1-2『怪奇現象と社会的危機』
「あ゛ー、終わったー」
全てのゴミの片付けが終わり、持ち込んだ荷物の整理を終えた座織は、その場に布団を敷くと仰向けに寝転がる。
万年床が標準の彼にとって、本来引越して一番最初にしたかったことがこれだった。生憎初めては掃除に奪われてしまったのだが。
開けた窓から入る春の風が、部屋に満ちていた甘い臭いを残らず攫い、暖かな日差しが窓の形を切り取るように射す。
「ふあぁ……」
ふと、座織自身も驚く程の大きな欠伸が一つ零れる。
そして眠気を自覚した時には、彼の意識は既に途切れていた。
ここは卯穂摩荘202号室、座織が住むことになったアパートの一室である。
エアコン台所備え付け、風呂無しトイレ有りの六畳一間。家賃30000円(訳有り値引き・電気代水道代別)。
こんな好条件滅多に無いと必死に食い付いたが、見事に大当たりだった。
まずどういう訳か他入居者が皆1階に集中している為、隣人との騒音トラブルに悩む必要がない。
そして丁度よい日差し。202号室の向かいには程々に背が高い木こそあれど、光を阻む物が無いため洗濯物が早く乾くであろうことが容易に想像できる。
最後に彼の最重要理由、大学までの遠過ぎず近過ぎない距離。
これだけの条件が揃っていながら家賃が4万円に届かないとなれば、逃がす手は無い。
幸い噂のポルターガイスト等怪奇現象も未だ発生していないことも相まって、座織はこの幸福を噛み締めていた。
お化けなんてないさ、お化けなんて嘘さ。寝ぼけた人が見間違えたのさと、この時この瞬間まではそう思っていた。
「んー……んあ?」
肌寒い風が頬を撫で、ブルりと体を震わせると、座織はすっかり重くなった瞼を持ち上げる。
ショボショボと寝ぼけ眼を薄く開き横になったまま首を傾けると、開けっ放しの窓の外はもうすっかりと暗くなっていた。
「あー、寝過ぎたか。今日寝れっかな……」
そんなことを呟きつつ体を起こそうとした時、座織は奇妙な違和感を覚えた。
――右腕が、重い。
まるで、腕に錘が絡みついているかのようだった。
それに気付いた瞬間、まだまだ足りないと駄々を捏ねる眠気が強引に引き剥がされ、続いて全身から滝のような汗が流れる。
とうとう出やがったかと、体温が急激に下がっていくかのような錯覚に陥る。この部屋へ足を踏み入れた瞬間以上に、心臓が鼓動を早めた。
当然、早まる鼓動は期待やそれに類するものではない。噂に聞く怪奇現象とやらが、唐突にその姿を現したのだ。
――決して右を向くな。向いたら、多分よくないことが起こる。そうだ寝た振りだ! そうすりゃそのうち居なくなる筈だ!
一瞬、訳が分からずパニックを起こし掛けるも、座織はどうにかそれを堪える。
そして単純にして簡潔な対処法、狸寝入りを思いつくと、すぐに実行へと移した。
常時これだけの理解力と判断能力があったならば、きっともう少しマシな大学も狙えただろう。
――俺は寝てる俺は寝てる俺は寝てる俺は寝てる俺は寝てる俺は寝てるッ……!
