第六章「対決」
「……ごめんなさい……私が……やりました……」
榊原と彩奈の対決が終わって数分後……少し落ち着いた彩奈は、もう一度そう言葉を漏らした。すでに時刻は午後八時を過ぎているが、ここまで来ればもう誰も帰りたいなどと言わなかった。ただ静かに、彼女が何を語るのかを注視している。
そんな中、斎藤が静かに尋ねた。
「動機は何だ。なぜ槙島光太郎を毒殺した?」
「……彼が……私に嘘をついたから……」
彩奈はか細い声でそう答えた。
「嘘?」
「……一週間くらい前に……私……図書室で槙島君から手紙をもらったんです……。その……付き合ってみないかって……。私……昔から彼の事が好きだったし……とても嬉しくて……。でも……彼は……嘘をついていた……。誰も付き合っている人はいないって手紙に書いてあったのに……」
「……その数日後、槙島は図書室に再び姿を見せた。別の女子生徒を連れて。そういう事かね?」
斎藤の言葉に、彩奈は震えながら頷いた。
「ゆ……許せなかったんです! 彼は……私の好きだって気持ちを……私の目の前で裏切った……あの人にとって私は遊びだったんです……許せるわけがなかった……」
「恋愛感情のこじれか……。だからって殺す事はないだろう」
斎藤の言葉に、彩奈は少し声を荒げて反駁した。
「刑事さんに……私の気持ちがわかるわけありません! 大好きだった人に裏切られたこの気持なんか……だから……先輩がいい気になっている今日……バレンタインデーに……」
彩奈は拳を握りしめてそう言った。
「犯行は榊原さんの言った通りなのか?」
「……はい……。昨日、化学準備室から盗んで……チョコに入れて、六時間目に彼の下駄箱に入れました。全部……さっきの推理通りです……」
「そうか」
そこで、彩奈は涙を流しながら訴えた。
「私は……あの人の事が好きだったのに……彼が、あんな裏切りをしなければ……私は……」
泣きじゃくる彩奈に、誰もが何も言えないでいた。バレンタイン起こった恋愛感情のもつれからくる殺人。重苦しい空気がその場に漂いつつあった。
だが、まさにその瞬間だった。
「……いい加減に、猿芝居はその辺にしてもらえるかね?」
ただ一人、全くこの場の空気を読まない男……榊原恵一が、先程よりも厳しい口調でおもむろにそう告げた。何もかもが終わったはずだった会議室の空気が一気に凍り付く。だが、一番呆気にとられていたのは当の彩奈自身だった。
「な……猿芝居って……」
「そのままの意味だが、二度言わないとわからないかね? そのくだらない茶番をさっさとやめろと言っているんだ」
「ちゃ、茶番って……そんな言い方……私にとっては真剣な話で……」
「じゃあ言い方を変えようか。出鱈目なお涙頂戴の物語はもう結構だ。自分が哀れな被害者だなんてそんなくだらないお芝居は私には通用しない」
「ど……どうしてそんなひどい事を……」
泣きじゃくりながらそう訴える彩奈だったが、しかし榊原は一向に動じる様子を見せなかった。
「ひどい、ね。なら、私も言わせてもらうが……殺人をなめるんじゃない」
「え……?」
「衝動的な殺人とか快楽目的の猟奇殺人とかなら話は別だが、計画殺人というのは人が本当に追い詰められた場合に発生するものだ。大抵の人間は殺人を計画している段階で自分がしでかそうとしている事の重さに気付く。それでもその計画殺人を実行したとなれば、その犯人にはその罪悪感を経てもなお殺人を実行に移すだけの覚悟……あるいは実行しなければならないだけの事情があるはずだというのが私の持論でね。そこから考えれば、さっきのお涙頂戴の物語程度で殺人が起こるとは私には到底思えない。もしあの動機でここまで計画的な毒殺計画を実行したのだとすれば、君は殺人と言う犯罪をなめているとしか言いようがない」
