありはしない。
わたし、あの店を辞めちゃったの。
自分の耳に侵入してきた言葉の意味が飲み込めず、僕は数秒間唖然とした。エレナは僕の汗だらけの額に手を当て、前髪を掻き分けた。
わたしの声の全てをあなたに委ねるから。
僕は目の前で不快な程の笑みを浮かべるエレナの顔を見つめた。あまり焦点が合っていないのか、彼女の顔の輪郭はぼんやりと歪んでいた。
直前までしていた行為の疲労でないのは分かっていた。しかし僕には欺くしか術がなくて、わざと息を弾ませた。そんな僕を見兼ねてか、エレナは僕の胸に頭を載せた。僕の心臓の鼓動を確かめるようだった。
ねえ、あなたが望んだ通りにしたのよ。ねえ、どうしてそんな不満げな顔をしているの?
自分では平然を装っているつもりだったのに、エレナには筒抜けだった。やはり僕は、隠すのが致命的に下手なのだ。久里子のようにはできないのだ。
僕はただ、君の声を世間に届けたいだけなんだ。
いいえ、あなたはそんなことを望んでなんかいないわ。本当は、わたしの声を自分ひとりで独占したいだけなのよ。
そんな訳はない、君の声は人類の宝物なんだ。僕が保証する、君の声はいずれ認められる。聴かせる機会に恵まれていなかっただけなんだ。僕は私利私欲でそれを悪用しようなんて、絶対にしない。
僕の目にはもう、エレナの醜悪な裸体など映っていなかった。ただ、天使のような「彼女の声」だけと向き合っていた。
部屋は夜だというのに電灯の一つも点いていなかった。カーテンの隙間から降り注ぐ青白い月光だけが頼りだった。僕の影を淡く引き伸ばしていた。
テレビやオーディオや冷房なども一切機能しておらず、ただ魂を抜かれた死骸のようにひっそりと部屋を包む閑静の中に潜んでいた。部屋には僕らの声だけが音として存在していた。
幻想の世界に迷い込んでしまった気分だった。今ここに、しっかりと僕は存在している筈なのに、現実の境界線が曖昧で判らなかった。
また僕は朝日に色付けられた家路を歩いていた。これで何回目だろうか。
初めて歩いた日、つまりエレナと初めて一晩を共にした日は新鮮に感じていたこの道も、いつの間にか当たり前のように堂々とそこにあるようになっていた。僕は慣習の魔力に魅入られてしまったのだろうか。
今にして思えば、最近、久里子の顔をしっかりと見ていなかった気がする。勿論、首より下しか見ていなかったという訳ではない。久里子の口や鼻や目などが、どのように動きながら喋っているかを見ていなかったという意味だ。
久里子はやっぱりいつも通りだったっけ?
僕は確信が持てなかった。あの早朝以来、彼女の顔を確認していなかった。「もしも」が怖かったのだ。
僕はもう一つ大事なことに気が付いた。あの日以降、僕が認識していた久里子は、「僕の」久里子ではなかったのだ。あれは新たな、「第三」の存在だったのだ。僕の頭の中で都合よく補完されて存在していたものだったのだ。
じゃあ、今現在の本物の久里子は、どうなっているんだ?
自然と足の動きが速くなっていた。見慣れてきた道のりを僕は慌てて駆けた。目の前をまばゆくする朝日が鬱陶しかった。最初から僕の中の闇を晒け出そうとしていたかのようだった。
急がなくては。このままでは僕は、「久里子という存在そのもの」を喪失してしまうかも知れない。
近所への迷惑を考慮する余裕はあった。本来なら、こんな状況で余裕などないだろう。ただ単に、まだ心の準備ができていないのだ。僕は呼び鈴を鳴らさずに鍵を開け、静閑という闇にとり憑かれた家の中に足を踏み入れた。
家の中は何ひとつ電気が点いていなかった。ところどころの窓から差し込む朝日が視界を明るくし、僕の歩みを助けてくれた。
フローリングを歩くだけでも音が大きくし、家中に響き渡っている気がした。住み慣れた我が家なのにまるで他人の家に忍び込んだような、奇妙な違和感を最初の頃は覚えたものだったが、今では大分溶け込んできている。
もう僕は、深淵まで浸かっているのだろう。
通常時ならば、久里子は寝室でひとり睡眠についている筈だが、僕は最初にリビングに向かった。久里子がリビングのテーブルに座っていたあの淋しい後ろ姿が突如、頭によぎった。
案の定、久里子は両手を膝の上にきっちりと揃えてリビングのテーブルに座っていた。僕に背を向け窓から差し込む朝日に見取れていた。彼女の体は弱々しく光り輝きながら、輪郭をぼんやりと歪ませていた。
「光について考えることがあるの」