必死に何度も自分にそう言い聞かせ、座織は狸寝入りを続ける。
どうかこの瞬間だけ止まってくれと、音が漏れ聞こえそうなほどに波打つ心臓に懇願する。
まるで一分が一時間に感じられるような緊張が、座織の心を支配していた。そのとき、
「うーん……」
右腕に絡みつくソレから、小さく唸り声がした。
当然、ソレの挙動に全神経を張り詰めていた座織が気付かない訳もなく、
「ああああああああああああ!!! あああああああああああ!!!」
休みなく空気を入れ続けた風船が破裂するように、座織はとうとう悲鳴を上げた。
※ ※ ※ ※ ※
「――なにがどうなってんだ、これ」
発狂してから数分後、落ち着きを取り戻した座織は自由な左手で顔を覆い力なく呟く。
理由は一つ、彼の身に降りかかった災難の元凶が、未だ座織の右腕に絡みついたまま気持ち良さそうに寝息を立てていたからだ。
そしてその正体は、どこからどうみても人間の女の子だった。
見た感じの年齢は10歳前後といったところだろうか。長い睫と濃い茶髪、肩に掛らない程度のショートカットが特徴的だ。
「ある意味、幽霊よりずっと厄介だぞ」
女児連れ去り、監禁、暴行、警察沙汰、逮捕、裁判、死刑。昼間管理人の部屋で聞こえたラジオのせいで、そんな言葉がグルグルと彼の脳内を駆け巡る。
当人の身に一切覚えがなくとも、この状況が第三者の目に留まれば、座織の発言などなんの力も持たないだろう。
怪奇現象かと思えばこの状況。部屋に訪れてからの怒涛の展開に最早何も考えたくない座敷は、乾いた笑いに濁った瞳を添えて現実逃避を計っていた。
――って、んなことしてる場合じゃねえだろ。
今晩の献立は何にしようかと考えたところで、今はこの状況を打破すべきだと辛うじて残っていた理性が告げる。
確かに、今の状態は非常にまずいと言えるだろう。この少女がどこの誰なのか知らないが、大声を出されればその時点で座織の人生は詰む。
とにかく起こさないように、座織は絡みつく少女の腕を剥がそう手を伸ばした。
――起きるなよ、起きるなよ。
気分はまるで爆発物処理班だとでも言わんばかりに手が震える。もっとも、一歩間違えれば大惨事なことに変わりは無い。
慎重かつ繊細に、座織の手が絡みつく少女の腕に触れた瞬間、
「おっそーい! なにやってんのハル……カ……?」
勢いよく開かれた玄関のドアと共に、そんな声が部屋に響いた。
「……」
座織はビクリと大きく肩を震わせ、油の切れた機械のような挙動で玄関を見る。
そこには彼の腕に絡みつく少女より若干背の高い、金髪ツインテールの少女が、呆然と二人を眺めていた。
再び座織は、視線を腕に絡みつく少女へ移す。そして今の自分の状況と、やろうとしていたことを思い返す。
――詰んだ。
端から見れば、今まさに少女に手を出そうとしている悪漢とその少女という絵面である。
「冤罪ってこんな風に生まれるんだなぁ」と、座織は諦観して他人事のように呟いた。
「…ね……たい」
そんな座織の嘆きともとれる呟きは玄関の少女の耳に届いていないらしく、少女はフルフルと肩を震わせ小さな声で何かを呟いていた。
もっとも座織自身、別に話しを聞いてほしくて呟いた訳ではない。今日起きた出来事に対する脳の許容量がオーバーしただけである。
なにより、これで未だ腕に絡みつく少女を起こさないよう気を張る必要が無くなったのだと、反って思考が前向きになっていた。人はこれを自棄と呼ぶ。
こうなっては失う物などないとでもいいたげに、座織はダメもとでこの状況について説明しようと、絡む少女の腕を解き腰を上げた。
その瞬間、
「死ね、 変態」
「ッ!」
少女の怒気を孕んだその言葉に、ゾワリと首筋の毛が逆立つ。と同時に、座織は底冷えするような悪寒に襲われた。
まるで人を食らう獣が目の前に現れたかのような、命の危機が眼前に迫った時に感じるであろうそれだと本能的に理解する。
果たして、その直感は正しかった。
「燃えろ!」
徐に、少女は掌を座織に向けるとそう叫ぶ。
途端、そこから猛る業火が彼の顔面目掛けて放たれた。
「うおぁ!?」
鼻先寸前、ギリギリのところで身体を仰け反らせ、座織は辛うじて炎を回避する。
そして放たれた炎もまた、開けっ放しになっていた窓へと吸い込まれるように、部屋の物に引火することなく消えていった。
「は? ――え、は?」
床に腰を打ちつけつつ、炎が通った軌跡を呆然と眺めながら、座織は呆けた声を出す。
何が起きたのか分からないと、まるで夢でも見ているような感覚に、しかし本能が危険だと警鐘を鳴らし続ける。
諦めや自棄などではない、座織は正真正銘の錯乱状態に陥った。
こうなった人間が次に取る行動は、大きく分けて三つある。
一つ目は、形振り構わず逃げる。身の危険が明確に迫っているのだ、これが最も一般的かつ常識的な判断だろう。
二つ目は、その場に留まる。いや、留まると呼ぶには語弊がある。腰が抜けて動けなくなる、そう呼ぶのが正しいと言える。
三つ目は、再び行動を起こされる前に相手を制圧。余程の自身があるのか、或いは自殺志願者か、どちらにせよ確実な策でも無い限り、まともな思考をしているとは呼べない。
果たして、座織が取った判断は、
「やめんかバカタレがー!」
良く言えば勇猛果敢、悪く言えば無策無謀に少女へ駆け寄った。