それは、今まで何件もの殺人事件を解決に導いてきた榊原だからこそ言える重みのある言葉だった。
「で、でも……私は本当にあの人が好きで……だから裏切られたのが許せなくて……」
「では聞くが、君の話が本当だったとして、君が前から槙島を好きだったという客観的かつ具体的な物的証拠がどこかにあるというのかね?」
「え、えぇ?」
思わぬ事を聞かれて、彩奈は絶句した。他の人間も予想外の話の行方に何も言い出せずにいる。そんな中、榊原はずばりと言いきった。
「これが恋愛小説か何かだったらそんなものは必要ないんだろうが、生憎、私は探偵でね。具体的な証拠がないと納得できない。私を納得させられるだけの何か証拠があるのなら……その場合は素直に謝罪しよう。さて、どうかね?」
「そ、そんな事を言われても……」
彩奈はしどろもどろになる。実際、瑞穂もどこか唖然とした表情を浮かべていた。常に女性相手にこんな態度なら榊原が四十を過ぎた今になっても独身なのも当然である。実際、かつて榊原本人が恋愛絡みの話は苦手だとかつて話していたのを瑞穂は覚えていた。もっとも、それにもかかわらず他人の恋愛に絡む殺人事件謎をズバズバ解決していくのだからわけがわからないのだが……。
と、ここまで考えて瑞穂はハッとした。そう、今までの傾向を見る限り、事件にかかわる事なら榊原も最初から恋愛絡みの話を頭越しに排除するような事は絶対にしないはずなのだ。にもかかわらず、今こうして彩奈に対してはかなり強硬な態度を取り続けている。という事は……彼女の動機が恋愛絡みでない事を、どういう理由からかすでに榊原は確信しているという事に他ならない。だからこそ、榊原はあえて高圧的な態度で彩奈に対峙し、榊原曰く「お涙頂戴の物語」で事件に幕を引こうとしている彼女のペースを打ち崩そうとしているのだろう。
(まだ、勝負は終わっていない……っ!)
瑞穂の表情に緊張が浮かぶ。同時に、瑞穂は彩奈がどのようなタイプの犯罪者なのかを理解していた。一番大切なのは動機の隠蔽で、そのためにあえて犯罪そのものはあっさりと認めてしまい、犯行を暴いた事でホッとしている捜査陣に偽の動機を話す事で真の動機を隠そうとする……。おそらくはそのようなタイプである。
だとするなら、この手の犯人に対峙する探偵にとっては犯行の証明は勝負の終わりではない。むしろここから……動機の解明からが犯人との対決の本番なのである。他の人間もそれを悟りつつあるのか、終わった感が広まっていた会議室に再び緊張が走っていた。
そして、それは彩奈自身もよくわかっているようで、すぐに体勢を立て直して榊原に反論しにかかった。
「そんなの……そんな証拠なんかあるわけがないじゃないですか……恋愛っていうのは心の問題で……」
「ならば、私も君の話を一切信用できない。探偵が感情論だけで犯人を追い詰める事ができないのと同じだ。証拠がなく君だけが感情的に主張しているだけのこの状況で、君の話を一方的に信用するなどという事はできない。つまり、君がさっき言った動機が本当のものなのかどうかを証明する手段は何一つ存在していないという事だ」
「なら……なら、何だっていうんですか! 私が……私があの人を殺さなきゃいけない動機なんて……」
「その前に聞くが、さっきの話で君が槙島から受け取ったという手紙……今ここに提示できるかね?」
その言葉に、彩奈に反論がピタリと止まった。
「ど……どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ。君の話が本当なら、その手紙なりメモがちゃんとあって、そこには槙島からの愛の告白なりが書かれているはずだ。それを見せてもらえるかね?」
「えっと……それは……」
その瞬間、明らかに彩奈の目が泳いだ。