そう言うと久里子は座ったまま手を伸ばし、カーテンを掴むとすぐに朝日を遮断した。たちまちリビングが暗くなった。しかしカーテンを透過した忙しない光たちによって、完全な闇は訪れなかった。久里子の魅惑的な身体がはっきりと現れた。
「光は暗闇に隠れてしまったものを照らして、見えるようにしてくれる。でもそれだけじゃないと思うの」
一体どんな受け答えをするのが最良なのか分からなかったが、僕は「じゃあ他に何があるんだ」と言っていた。
「光に照らされることで元から影だった部分が、より一層闇を増すの。周りが明るくなったことで、より相対する闇が際立つって訳よ。所詮、視覚的な問題だけど」
「何となく言いたいことは分かるけど、それが一体どうしたって言うんだ?」
こんな状態での会話は駄目だ。僕は一歩一歩慎重に、久里子の背へ近付いていく。「第一の久里子」と向き合わなければならない時が、遂にやってきたのだ。
華奢な背中はこれっぽっちも動じず、ただ待機していた。僕から答が掲示されるのをひたすら待っていた。答ならある。僕にはできる。
久里子の肩は、手を伸ばせば届くところまで来た。僕は音を立てないように静かに深呼吸を一回し、震える手を伸ばした。
出し抜けに、久里子はまたカーテンを開けた。僕の腕が彼女の体を包むのと、日が差し込む瞬間が重なった。
彼女が闇雲に抵抗を開始した。椅子に座りながら必死に体を縦に横にと動かした。でも男である僕の腕から逃れられる訳がなかった。
僕は腕で押さえつけながら、彼女の首筋に口づけをした。彼女の抗いはより一層激しさを増していく。そんなのお構いなしに、僕は彼女の二の腕に頬ずりをする。女性特有の匂いに鼻腔を刺激される。
彼女の頬のラインを確認するように舌でなぞる。滑らかな肌に久里子の味がした。
いよいよ久里子の顔との再会が近付いてきた。僕は胸の鼓動が速くなってくるのを感じた。彼女の身体を縛る腕をほどき、僕は小急ぎに久里子の正面へと回った。
同時に、平手が僕の頬を打った。頬に鈍い痛みが走った。僕は動作を停止し、久里子の顔を見つめる。
久里子の顔は、泣きじゃくっていた。顔を真っ赤に紅潮させ、唇を歪に塞ぎ、長い睫から滴がポタポタと垂れていた。
僕は彼女の表情を熟視した。彼女の表情だけを見るようにした。ここ最近、見失っていたものを取り戻すように。彼女の唇を頑なに結んでいた糸がゆっくりとほどけた。
もうわたし達は、何もかもを隠すべきなの。
何もかもを隠す? それってどういう意味なんだ?
そのままよ。お互いの存在を永遠に隠し合うの。
久里子の唇がそう言った。僕は茫然自失してしまっていた。お互いの存在を永遠に消すとは、無理心中を意味するのだろうか?
智史とわたしはただ、チカチカと壊れかけの電灯のように本性を見せ合っているだけなの。もう疲れた。もう別れましょう。もう全てを清算するの。
僕が遮ってしまっているからか、久里子の顔は半分光に照らされ、半分闇に呑み込まれている。しかし、何もかもが綺麗さっぱり片付けられたテーブルはちゃんと朝日のぬくもりに包まれている。
外で鶏の鳴き声がした。僕は前に観たとあるテレビ番組を思い出した。久々に訪れた皆既日蝕で数々の実験をしていた。その中の一つに、「皆既日蝕が終わって明るくなった時、鶏は朝になったと勘違いして鳴くのか?」というものがあった。
実験の結果は、YESだった。鶏は昼間に鳴いたのだ。
つまり、鶏が鳴いているからと言って、それが朝の訪れを百パーセント証明しているとは限らないのだ。僕らを照らす朝日が、偽物の可能性もあるのだ。
ねえ、もう別れましょう。
僕はしっかりと彼女の喋る表情を確認した。どのようなしわを刻みながら、どのような開き方、大きさで彼女の口は動いているのか。微量でも唾の飛沫はあるのか。喋っている時に鼻はぴくりと微動するのか。耳はどうか。それらは少しでも紅潮していたりするのだろうか。目は細くなったり大きくなったりするのか。眼球は動いているか、またはどこを向いているか。充血していたり瞳孔が開いていたりするか。目尻や眉、眉間のしわなどはどう動作するのか。
表情があるのは顔だけじゃない。顔のパーツひとつひとつがしっかりと表情を持っていた。久里子の身体は宝だが、案外顔も非凡な表情を持っていて素晴らしいことに今更、僕は気付いた。
それだけに、決定的なものが一つ足りなくて完璧になれないのが実に惜しい。いや、完璧でないからこそ生々しさがあり、人間らしいのではないか。物語に登場する人物は清潔過ぎるのだ。
さようなら。
