第三章「尋問②」
「何かさっき、野塚先輩が頭を抱えて戻って来たんですけど、何だったんですか?」
次に呼ばれたのは一年生のミス研部員・日高茉優だった。さっきから聞いている限り、口調や受け答えもしっかりしていて、おそらく頭の回転もそう悪くないのだろう。容疑者たちの中で一番手強い事が予想され、斎藤や榊原はそのつもりで彼女に相対する事にした。
「では、早速質問するが、被害者の槙島光太郎君について知っている事は?」
「野球部のエースという事は知っていますが、それ以外は知りません。学年も違いますから」
茉優ははきはきと答える。斎藤は試しにはったりをかけてみる事にした。
「ならいいが、それが嘘だった場合後で大変な事になる。それをわかった上での発言かね?」
「嘘も何も本当に知りません。個人的な付き合いは皆無です。そうとしか言えません」
斎藤の意地悪な問いに対し、茉優ははっきりとそう答える。高井戸の反応とは大違いである。
「……いいだろう。では、事件当時の話に移るが、君は問題の六時間目に気分が悪くなったという事で教室を出ているね。さっきの話だと、生物の授業でカエルの解剖の映像を見たそうだが」
「そうです。それで気分が悪くなってトイレに行きました。でも五分くらいの話です」
「いつ頃?」
「確か、始まってすぐだったはずですから、二時半を少し過ぎた辺りだったと思います」
「一年生の教室は一階だったはず。昇降口の辺りを通ったかね?」
「いいえ。教室から見ると昇降口とトイレは真逆の方向ですから。素直にトイレに行って、五分して落ち着いたらすぐに教室に戻りました」
茉優の答えは明快だった。と、ここで榊原が口を挟んだ。
「その時間だと五組所属の小浜幹也君が教室に遅れてきた時間と重なるが、その点については?」
「小浜君ってさっきの五組の野球部の男子ですか? あぁ、確かにそんな事を言っていましたね。でも……五組だったら教室も離れているからわかりません。大体小浜君とはさっき出会ったばっかりでしたから」
「初対面だと?」
「同じクラスに野球部のマネージャーをやってる友達がいて、その子から部内にそんな子がいるっていう事くらいは聞いていましたけど、せいぜいそれだけです」
「……もう一度確認するが、君は二時半頃に一階の一年生トイレに行ったが、その時に小浜君とは会っていないんだね?」
「そう言っているじゃないですか」
「なら、少し変だな」
不意にそんな事を言われて、茉優は怪訝そうな表情を浮かべる。
「どういう意味ですか?」
「いや、一階のトイレというのは男女が並んでいるんだろう? 別々の場所に造る意味はないはずだからね」
「それはそうですけど……」
「さっきの全体への質問の時、小浜君は確かこう言っている。授業に五分遅れたのは『トイレに手間取ったから』だと。これについてはどう思う? ミス研の会長なら意味するところはわかると思うが」
「え……あれ?」
そこで初めて茉優は不思議そうな顔をした。
「小浜君の話だと、彼は授業開始五分後にトイレから教室に戻っている。一方、君は授業開始五分後に気分が悪くなってトイレに行っている。男女の違いはあるとはいえ一階のトイレは並んでいる。そうなれば、ここで君たち二人は鉢合わせしていなければならないはずだが?」
「そう、ですよね」
茉優はその事実を認めたが、本人自身よくわかっていないようで首をかしげている。
「でも、本当に私、彼とは会っていないんです。入れ違いだったんじゃないんですか?」
「入れ違いと言うと?」
榊原はわかっていながらあえて茉優に答えさせる。
「だから、私が女子トイレに入った直後に彼が男子トイレから出て行ったとか」
「まぁ、その可能性がないとは言わないが……私たちとしては別の可能性も考える必要がある。つまり、君がトイレに行ったという嘘をついているという可能性だ。これなら鉢合わせをしなかったのに説明はつくが」
挑発するような物言いだったが、しかし茉優は肩をすくめただけだった。