「ないのかね?」
「この場には……ありません。家に……」
「なら、調理器具を探すついでに家宅捜索でその手紙も押収するとしようか。どこにしまってあるのかね?」
「えっと……どこにしまったか……ちょっと忘れてしまって……」
「ほう。大好きだった人からもらった愛の告白文をどこにしまったのか忘れてしまったという事かね。好きだった割には、随分な話だな」
その瞬間、彩奈の顔が少し歪んだ。自分でもこの発言が矛盾している事に気が付いたのだろう。しばらく動揺していたようだったが、やがてポツポツとこう反論した。
「それは……思い出しました……。あの人が裏切っているって知って……情けなくて思わず捨ててしまったんです……だから家のどこにも……」
「捨てた、ね。まぁいい。なら、その手紙の内容は?」
「え?」
「当然手紙を読んだんだろう? なら、その手紙に何と書いてあったか内容は言えるはずだ。それを今この場で言ってほしいんだがね」
「あ……えっと……それは……」
彩奈は何かを言おうとして……そのまま言葉に詰まってしまった。まるで、言いたくても何も言えなくてもどかしいと言った風である。榊原はしばらく待っていたが、やがて首を振りながら言った。
「……まぁ、そんなところだろう。ここまで心理的に追い詰められて咄嗟に他人からの愛の告白文を一から考えるなんてまず無理だ。要するに……君は槙島からの告白文なんか読んでいないという事になる」
「読んでいないって……でも、先生、彼女に被害者が手紙を渡したのは確実なんですよね。目撃者もいるみたいですし」
瑞穂がそう尋ねると、榊原は小さく頷いた。
「あぁ。彼女が被害者から手紙をもらったというのは事実だろうな。問題は、その手紙の内容が本当にラブレターだったのかというこの一点だ」
「ち、違うんですか? じゃあ、一体何を……」
瑞穂は目を丸くする。榊原は冷静な口調でこう続けた。
「目撃者の話では、手紙を受け取った瞬間の彼女は顔を赤くしていたという事だ。これがラブレターなら顔を赤くした理由は嬉しさ、もしくは恥ずかしさが故という事になってくるんだろうが……もし、内容がラブレターではなかったとするならば、この『顔を赤くした』という行為に別の意味が加わってくる可能性がある」
「別の意味って、何ですか?」
「……怒り、もしくは屈辱、と言ったところだ。違うかね?」
そう聞かれて、彩奈は何も言えずに表情を赤くしていた。そしてその表情こそが、榊原の推理を証明する何よりも明確な証拠になっている事に瑞穂は気付いた。
「どうやら、当たりのようだな」
「……意味が……わかりません……何で私が……あの人の手紙を読んで怒ったり屈辱を感じたりしないといけないんですか……」
「それは、それだけの何かが手紙に書かれていたからだろう。今までの情報から見るに、被害者は表の顔とは別にいじめを主導するなど負の一面も持っていたようだ。ならば、それに関係する事かもしれないな」
「違います……私……彼に脅されるような事なんて……やっていません……」
彩奈は振り絞るように言った。が、そこで榊原は不敵に笑った。
「脅された、ね。私はそんな事は一言も言っていないが?」
「っ!」
彩奈は息を飲む。自分が失言した事に気付いたようだ。
「ち……違います! これはその……言葉のあやと言うか……」
「人間というものは追い詰められると思わぬ失言をしてしまうものだ。さて、被害者が君を脅していたとなれば、脅されるだけのネタが君にはあり、被害者はそのネタを何らかの形で知っていた事になる。問題は、それが何なのかだ」
「だから……違うって……」
彩奈は必死に言うが、榊原は取り逢おうとしない。