僕を照らしていた光は、いつの間にか陰を帯び、僕の前から消えてしまった。僕はリビングの椅子に腰を下ろし、不確かな思い出をそこに重ねた。
電車の窓枠の中には依然として、ネオンサインの川が流れていた。清潔さからは程遠く、お世辞にも佳景とは言える代物ではなかった。この灯りだけを頼りに生きている人々がいると思うと、何故か哀愁感が沸いてくる。
僕のいる車両は一箇所電灯が壊れているみたいで、薄暗くなっていた。車内の人々はまるで人生に疲れ果てたように皆ぐったりとしていた。それはあまりにも似合い過ぎていて、人々が薄い闇の中に溶けていってるかのようだった。
僕はしっかりと降りるべき駅で電車から降り、改札口を越え、家に向けて歩きはじめた。それなのに、何故か家に辿り着けなかった。街頭のない闇夜の道から抜け出せなかった。この道のりは慣れてる筈なのに、ちゃんとこなせなくなっていた。
頭が錯乱した。どうして家に辿り着けないのだ。何が原因なのだ。やはり、久里子やエレナとの件が主因なのだろうか。
僕は駅に戻ることに決めた。きっとスタート地点で方向を間違えたから、ゴールに行き着かないのだ。だから、もう一度スタート地点に戻ってやり直そう。僕はまだ、やり直せる筈だ。
帰するところ、駅には戻れなかった。自分がどこにいるのかすら分からなくなってしまった。
僕は近くに小さな公園を発見した。シーソーと滑り台とベンチがあるだけの質素な公園だった。当然、見覚えはない。僕はそこのベンチに腰掛けた。
腕時計で時刻を確認する。もう深夜だった。もしかしたら、ぼんやりしていたから降りる駅を間違えていて、しかもその駅が普段の駅にとても酷似していたのではないかと思ったが、もう何もできやしない。
仕方なく、朝までここで待つことにした。僕はベンチに横になり、そのまま深い眠りに就いた。
目が覚めると、そこはまだ闇に包まれた公園だった。辺りも何ひとつ変化がなかった。上手く寝ることができなかったのだろうか。僕は再び眠りに就いた。
再び目覚めた時、そこはやはり闇夜に包まれた公園だった。何も変化はなかった。時計を見た。時刻も来た時と何ら変わっていなかった。
僕は全力で叫んだ。どこまでも響くように、誰かの耳に届くようにと。でもいつまで経っても誰も助けに来てくれなかった。悲痛な呼び声は暗闇の中に呑み込まれてしまっていた。
ここは落とし穴なのだ。入ってしまったら二度と出られない、奈落の底だったのだ。
あれからどれだけの時間が過ぎただろうか。この移ろいなき公園にも段々と慣れてきていた。同時に、光に恋い焦がれることがなくなってきていた。
不思議とこの公園では睡眠も食事も必要ないことを発見した。ここでは全てが夜のまま停止しているのだ。
公園から脱出して家に帰ろうという気は起きなかった。幾ら道をさ迷ったところで、どうせ家には辿り着けやしないのだ。
ある時、ふと僕は無性に淋しい気持ちになった。あの二人に会えない悲しみが、突如込み上げてきたのだ。
最初にエレナのことが思い浮かんだ。あの美しい天使のような声をもう一度聴きたい。でもどちらにしても聴けなかっただろう。僕がそれを摘んでしまったのだから。
次に久里子が出てきた。正確には、あの素晴らしく色気を発する身体と美しい顔がだ。最後の最後に僕は大事な部分に気付いた。今まで有り余るほどの時間があったのに。僕は馬鹿だった。
会いたい。もう一度会いたい。例えこの手に戻ってくることがなくても、あの二人を間近で感じたい。そして僕はそれを体に刻みつけ、死んでいきたい。
自然と足が動きだしていた。この暗闇の底から這い出たいと強く願った。また暗黒の迷路が立ちふさがるのは分かりきってるのに、僕は公園を後にした。
どちらに行こうかなどと考えず、ただぼんやりとあるがままに迷路を進んだ。後ろを振り向くこともしないようにした。ずっと長い間歩き続けたが、不思議と行き止まりには遭遇しなかった。
どれだけの時間を歩いただろうか。ふと気付けば、自分の家の玄関が目の前にそびえていた。家の中は電気も点けずに真っ暗なのが見て取れた。
誰も出やしないのにインターホンを押してみた。虚しくチャイムが鳴り響いただけだった。もう誰も残っていない。
レバーに手を掛けてみると扉が開いた。今日は鍵を掛け忘れたのかな? そのまま家の中に入った。
玄関には運動靴やスニーカーが並べてあった。全部僕の物だ。女物は一足もない。ある訳がない。
靴を脱ぎ捨て、家に上がる。スイッチを押して廊下に明かりを与えようとするも電気は壊れていて、相変わらず暗闇が辺りを支配していた。まあいい、そのまま行こう。
