065:クチナシの花と名水と
異怪骨董やさんへ戻ると、いつもの事だが一瞬視界がホワイトアウトする。
そんな一瞬の隙を突くように、何者かが流にアタックを仕掛けて来た!
「むぐぁ!? な、何だ!!」
まだ視界がぼんやりとしているが、嗅覚は正常だった。
その嗅覚が捕えた香は、とても良い香りがしている。
それは薬草のような香りだが、香料が柑橘系のハーブとクチナシの花を混ぜたような香りに、若い娘特融のフレッシュな色香がミックスした、とても不思議な香りだった。
「お客人!! 無事で良かったのです!! 一人で何十人も相手にしたと聞いて、とても心配したのです」
「むぁ!? 因幡なのか?」
「そうなのです、ボクは因幡なのですよ?」
そう因幡が言う頃には徐々に視界が元に戻って来る。
「おおぅ、まさかの人型に変化してたのか。どうりで良い香りがすると思ったわ」
「え!? な、何を言っているのです!? もぅ、お客人ったら変な事言わないでほしいのです……」
「おいおい、うさちゃん。お顔が真っ赤だぞ?」
「でも、モフモフだから分からないのです」
「でも、今はモフモフじゃないぞ?」
「あ!? 恥ずかしいのです……」
どうやら因幡は何時もの調子で、流に抱き着いたと思っていたらしい。
「はっはっは。あ~やっぱり因幡はいいな。うん、モフモフじゃないけど癒された」
「ほへ? よく分からないけど、お客人が喜んでくれて良かったのです?」
「ありがとうな。向こうの世界でも、こっちでも因幡は俺の命を救ってくれる、ありがたい神様だよ」
「えええ!? い、いきなりそんな事を言われると照れるのですよ……」
因幡はうさ耳を前に「ぺたり」と倒すと、そのまま目を隠してしまう。
「さて、うさちゃん。風呂に行こうかね。お兄さんはちょっと疲れたんだよ」
「はいなのです。じゃあ回廊を開くので、少し待っていて欲しいのです」
そんな因幡の後ろ姿を見ると、いつもながら不思議な体だと思ってしまう。
そして何気なく、モフっとしている尻尾に目が行くと、流はおもむろに尻尾を握ってみる。
「ひゃああん!? な、何をするのですかお客人!」
見ると因幡の桜色の瞳は潤み、顔は綺麗なピンク色に上気している。
「あ、いや。すまん、つい、な?」
「もう……そう言う事は誰も居ない所でしてくださいなのです」
「? 誰も居ないだろう?」
「居るですよ~ほらぁ~」
誰か居るのかと思った瞬間、店内に響く怨嗟の声がする。
『ハッハッハ、我の前で乳繰り合うとはな』
『然り然り』
『なにヨ! 私に対する当てつけなのかしら!?』
『み、みんなそう言うのは良くないよ?』
『次の許可は安くは無いぞ……』
店内に居る付喪神の事をすっかりと忘れていた流は、少し恥ずかしく思う。
そしてそこから逃げるようにして、因幡の手を引き回廊へと去って行く。
「いや忘れていたわ。あいつら大抵静かだらなぁ」
「なのです。たまに『五老』が大騒ぎし、釣られて周りも騒ぎ出す位なので、忘れやすいのです」
「それな」
「なのです」
二人は見つめ合うと、思わず吹き出す。
「ははは、笑った。あ、そうだ。因幡さ、あの涙から作った回復薬だけど、まだあるのか?」
「ごめんなのです。残念ながらあれで全部なのですよ……」
「そうなのかぁ。作るのが大変なのか?」
「なのです。先日材料を教えた時は、味付けの部分をメインに言ってみたのですが、その他にも材料は複数あるのです。特に面倒なのは、富士の樹海にたまに生える日輪嶽と言う茸と、月齢とボクの体調が全て最高の状態で、やっと一本作れるのです」
「なるほどねぇ。あれだけの効果ならそれも納得だな」
流はこれまで因幡が調合してくれた、神薬とも言える効能を思い出す。
「あ、でも今ならば、あれほどの効果は無いにしてもそれなりの回復薬なら作れるのです」
「そうなの?」
「なのです。お客人の事が大好きな気持ちが限界突破したので、また人に変化出来るようになった事で、作れる物が増えたのです」
「そ、そうか。それはその……ありがとう」
「え? あぅ……ボクはなんて事を言っているのです……」
見つめ合う二人は廊下で固まっていた。
すると一陣の風が庭から吹いて来ると、そこには一羽の鶴の折紙が飛んで来た。
「〆:あらあら。中々浴場においでにならないので、迎えに来てみれば……まぁまぁ……」
〆はそう言うと、二人の頭の上をクルクルと旋回する。
次の瞬間、ふわっとした光が一瞬瞬くと、〆は人型に変化する。
「もう! 私もまぜてくださいな♪」
「ちょ!? 抱き着くな」
「あ~! それならボクも~」
「因幡まで!? お、重い……」
「古廻様、それは失礼ですよ?」
「そうなのです、ボクは重く無いのです」
「あ、ハイ……」
二人の凍るような視線に思わず素に戻る流。
そんな流を見て、美琴は溜息を吐くように揺れるのだった。
「さて、そろそろ浴場へと向かいましょう? たぬ爺も古廻様の来るのを楽しみにしていますよ?」