「そうなると、気になるのが被害者の槙島光太郎絡みで二つの事件が起こっているという点だ。一つは、半年前に木鳩恵麻と言う少女が自殺未遂を図ったという事件。もう一つは、二週間ほど前にこの近くで黒野豊子という老婦人が自転車で轢き逃げされ、その現場からこの高校の野球部と思しき人間が自転車で逃走するのが目撃されたという事件だ。ちなみに、これらの事件の事は知っているかね?」
榊原の問いに、容疑者たちは顔を見合わせながらも頷いた。
「えっと、一応は。自殺未遂の方は校内であった話だし、特に私と松北君は自殺未遂した木鳩さんとは同じクラスだったから当然知っています。自転車事故の方も近所でそんな事があったってホームルームで先生が言っていました」
代表して茉優が答える。
「ちなみに、自転車事故で死んだ黒野豊子は保護司で、野塚君、かつて補導された君を担当していた事もあったそうだが……間違いはないかね?」
そう聞かれて和菜はピクリと少し反応したが、やがて肩をすくめて頷いた。
「あぁ。おせっかいな婆さんだったよ。あたしなんかのために必死になってさ。本当に……馬鹿野郎だよ……」
口ではそう言いながらも、和菜の拳がギュッと握られたのを瑞穂は見て取っていた。表向きはともかく、やはり思うところはあったのだろう。
だが、そんな中で彩奈が必死に反論した。
「確かに……そんな事件が起こったのは知っています……。でも、だから何なんですか……。それは、あの人の周りで起こった事件であって、私には関係ないじゃないですかぁ……」
だが、榊原はその反論を想定していたのか、落ち着いた様子で再反論した。
「確かに、一見するとこれは被害者の槙島の周辺で起こっている事件に見える。だが、もしこの二つの事件のうちどちらかに君が何らかの形で関与していていたとすれば、そこに君が脅迫される下地が生まれる事になるとは思わないかね?」
「関与って……」
「例えば木鳩恵麻の自殺未遂事件だが、自殺未遂をした木鳩恵麻は大田区内にある北場中学の出身だったそうだ。これは確か君の出身中学だったと思うが、それについてはどうだね?」
静かに問われて、彩奈は緊張した様子を見せる。さっきから思わぬところから攻め込まれ続けているだけあって、いい加減に慎重になりつつあるようだ。
「それは……確かにそうですけど……でも、もしそうだったとして何か問題でもあるんですか? 私の出身中学校からここに進学する生徒は多いから……たまたま一緒だったとしても何もおかしい事はありません。木鳩なんて子も知りませんし……まさか、その程度で私とその木鳩とかいう子が関係しているとでも……」
「いや、あくまでも確認だ。念押しで聞くが、君が北場中の出身であるという事に間違いはないね?」
「……間違い……ありません」
話の行方はどこに行くのかわからないまま、彩奈は慎重にそう答えた。そこへ茉優が問いかける。
「あの、探偵さんは木鳩さんの自殺未遂に国木田先輩が絡んでいると思っているんですか? 例えば自殺未遂の原因が槙島先輩に振られた事じゃなくて、国木田先輩絡みの何かだったとか?」
だが、榊原は首を振った。
「いや、そうは思っていない」
「え?」
「私が注目しているのはむしろもう一つの方……黒野豊子轢き逃げ事件の方だ」
「轢き逃げって……だって、そっちの方こそ国木田先輩には全く関係ない事件ですよね? 現場から逃げ出すのを目撃されていたのは野球部の人間だって話ですし」
茉優の言葉に、榊原は注釈を入れる。
「正確には、目撃されたのは共栄高校の文字が入ったバッグをかごに入れて野球部の帽子をかぶった人物だったらしい。この事件の関係者に元まで含めると野球部関係者は三人いるが、この中で自転車通学をしているのは被害者の槙島だけ。仮にこの轢き逃げ事件が今回の毒殺事件に関与していると考えた場合、この目撃された人物に該当するのは槙島だけだ」
