066:暗黒面へようこそ~抱擁はお好きですか?
「これは凄いな。味が無いのに、濃密で重厚な深みのある喉越しで体が癒される」
「じゃろう? それは精神力を回復させる効果がある水じゃ。今の小僧にはぴったりじゃろうて」
「ああ、確かにな……ありがとう、本当に助かるよ」
「うむうむ、気に入ったようで何よりじゃ。ではゆっくりと浸かって心と体を癒すがよい」
たぬ爺はそう言うと、湯煙の奥へと消えていく。
「はぁ~美味い……癒される……」
体の芯から癒されていると感じるが、やはり岩山での戦闘を思い出す。
祖父から明かされた真実と、今思えばそれに備えるための修行の日々。
そしてその結果、人を手にかけてしまった現実をじっくりと考える。
「覚悟、していたはずだったんだがな……落ち着いてみると……アレだな……はは……ジジイの言う通りまだまだ未熟ってところか」
流は大きく息を吸うと、そのまま背後へ倒れるように湯へと体を投げ出す。
しかし、何故か「ふよん」とした感触が、背中越しに伝わって来る。
それはとても大きい極上のクッションのような感触で、流は思わず「へ?」とマヌケな声を出してしまう。
「な、なんだあ!?」
「うふふ。古廻様……本日はお疲れ様でした。今だけはごゆっくりと、お休みくださいまし」
「〆か! 驚いたぞ」
「申し訳ございません。古廻様がお辛そうだったので、つい……」
そう言うと〆は流を後ろから抱きしめる。
「うわ、お前」
「今だけはこのままで……」
ふわりと優しく抱きしめられていると、心の暗く淀んだ塊が一つ、また一つと解けていく。
そんな感覚のせいか、流は思わず昔の事を語りだす。
「…………俺はこの世界に来るべくして来たんだと、今なら良く分かる」
「はい……」
「知っているかも知れないが、俺は幼少からジジイに死ぬような……いや、今思えば実際死んでもおかしくない修行をさせられた」
〆は無言で、流の体を抱く力が少し強くなる。
「あの頃はそれが異常だと思わなかったし、親も学校も何故かそれを黙認していたんだよ。しかも修行で抜けた授業を、後で特別授業をしてまでな。あらためて今思うと、やはり狂った非常識な日常だったが、それもこれも全部この世界で生き抜くためだったんだと思えるようになった」
「古廻様……」
心配そうに流を抱きしめる〆は、その後に流が話す事を待つ。
「今、俺の中に二つの感情が渦巻いている……いや、渦巻いていたと言うのが正しいな」
流はそっと〆の腕を優しく撫でる。
「覚悟はしていたつもりだったが、殺盗団との死闘で、俺は二度と平穏な世界で生きる事は出来ないと確信した。だが……やはり凶賊でも人を殺めたと思うと、異世界だろうが思うところはある。だが躊躇すれば、俺が殺られる世界なのもまた事実。そんな軽い現実と、理想の狭間が、心に気が付かないうちに食い込んでいた事に、今さらながら気が付いてな……」
檜の升を片手に持ち、ぼんやり光る名水ブレンドを見つめる。
「だけど〆を始めとした兄弟達や、因幡。たぬ爺や骨董達も俺を見守ってくれていると思うと、こんな事で落ち込んで居られないって思ってな。それに先祖の無念をリベンジしてやりたいし、何よりこのままじゃ俺も死んじまうかもしれない。大体超えられない『理』を無視してまで渡った人形なら、何時かまた日本へ戻って来て、古廻を根絶やしにするかもしれないしな」
そう言うと流は自虐的で乾いた笑をする。
「根絶やし、ですか。その可能性も憚り者が動いたとなると、かなり現実的でしょうか……あれから長い時が経ちました。人形が負った傷もだいぶ癒えたかもしれませんからね」
(……? 憚り者と人形は違う存在?)