一番最初にリビングに直行した。何故か懐かしい匂いがそこからした。入ってみると、リビングは温かい光に満たされていた。電気が発する明かりとは比べものにならない位の明るさだった。
途端に目眩が起きた。頭の中で何かが走り回ってるような痛みを感じた。くらくらとしながらも確実に一歩一歩、リビングのテーブルに向かっていく。きっとそこには、「何か」がある筈だ。
しかし、リビングのテーブルには誰もいなかった。そうだ、どう足掻いたところで、誰も戻ってこないのだった。誰かがいるからこそ、そこに何かが起きる。もうこのリビングには何も起きないのだ。僕は悄げながら光輝くリビングを後にしようとした。
ねえ、待って。
まさかと思いすぐに振り返ってみたが、エレナの姿はなかった。そりゃあそうだ、彼女がここにいる訳がない。
ねえ、ここよ。
日溜まりの中には空っぽのリビングしかない。どこからこの天使の声がしていると言うのだ。
ねえ、集中して。わたしの声はちゃんとここにあるわ。
そう言われると、エレナを急激に感じられるようになった。僕は自分が恥ずかしくなった。油断してたとは言え、エレナの存在に気付かなかったなんて……。
よかった。やっと気付いてもらえた。わたしを無視して、どこかに行っちゃうのかと焦ったじゃない。
ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。ちょっと油断していたんだ。
分かってるわ。わたしも分かり難いように気配を消して、意地悪してたから。
これからはもう二度と、僕から離れないでいてくれるかな? 永遠に側にいてくれるかな?
ええ、勿論よ。わたし言ったじゃない、『わたしの声の全てをあなたに委ねる』って。
よかった。本当によかった。君と永遠に一緒にいれるんだね……。僕はほっと安堵した。心の中に眩い光が溢れた。どんよりとした闇を一掃してくれた気がした。
一秒にも満たない、まばたきをした瞬間だった。僕はひとり裸でベッドの中にいた。確認してみると、僕の部屋の中だった。外の風景が覗けないほど、窓からは光が溢れていた。
エレナ? ちゃんとここにいる?
すると、ドアが勝手に開いた。チェックのワンピースを着た久里子が入ってきた。素晴らしく完璧な体と顔は健在だった。まさか、どうして久里子がここに?
久里子は僕を冷静に見つめながら、口をゆったりと動かし始めた。でも、何を喋っているのか分からなかった。声が聞こえなかった。
久里子、僕はちゃんと君に謝りたいんだ。謝って、君がなんて言うのかを聞きたい。例えそれが罵倒だったとしても、君の答を聞ければそれで満足なんだ。
久里子はいつもの顔のまま何かを言い出した。でも僕の耳には届かない。彼女の声は、もう断ち切られてしまったのだから。
もう一度やり直しましょう。
僕はたまげた。天使のような声がそう言ったのだ。久里子、それは僕を許してくれるってこと?
ええ、智史をちゃんと許すよ、と天使の声は言った。これからは、お互いに秘密のない関係を築いていきましょう。
うん、勿論だよ。僕は涙腺が緩くなるのを感じた。ようやく、僕に根付いていた闇が消滅したのだった。
僕は急いでベッドから抜け出し、生まれたままの姿で久里子に歩み寄った。久里子の色気溢れる体を力一杯にぎゅっと抱きしめた。
隠し合わないんだったら、そんな服を着てるのは反則じゃないか? 僕は悪戯ににやけながら言ってやった。
僕はこの通り全てを晒け出してるんだ。久里子もそうするべきだろ? そうしないと断固許さないよ。
ふふふ。それもそうね。わたしだけずるかったかもね。
天使の声が茶目っ気たっぷりに笑った。言った久里子の顔はいつも通りの表情だった。
僕は丁寧に久里子の衣服を剥ぎ取っていき、彼女の神秘的な裸体を晒け出させた。以前みたいに酔った勢いで乱暴に脱がせたりなどしない。
二人でベッドに入り、僕は彼女の身体を優しくいじり回した。その度に久里子は平然とした顔のまま、天使の声で喘いだ。それは僕の心を存分にくすぐる魔力を持っていた。美しい身体に美しい顔、そして美しい声。僕はとても興奮した。
胸を愛撫しても、頬を舌でなぞっても、耳にそっと触れても、性器をゆっくりと合わせても、腰を勢いよく振っても天使は喘いだ。腰を振る速さが勝手に、徐々に速くなっていく。天使の喘ぐ間隔が短くなり、そして激しさを増していく。僕の心臓の鼓動も激しさを増していく。
僕らを照らす光は、いつまでも狭苦しい部屋の中に満ちていた。
―完―