「だったら、ますますわかりません。もしかして、国木田先輩が槙島先輩の轢き逃げを目撃していて、槙島先輩がそれを知って国木田先輩に誰にも言わないよう脅したとか?」
茉優はそう推理したが、榊原は首を振る。
「いや、それだと事が殺人まで発展してしまう事に説明がつかない。その場合は素直に警察に言えば槙島は逮捕され、それで事件も脅迫も解決するはず。わざわざ殺人まで引き起こして自分まで犯罪者になる必要性は一切ない」
「じゃあ、何だっていうんですか? 槙島先輩が轢き逃げの犯人なら、脅迫に至るような状況はそれしか考えられないんですが」
自分の推理を否定されて不満そうに言う茉優だったが、当の彩奈の顔色はなぜかすっかり悪くなっていた。それをちらりと見ながら、榊原は不意にこう告げた。
「その前提が間違っていたとすればどうだ?」
「……え?」
「今の推理は、槙島が轢き逃げの犯人だったという事を前提にしている。だが、この考え自体が間違っていたとしたらどうだ?」
思わぬ事を言われて高井戸が戸惑った風に言う。
「いや……あんた何言ってんだよ。さっき、目撃された人物に該当するのは槙島しかいないって断言したばっかりなんじゃ……」
「あぁ。確かに、状況的に考えて轢き逃げ直後に目撃された野球部の男は槙島である可能性が非常に高いだろう。私もそれを覆すつもりはない」
「だったら……」
「だが、その目撃証言は別にその野球部の男が黒野豊子を轢き逃げした瞬間を直接見たというものではない。あくまで、『野球部の誰かが現場から逃げていくのを見た』というだけだ。そして、この言い回しの差異が一つの大きな可能性を生み出す」
その言葉に、その場が一瞬静まり返った。そんな中、和菜が恐る恐る言う。
「……待てよ、それってまさか……」
「確かに槙島は轢き逃げの時に現場にいたんだろう。それを否定するつもりは私にもない。だが、現場にいたイコール犯人であるとは必ずしも限らない。例えば、その時点で轢き逃げはすでに終わっていて、その光景に怖気づいた槙島が思わず現場から逃げたところを目撃されたのだとすれば……この目撃証言に矛盾はなくなる」
「それって……槙島のやつは、轢き逃げの犯人じゃなくて、目撃者だったってのかよ!」
和菜が目を見開いて叫んだ。
「それが私の考えだ。そして、もしこれが正しければ、この轢き逃げ事件の構図が……そして今回の事件の構図が大きくひっくり返る。二週間前、槙島は自転車で帰宅途中に目の前で誰かが黒野豊子を自転車で轢き逃げする光景を目撃してしまい、自身もその場から逃げてしまった。倒れている被害者を助けなかった理由はわからないが、おそらく疑われるのを避けようとしたんだろう。そして、もし槙島が目撃したその轢き逃げ犯が槙島のよく知る人間だったとしたら……これ以上ない脅迫材料になるとは思わないかね?」
「ま、まさかっ!」
その瞬間、和菜がバッと彩奈の方に鬼のような形相を向けた。その視線をバックに、榊原はすっかり無言になってしまっている彩奈にズバリと切り込んだ。
「彩奈君、君が被害者に脅迫されていたネタ……それは、二週間前に君が自転車で黒野豊子を轢き逃げしてしまった事に関するものではなかったのかね?」
その言葉が発せられた瞬間、場に鋭い緊張が走った。一方、彩奈はいやいやと首を振りながら反論する。
「そんな……殺人だけじゃなくて……轢き逃げの罪まで着せようとするなんて……ひ、ひどすぎますっ!」
最後は叫びに近い声だった。だが、榊原は恐ろしいほど冷静にその反論を潰しにかかる。