「そうなのか、じゃあ行くかね」
「では参りましょう」
〆と因幡を伴い、流は四阿温泉郷へと向かう。
長い廊下には行灯が等間隔に置かれ、見るだけでも安らぎを与えてくれる。
右手の庭には紅葉が見頃を迎えており、電気の照明器具では不可能と思える、不思議な色彩の間接照明が庭を照らしている。
そんな何時もよりも、心が安らぐような空間の演出をする〆の心遣いに、流は思わず感じ入る。
「…………」
「どうかなさいましたか、古廻様?」
「……いや、何でもないよ」
やがて歩くだけで癒される廊下を抜けると、四阿温泉郷へ到着する。
「さってと、早速入るかな。うさちゃんも入るか?」
「な、何を言っているのですか!? ボクはそんな恥ずかしい事出来ないのです……」
「ははは、言ってみただけだよ。さて、〆……お前は何故脱いでる?」
見ると〆は帯を解いている所だった。
「え? 私もご一緒いたしますよ? お背中をお流ししますので」
「一人で出来るからいい」
「酷いです! 私の存在を否定するのですか? あんなに舐る様に私の体を見て楽しんだのに……」
「え~お客人……えっちぃのです」
「ち、違うぞ因幡! 〆の体は欲情の対象にならない! 何故ならばアレは芸術の域にまで美しい裸体だからだ!!」
「うふふ。なら問題ないじゃないですか?」
そう言われるとそうなのかも? と一瞬思う。
「いや、ちょっとマテ。お前は恥じらいと言う物をだな……アレ?」
「ほえ? 番頭さんが消えてしまったのです」
二人が見ている前で〆の存在が朧気になったかと思うと、そのまま消えてしまう。
「消えた……」
「なのです……」
「因幡も不思議生物だけど、〆も不思議ケモ耳だよな……」
「番頭さんだから、何でもありなのです……」
二人は意味が分からない会話をしてから、流は脱衣所に向かう。
「じゃあ、うさちゃん。ここで待っててくれ。何時も待たせて悪いな」
「お客人を待っているのも楽しい時間なのです。ボクを気にしないでゆっくりと入って来てくださいなのです」
「悪いね。それに俺でもいい加減一人でも戻れるぞ?」
「それはそうなのですが、先日の事もあるので一応なのですよ」
「ああ……」
先日、部外者が入れないはずの異怪骨董やさんで、敵との遭遇を思い出す。
「悪いな、じゃあ行って来るよ。美琴、因幡と待っててくれよ」
「はいなのです! いってらっしゃ~い」
流はかけ湯をしてから、檜風呂へと向かう。
すると快活な笑い声が響き渡る。
「わっはっは! 来おったか小僧!」
「わっはっは! 来てやったぞ、たぬ爺!」
「む? 小僧、お主……そうか、小僧もこっち側に来たのだなぁ」
「はは、分かるのか?」
「まあワシも今はこんなんだが、昔は日ノ本で名の知れた武士じゃったからのう」
「ええ!? 〆に頭が上がらないから、それは意外だな」
「はっはっは。小僧、あの女狐めに敵う者などそうはおるまいよ? お主が例外すぎるのじゃ。普通、あのような態度で接する事は不可能……大抵の者はあの世行きだぞ?」
そう言われると、壱の無残な姿を思い出し「それは真実」なのだろうと思う。
「確かにそうなんだろうな……〆を始め、ここの人達は俺に本当に良くしてくれる……感謝しかないよ。無論たぬ爺もな」
「はっはっは。そう面と向かって言われると、こそばゆいものじゃな。どれ、今日は何の酒にしようかの?」
「ああ、たぬ爺悪い。今日はこれからまだ戦いがあるんだよ」
「ほほう……うむ、まだ迷いがあるようじゃが、その面構えなら安心じゃな。どれ、なれば風呂に浸かっておれ。良い物を持ってこよう」
たぬ爺はくるりと背を向け去ってゆく。
流はその背を見送ると、広い檜風呂へと身を沈める。
「あ゛あ゛あ゛~気持ちいい……」
仕事に打ち勝ったサラリーマンが、風呂で癒されるような声が思わず出てしまう。
今日あった事を落ち着いて考えて見ると、中々……いや、かなり濃密な時間だったと思い出す。
(カワードとの最後の旅から始まり、殺盗団からリリアンを守りながらの戦闘。そして先生との死闘……考えれば考える程、凄い一日だ。しかもまだ継続中とかな)
思わず乾いた笑いが出てしまう。
乾いた笑いを浮かべていると、たぬ爺が戻って来る。
「待たせたな、これを飲んでみい。日本の名水百選をブレンドし、そこへ霊草を加えた特別な水じゃ。今の小僧には最高の水となろう」
「それは凄いな! 名水百選を一気に飲めるなんて贅沢すぎるだろう」
「じゃろう? しかも汲み上げたばかりの名水ぞ」
「本当に酒ばかりじゃなく、何でも湧き出るんだな」
「うむ、凄いじゃろう?」
「ああ、ありがとう。たぬ爺」
流は早速受け取った水を飲んでみる。
その水は檜の升に入った、なぜかほんのりと薄い青色に発光している。
水なので味がない、が。霊草と言う謎の草のおかげか、何とも言えない満足感で心が満たされる。
そんな不思議な水を、体が細胞から受け入れているのを感じる流だった。