疑問に思ったが、〆が話を続けるのでそのまま聞き入る。
「以前……話したかもしれませんね。私達は古廻様が此方へ呼ばれたのは偶然とも、必然ともどちらでも良かったのです。ただ『私達の元へおいでになった』と言う事。それだけで魂が焦げ付くような熱い思いで、本当に心から嬉しく思っています。そして折角おいでになったのですから、異世界を楽しんでいただけたらと安易に考えておりました」
そして消え入りそうな声で続ける。
「広大な世界。何処かに未だ『憚り者』が存在しているかもしれないとは思っていましたが、こんなに早く邂逅するとは思ってもみませんでした。そしてまさか、この異怪骨董やさんの中で、あの憚り者に襲撃される等とは……。全ては私の判断ミスでございます。本当にも――」
そんな〆へ流は被せるように、煽り口調で言いながら、〆を背後に置き湯舟から立ち上がる。
「おんやあ~? 盗賊を地獄送りにした娘のセリフとは思えませんなぁ~。もっと鬼の番頭さんは、こ~んなツノを生やして無いとだめだろう?」
そして前を向いたままで、頭の両端に握り拳を作り、人差し指を立ててツノを模した形にする。
それに釣られて〆も立ち上がり、流の背に向けて抗議する。
「え!? こ、古廻様それは酷いで――」
瞬間、〆ともあろう者が何が起きたか分からなかった。
気が付くと流は振り向き、〆を正面から抱きしめて居た。
「あひゃぃ!? にゃ、にゃがりゃしゃま??」
突然の事に、変な声と意味不明な言葉で混乱する〆を優しく抱きしめ、そのまま流は感謝の気持ちを伝える。
「本当にありがとな。ここへ戻ってからの廊下や庭園の気配り。そして風呂で俺を甘えさせてくれて感謝している。お陰で暗黒面とやらのブラック企業へ、就職しなくても済んだようだわ」
「あわわわ……」
「お前と会えて本当に良かった。これからもよろしくな」
「ひゃわわ……」
そう言うと流は左手で〆の腰を支えつつ、右手で透き通るような美しい金髪が濡れて、一層その妖艶さを増した後頭部を一撫でし、何事も無かったように四阿温泉郷の入り口へ向けて歩き出す。
「あ! でも〆のせいで現世? に戻れなかったのかもしれないと思うと、あいつはこの原因を作った元凶だな! ま、異世界面白いからそれも感謝か?」
流は実に楽しそうに笑い声を響かせながら、四阿温泉郷を後にする。
「はわわわ……」
そんな流がすでに居ない事が分から無いほどに、〆は混乱したままだった。
そして〆を見守る一人の男が、この世の終わりのような顔で見ている。
「お、恐ろしい事じゃあ……あの女狐めがまるで無垢な少女のように、顔を朱色に染め上げておる……ワシは今一体何の悪夢を見ているのじゃろうか……こんな事を誰が信じるのか、もしかしたら信じる馬鹿もおる? 否! 居るはずがない! 大体さっき後ろから裸で抱き着いていたろうに! 正面からと大差ないと思うが……何にせよワシは今、本当に正気なんじゃろうか……」
たぬ爺はそう独り言ちると、熱に犯されたような足取りで湯煙の中へと消えていった。
が、直後たぬ爺の声で「ぎゃあああ! 金の針が〇袋にああああ」と言う悲鳴が聞こえた気がしたが、きっと気のせいなのだろう。
誰も居なくなった檜風呂には、顔をさらに染め上げた〆が先程と同じ場所で、流が去った方を見て目を潤ませて「あわわわ……」しているだけだった。
◇◇◇
「あがったぞ~因幡ぁ~美琴ぉ~生きてるかぁ~?」
流は漢らしく右手にタオル持ち、それを肩へかけて歩いて来る。
「お!? お客人! ま、前! 前を隠してほしいのです!?」
「別にいいだろ。減るもんじゃあるまいし」
「もぅ!! お客人はどこのおじさんなのです!?」
因幡は顔を真っ赤にして、垂れ下がった耳で目を塞ぐ……が、こっそり覗いていた。
「今日日、そう言うのが流行なんだぞ? 見た目は子供、中身はオッサンな推理好きの酔っぱらいがな」
「そ、そんな迷探偵はいらないのです!!」
変質者が路上で自己正当化するような妄言を吐きつつ、さらに因幡へとセクハラをかましていると、どこからともなく凍り付くような冷気が、流の第三の足へと迫る。
「ひゃう!?」
凍り付く冷気は、第三の足にクリティカルヒットして流を強制フリーズさせる。
「お、お客じーん!? え、衛生兵~メディィィック!! お客人が大変なのです! ってボクがそれだったのです!! あわわわ……と、とりあえず服を着せて寝所へと運ぶのです」
因幡は流へ浴衣を着せると、何処からか呼び出した亀のような生き物へ流を乗せる。
「途中で休まないで『全力で』運ぶですよ?」
亀は「貴女がそれをが言うか?」とボソリと言う。
その言葉を呑み込むように亀は立ち上がると、了解と頷いてから荷物を載せて去って行く。
「むむぅ お風呂へ入る前と、随分とお客人の雰囲気が違っていたのです……あの後お風呂へ番頭さんが行ったのかな? むぅ、やっぱり番頭さんは凄いのです。でもボクも負けないのです!」
そう言うと、因幡は冷気を放った美琴さんを両手に抱え、幻想的な廊下を歩いて行った。
◇
「んん、ここは……あ、いつもの部屋か」
美琴のおしおきから目覚めた流は、布団に寝ていたが起きてしまう。
見ると美琴は流の枕元にあり、光さえ吸い込まれるような深い黒色の艶やかな会津塗りの刀掛けへ置かれていた。
良く見ると右手の甲に刻まれた、刻印の模様が刀掛けの中央に描かれている。
「ふぅ~、美琴。そんなに怒るなよ……え? ズルいって言われてもなぁ」
『…………』
「そうなのか? いや、大丈夫なのは分かるけどさ、風呂場にお前を持って行くのはな」
『…………』
「何時でも一緒に居たいって、お前なぁ」
『…………』
「わ、分かったよ。今度から一緒に入ろうな?」
『…………』
「ははは、機嫌が直って良かったよ。って、あれ? ちょっと待て!! どうしてお前の言っている事が分かるんだ!?」
『…………』
「さぁ? ってお前……これも異界言語理解のオーバーワークが原因か? 肝心な所でおかしな翻訳するくせに。はぁ~、まあいい。しかし何と言うか……不思議な感覚だな」
妖刀ゆえなのか、それとも異界言語理解が仕事しすぎなのか、美琴は流と話せるようになっていた。
その声は耳へ直接響くような感覚であり、他者へは聞こえ無いだろうと流は思う。
「それにしても美琴、お前の声は美しいな。凛としてるのに、心地よく心に響くよ……」
その後、美琴と少し話した後、流は休む事とする。
決戦まで残り数時間――
見てくれてありがとう、ごぜいますだ!
昼間は暖かったのに、夜寒いっ!
みんなも風邪ひかないようにね~