「だが、君も轢き逃げの条件に合致しているのは事実だ。君は北場中の出身という事だが、同じ北場中出身の木鳩恵麻は半年前、この学校の自転車置き場の自分の自転車の前で手首を切っている。という事は、北場中の学区から通っていた木鳩恵麻は自転車通学だったわけだ。そして、その木鳩恵麻と同じ中学から来ている君も同じく自転車通学者である可能性が高い事になる」
瑞穂はここで初めて、さっき榊原があれだけ彩奈の出身中学を念押ししていた理由を理解した。そして、彩奈自身これを否定する事はもうできないだろう。こんなものは調べればすぐわかる事だからだ。
「た……確かに私は自転車通学ですけど……でもっ、自転車通学の人間なんて……この学校に何人もいます! 何で……何で私だけなんですかっ!」
気弱そうだった話し方の語尾が少し強くなっている。それは、彼女が追い詰められている事の何よりもの証拠であった。それを確認しながら、榊原はさらに深く切り込んでいく。
「では、事故のあった二週間前の事故当時……午後五時くらいのアリバイは?」
「そ、そんなの……二週間前の事なんて、覚えていませんっ! それより、質問に答えてくださいっ! 何で私が……」
そこで榊原はじろりと彩奈を睨んで啖呵を切る。
「反論しているところ悪いが、この轢き逃げ事件は一度疑いがかかってしまえば、毒チョコ事件と違って立証するのはそう難しい事じゃない。人が死ぬほどの勢いでぶつかっている以上、ぶつかった自転車側もただですむとは思えない。一見何ともないように見えても、何らかの痕跡が残っているはずだ。高校生の君が親に知られる事なく修理代を出して自転車屋に修理してもらうわけにもいかないし、高校通学用の自転車には学校の配布する登録シールなりが張ってあるはずだから別の自転車でごまかすわけにもいかない。つまり、今君が使っている自転車を警察の鑑識が調べたら、ほぼ間違いなく決定的な証拠が出てくるという事だ!」
「そ……それはっ!」
「仮に自転車に痕跡がなくても、事故現場には当然タイヤ痕が残っているはず。自動車同様に自転車のタイヤ痕も千差万別だ! 何なら、今自転車置き場にあるであろう君の自転車のタイヤと事故現場で採取されたタイヤ痕を比べてみようか?」
だが、ここまで言われても彩奈は諦めなかった。一瞬言葉に詰まりはしたが、即座にこんな反論を叩きつけてくる。
「そ……そうです! 確か……二週間前に私の自転車は一度盗まれていたんです! 今……思い出しました!」
「盗まれた、だって?」
「次の日に自宅近くの路上に放置されているのを見つけました……。だから盗難届も出さなかったんですけど……多分、痕跡が出るとすればその時にその自転車窃盗犯が轢き逃げをやったんです!」
「そんな言い訳が通ると本気で思っているのかね!」
「言い訳も何も……本当に盗まれたんだからしょうがないじゃないですか! それとも……自転車窃盗がなかった証拠でもあるんですか!」
彩奈は叫ぶように反駁する。気弱な女生徒という仮面が徐々に剥がれかけているが、榊原は一切ひるまない。
「……確かに、自動車窃盗がなかった証明はできない。だが、轢き逃げ事故当日に君が自分の自転車に乗っていた事を証明する証拠はある!」
「あるわけが……あるわけがありません! そんなものがあるわけが……」
「私の推理では、被害者の槙島は轢き逃げ事故を目撃し、その後君が犯人である事をネタに脅迫したはずだ。事が轢き逃げ死亡事故である以上、脅迫しても君が警察や学校に訴え出る可能性はないからな。被害者の性格的に、君を脅迫して何か要求するくらいの事はやったと思う。一週間前の例の手紙は、ラブレターではなくこの槙島からの脅迫だったんだろう。で、君はその脅迫に我慢できなくなって槙島を毒殺した! 人が脅迫に耐えかねて殺人を犯す場合、その脅迫ネタになっている事柄は殺人と釣り合うだけのものである可能性が高いというのが犯罪捜査の定石だ!」
「言い掛かりです!」
