二人の男女と地図の紙切れ
男は文字を書いていた。納得いかなくて捨てた原稿用紙はもういくつだろうか、部屋にはもう足の踏み場はなかった。部屋にはがりがりと筆を走らせる音だけが響いていた。
「邪魔するぞって……なんだこのゴミの数。あれからずっと書いてたのか。」
友人が一言そう言うとあぁ、と息を漏らすように男は答えた。それを聞くと友人は落ちているゴミを拾いながらにこりと笑った。それからしばらくまたがりがりという音だけの時間が過ぎていた。だがそのうち男の手はぴたりと止まった。
「次郎、これを読んでくれないか。」
男は確かにそう言った。復帰後一作目か、と言って友人はそれを読み始めた。ぺらりぺらり、それを読み進めていく。沈黙の後、友人は一言はっきりいって駄作だな、と静かに言った。男はやはりと笑ってこう言った。
「またあのかふえに行かないか。」
普段家から一歩も出たがらない男としてはそれはまるで絡繰りが話し出すかのような驚くべきことだったが友人はにこりと笑ってまた奢りか、とだけ呟いて腰を上げた。
「いらっしゃいませ、って先生じゃないですか。」
この間の若い娘がにこりと笑ってお疲れ様ですと声をかけた。疲れることなんて何もしていないさ、と男はそう返す。二人がそうやって微笑みあっていると友人はいつの間にか持ってきていた先の原稿を娘に渡した。娘はなにも言わずとも察して、先生ならまた書けると思っていましたよ、と笑ってどこかへ行ってしまった。
「分かってるぞ、あの子のおかげだろう?」
そう友人が問いかけるときょろきょろと周りを見渡して男はあぁと答えた。友人はそれ以上は聞かなかった。それが踏み込むまいとしたのか、それとも全て知っていたのかは男にとって知ることは無かったが、ただこいつなら分かってそうだと思っていた。二人の間の沈黙は肉を食い切るまで続いていた。珈琲をぐびりと飲みきって、そろそろ出るか、と男が口にすると友人はこくりと頷いて金を置いた。店を出た後、待ってと二人を止める声が聞こえた。先程の娘だ、男にお前だろうとだけ言って友人は帰ってしまった。
「あぁ、すみません。一つお願いがあるのです。おこがましいとは思うのですが、今度、先生の執筆をお傍で見てみたいのです。」
娘は頬を赤らめそう言った。男に断る理由はない。懐から万年筆と紙切れを出して簡単な地図と電話番号を書いて娘に渡した。それからいつでも来なさいとだけ声をかけて男は帰った。その日、男はまた千数文字の文字を束ねてから柄にもなく少し部屋を片付けて眠った。