第3部分 立つ鳥は後を濁さず帰らない
「ここが先生の、作家さんの部屋を見るのはこれが初めてです。」
かふえの娘はそう言って書きかけの原稿用紙をさらりと撫でた。あまり綺麗でもない部屋をまじまじと見られて男は少しの恥ずかしさと嬉しさを胸に娘をみていた。良かったら少し読んでみますか、と男は彼女に声をかけてみた。すると彼女はぴょんと跳ねるように喜んで、ええもちろんと弾むような声で返した。それにどうぞと返す時に少し声が裏返ってしまったが彼女はあまり気にしていない様子だった。ぺらぺらと原稿用紙をめくるのを男は少し緊張して眺めていた。彼女はきっと褒めてくれるだろう、だがもしも、恥ずかしい書き間違いなんかをしていたらどうしようかと何度も校閲しながら書いた文を男は見つめた。
「やはり先生の作品は面白いです。」
彼女はそう言って微笑んで、それに男はほっとして肩をなでおろした。それから暫く彼女は男が続きを書くのをじっと見ていた。くしゃくしゃにした原稿用紙を柄にもなく男はきちんとくずかごに捨てた。そうやっている間に友人がひょいと顔を出した。
「今日もやっとるか……っとお邪魔だったかな?」
友人はそう言って彼女に会釈して図々しくも座り込んだ。私にとって邪魔と分かるならそのまま引き返せばいいのに、男は心の中でその言葉を留めて続きを書き続けた。友人はくずかごをみてフッと笑ってすぐそこで買ってきたであろう果物を三つ取り出した。それをひとつ彼女に渡して、もうひとつ私の傍に置き、最後の一つをガリッと噛んだ。その行動に私はこいつの察しの良さと図々しさに少しイラッとしつつ最後の一文字を書いてパラパラと見直した。
今日の分を書き終えて娘と小説について語っていると外は暗くなり、友人も満足して帰ってそろそろ娘も帰るといった時間になっていた。ではそろそろ、そう言った彼女の手を私は咄嗟に掴んでしまった。驚いた顔で彼女はこちらをじっと見る。男は掴んだからには何か言わねばと思って、気が動転したままこう言った。
「もし良かったら、また何度か書く時傍にいてくれないか。」
受け取り方によれば愛の告白だろう。男は焦って言わなくていいことをペラペラと喋った。それも告白の付け足しのようなことをぺらぺらと。彼女は少し嬉しそうな顔をしてからきゅっと口を真一文字に結んだ。それから少し寂しそうな顔をした。
「ええ、また機会があればお邪魔しますね。」
娘は男の手をすっと下ろしてじっと男の目を見た。彼女は次の日、かふえにはもう居なかった。次の日も、そのまた次の日も。