彩奈が叫ぶ。だが、榊原は最後の証拠を叩きつけにかかる。
「さて、被害者が君を脅迫していたとして、その場合ただ口で『見た』と脅すだけだったんだろうか?」
「え……?」
「いくら口で見たと言っても、君が否定してしまったらどうしようもない。それこそさっきのように自転車が盗難されていたと否定されてしまう可能性だってある。しかし、被害者は君を脅迫し、君はその脅迫を拒否できずに殺人に走った。つまり、槙島は君が脅迫を拒否できないだけの、轢き逃げに関する何か決定的な証拠を持っていた事になる!」
その瞬間、彩奈の顔が蒼を通り越して顔面蒼白になった。
「そ……そんなもの……そんなものは……」
「では、その証拠とは何なのか? 状況的に、槙島が轢き逃げを目撃したのは偶然だ。となれば、証拠となりうるものは限られている。例えば、事故直後の写真を槙島が撮影したとか……あるいは、事故の拍子に君の持ち物が現場に落ちてそれを槙島が拾ったかだ!」
「っ!」
彩奈が大きく息を飲んだ。榊原は最後の推理をぶつけにかかる。
「君が槙島を毒殺した理由。それはこの槙島からの脅迫を終わらせると同時に、槙島が持っているであろう轢き逃げの証拠を奪い返す事にあったというのが私の考えだ。だが、今回の事件は衆人環視下での毒殺だから、被害者の死後に君が被害者に近づく事はできないし、実際にそんな事実は確認されていない。つまり、君は最初から被害者の所持品に手を付けるつもりはなかった事になる。だとすれば、君が奪還すべき証拠はどこにあるのか? 可能性は二つだ。一つは槙島しか知らないどこかに隠してある場合。しかし、脅迫の材料である以上、槙島がそれを手放すとは思えないからこの可能性は考えなくてもいいだろう。そしてもう一つは……別に奪還しなくてもそれが槙島の持ち物として特に検査される事もなく処分される事が確実である場合だ」
「そんな都合のいいもの……あるわけ……」
と、そこで榊原は急にこう尋ねた。
「君は目が悪いそうだね」
「……え?」
「視力だ。さっきの尋問で聞いた限り、数週間前から眼鏡をかけ始めたそうだが、悪いのかね?」
「それは……確かそう……ですけど」
「そうかね」
そう言って頷いてから、榊原は鋭くこう告げた。
「では、目が悪くなり始めたのはいつからだね?」
「い……いつって……だから、数週間前から眼鏡を……」
「つまり、本格的に目が悪くなったのは数週間前からで、それ以前は眼鏡なしでも生活できた、と」
「そうです……が」
「……それにしては、君の眼鏡は度が強すぎるんじゃないかね?」
そう言われて傍らの瑞穂はハッとした。確かに、言われてみれば初めて眼鏡をかけたにしては、彼女のかけている丸眼鏡の度数はかなり高そうに見える。思わず眼鏡に手をやる彩奈を尻目に、榊原は淡々と言葉を続けた。
「それだけの度数の眼鏡となれば、かなり前から視力が落ちていたと考えるのが普通だ。つまり、君は眼鏡をかける以前からかなり視力が悪かったと考えるべきだ」
「でも先生! 彼女が眼鏡を初めてかけ始めたのは数週間前なんですよね? そんな視力の人が裸眼でずっと生活できるとは思えないんですが」
瑞穂の問いに、榊原は頷きながら答えた。
「あぁ、だから彼女は視力を矯正していたんだろう。おそらくは……コンタクトレンズで」
「あっ!」
その瞬間、斎藤が声を上げた。一体何が決定的証拠なのか、それがわかったからである。
「斎藤、確か被害者の所持品の中にコンタクトレンズのケースがあったな?」
「はい。被害者も眼鏡をしていましたから、てっきり被害者のものかと思っていたんですが……」
「私の推理では、槙島は例の轢き逃げ事故を目撃した際に、現場で何か証拠を得て彼女を脅迫している。もしその証拠というのが、自転車が黒野豊子にぶつかった瞬間に犯人の目から落ちたコンタクトレンズだったとすればどうだ!」
