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見えない一つの道しるべ

町の端にはある一軒のぼろ家が建っていた。そこには確か前まではうるさい程の子供の笑い声と少し楽しそうでもありそうな女の叱りつける声が聞こえていたはずだった。だがいつからだろうか、その家はもう笑い声も怒号も聞こえない。ただ寂しく小さい声でただいまといってきますだけが聞こえるようになっていた。からんからんと下駄を引き摺るように歩く音が聞こえる。そして一人男が帰ってきた。男はがららとがらんどうの扉を開けて、小さくただいまと呟いた。男の名は天津幸樹(あまつゆうき)、たしか筆名は天津爛漫(てんしんらんばん)だったはずだ。少し前まではこの名を言えば、誰もがあぁあの、と言うような有名な小説家だった。いまではその名を言っても若い子はもはや知らぬだろう、所謂「落ちぶれ作家」というやつだ。まぁ今となってはそいつが小説家と呼ぶに値するかすら怪しいものだ。離婚してからというもの、その男は物語を頭にうかべることすら出来なくなっていたのだから。


男は家に帰るとすぐ自室に入っていった。いや、もうこの家の部屋全てが自室と言っても過言ではないがそれは余計な言葉だったか。机の前に座った男はちっとそこにある万年筆を手に取って、原稿用紙に向かって面白そうな始まりの一文を書いてみせた。しかし、やはりカツカツと文字を書く手は少しずつ遅くなっていって、終いには男の手はぴたりと動きを止めてしまう。たった数文字、男が書ける文字はそこまで減っていた。最初は五百文字程度書いたところで止まっていたものの、次第に数が減ってこの様だ。がりがりと手で頭を掻いて、男は三分の一も埋まらなかった原稿用紙をくしゃくしゃに丸めてポイと投げ捨てた。捨てられた紙達は見向きもされずずっとそこに佇んでいて、男の後ろ姿を眺めていた。


自室を出て、男は買ってきた大根を焼きもしないで口に投げこんだ。昔の顔はどこへやら、男はそんなことばかりしているもんだからすっかり痩せていた。男はそのまま大根をぺろりと食べ終えて居間に寝そべって空に文字を書くふりをしていた。そうやってしばらくごろごろしているとがらりと勝手口の戸が開いた。

「またお前はこんな所で寝転んで大根でもがりがり食っとるのか。」

そう言って入ってきたそいつは男にとって旧知の仲の男、同じ学び舎の同志だった。全く、と言いながら男の自室に行き、原稿用紙の束をくずかごに入れて帰ってきた男は男の前に座ってこんなのならかふえに行った方がまだ栄養が取れるわ、と愚痴をこぼして茶を入れた。そしてちっと口に茶を含んでからそうだ、と口に零して男はそいつに腕を掴まれてそのままかふえに連れ去られた。


「いらっしゃい!二人かい?そこの席へどうぞ」

ふくよかな年増の女が二人に席を進める。おそらく店主の妻とかなんとかだろうかそんなことを考えながら男は席に座った。友人は男に何一つ聞かずお前にゃこれだとガッツリした肉と米、それから珈琲を二つ頼んだ。

「こんなの払う金なんてねぇぞ」

男は友人にそう毒づいた。そいつはにやりと笑ってなんも書いてねぇお前に金があるなんて思っちゃいねぇよ馬鹿野郎、と返した。まぁ奢りならと男は傍に置かれた水をぐっと一気に飲み干した。そうしてしばらく待ってるとさっきの年増とは違う可愛らしい若い女がかつさんどとおにぎりなんてもんを運んできた。ありがとうとひとつ返してやると女は目の前で少し止まってこう言った。

「もしかして、失礼とは思いますが小説家の天津爛漫さんでいらっしゃいますか。」

男はびっくりしてどうして、と身を乗り出した。女はやっぱりと言った後、こう続けた。

「失礼とは思いつつおふたりがお話してるのを少し聞いてしまいまして、昔見たお写真と少し面影がごさいましたので……すみません。」

いやいいんだ、と男はそう言ってがぶりとかつさんどを頬張った。家に帰って男はまたペンを手に取った。しばらく経って、男は百数文字書いた原稿用紙をまた捨てた。

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