その言葉に、今度こそ彩奈が体をガタガタ震わせ始めた。
「槙島は君が去った後の現場でコンタクトレンズを拾った。君は眼鏡をかけたくなくてずっとコンタクトで通してきたんだろうが、事故でコンタクトレンズをなくしたなどと眼科医に言うわけにもいかず、おそらくはスペアで用意していた眼鏡をかけて学校に行かざるを得なくなった。それが、君が数週間前から眼鏡をかけ始めた理由だ。だが、槙島は現場で拾ったコンタクトレンズを証拠に君を脅迫してきた。それこそが、被害者がバッグの中に入れていたコンタクトレンズだったとしたら?」
「じゃあ、あの所持品のコンタクトレンズは被害者のものではなかったんですか?」
斎藤の問いに榊原は頷く。
「おそらく、ケースがあったからには彼自身もコンタクトは持っていたと思うが、それはあくまで予備で普段はずっと眼鏡で通していたんだろう。で、普段使わない自分のコンタクトレンズの代わりに問題の拾ったコンタクトレンズを入れて彼女を脅迫した。逆に言えば、この場合犯行後にわざわざコンタクトを取り返さなくても、警察が勝手に被害者のものだと判断して最大の証拠であるコンタクトを処分してくれるという寸法だ。犯行が犯行だから、警察もわざわざ事件に関係のないコンタクトを精密検査にかけるような事はしないという判断だろう」
「確かに……この犯行で鞄の中にあったコンタクトを検査するなんて事は普通しませんね」
斎藤が呻き声を上げる。榊原は、彩奈に最後通告を突きつけにかかった。
「そして、被害者の鞄の中に会ったコンタクトがもし君のものであるならば、そのコンタクトには君のDNAが含まれた涙や事故現場の土などが付着しているはず。警察が調べればこんなものは一発でわかるはずだ。そして、それがわかった瞬間、このコンタクトレンズはあの事故現場に他ならぬ君自身がいたという何よりもの物的証拠になる!」
「そ、それは……別の日にあそこを歩いていた日に……」
なおもあがこうとする彩奈に榊原はダメ出しをした。
「その反論も無意味だ。君がいつコンタクトを落としたかなどという事は、君がその眼鏡をいつかけ始めたのかで簡単に割り出せることだ。もしそれが事故の翌日だったとすれば、君がコンタクトレンズを落としたのは事故当日の下校後から翌日の登校時間までの間に限定される! そうなれば、もはや言い逃れは不可能だ!」
即座に反証されて完全に放心状態寸前の彩奈に、榊原はとどめを刺しにかかった。
「君は二週間前に自転車で下校中に黒野豊子を轢き逃げし、現場にコンタクトレンズを落とした。それを拾ったのが事件を目撃した槙島で、彼はそれをネタに君を脅迫した。そして君は、脅迫者である槙島と証拠のコンタクトを永久に葬り去るために今回の毒チョコ殺人を計画した。……これが君の主張するお涙頂戴の絵空事などではない、この事件の真の動機だと私は考えるわけだが、これでもまだくだらない言い訳を続けるかね? 国木田彩奈君!」
その瞬間、彩奈の何かが切れたようだった。何かを我慢するように震わせていた体が、まるで糸が切れたかのように床に崩れ落ち、次の瞬間、彼女は両手で顔を覆って泣き叫んだ。
「何で……何で……何でなんですかっ! 全部、うまくいくはずだったのにっ! やっと悪夢から解放されるはずだったのにっ! 何で、最後の最後になってあなたみたいな人がここに来ちゃったんですかぁっ! こんなはずじゃ……こんなはずじゃなかったのにぃぃぃっ!」
そう叫び終えると、彩奈は床に突っ伏して脇目もふらずに号泣し始めた。その光景を厳しい表情のまま黙って見下ろしている榊原を見ながら、瑞穂はこれで本当の意味ですべてが終わったのだという事を実感していたのだった……。