「それはないと思います」
「なぜそう言い切れる?」
「それってつまり私が犯人だっていう推理ですよね? 本当はトイレに行っていなくて昇降口に毒入りチョコを仕込みに行っていたっていう。でも、それならこんな幼稚な嘘をつくはずがありません。だって、小浜君がトイレで五分遅れたって話は、さっきの全体への質問で私も聞いているんですから。私が犯人だったら、その情報を知っているのに『同時刻にトイレに行った』なんてわざわざ自分を追い詰めるみたいな事は言いません」
「ほう……」
榊原は少し感心したように茉優を見た。
「じゃあ、君はこの矛盾をどう説明する?」
「だから、入れ違いじゃないんですか? それか、小浜君が嘘をついているか、あるいは小浜君が行ったのが一階じゃなくて別の階のトイレだったとか。何でかは知りませんけど」
「君が一階のトイレに行った事を証明できるかね?」
「さぁ。指紋は残っていると思いますけど、それだといつ行ったのかは証明できないと思います。私には何とも言えません」
自分に不利な話なのに茉優はあっさりと答えた。
「……わかった。斎藤、割り込んですまない。続けてくれ」
「いえ、私が聞きたい事は今の尋問である程度聞けました。榊原さんこそ、他に何か?」
「……なら、遠慮なく。これは全員に聞いている事だが、さっき集まったあの六人の中に知っている人間はいるか?」
榊原の問いに、茉優は少し考えただけで答えた。
「安川先生は知っています。それに松北君は同じクラスですから当然。でも、他の人たちは、直接面識はありません」
「あぁ、君は松北君と同じクラスだったね。そう言えば、松北君もあの時間教室を抜けているはずだが」
「……言われてみれば、確かに一度抜けていました。三時頃だったと思いますけど。気分が悪かったのかな」
茉優はそう証言した。と、ここで斎藤が口を挟む。
「彼が被害者の槙島君にいじめられていたという事は知っていたかね?」
「誰かにいじめられているっていう話は噂程度では知っていましたけど、それが槙島先輩だという事は知りませんでした」
茉優は当たり障りのない答え方をする。榊原は難しい表情で再度こう尋ねた。
「では次に、今日はバレンタインだが、君はチョコを持ってこなかったのかね?」
「持ってきていません。生憎、送る人がいませんし、それに、チョコを作っている時間もありませんでしたから」
「時間がなかったというのは?」
「昨日は祖父の葬儀で横須賀にいたんです。だから学校も忌引きしていました。そんな状況で、チョコなんか作れるわけがないじゃないですか。何なら調べても構いませんよ」
「そうか……。じゃあ、最後に一つ。この事件、君は誰が犯人だと思う? ミス研の部長としてぜひとも意見を聞きたいのだが」
これに対し、茉優は肩をすくめた。
「そんなのわかるわけがないじゃないですか。私がやっているのはあくまで趣味。専門家の警察にはかないません。それくらいはわかっています。だから、私も誰が犯人かなんて、想像もつきません」
茉優は、最後まで落ち着いた様子で榊原たちの追及をかわし続けたのだった。
茉優の後に呼ばれたのは、先程の尋問でアリバイに疑惑が出ていた野球部一年の小浜幹也だった。当然野球部の先輩だった槙島の事は知っているはずなので、必然的に斎藤が最初に尋ねる質問は以下のようなものになった。
「槙島君はどんな先輩だった? 詳しく教えてほしいのだが」
それに対し、小浜は緊張気味でありながらも大きな声で答えた。
「自分にとって尊敬できる先輩でした。自分は先輩にあこがれてこの高校に入ったようなものです」
「なるほど。ところで、野球部での彼の様子は?」
「みんなに慕われていた先輩でした! 何でこんな事になったのか自分にはわかりません!」
「……一部には、いじめを主導していたという噂もあるようだが」
斎藤が軽く揺さぶりをかけると、小浜は大きく首を振った。
「自分には信じられません。そんな人ではありませんでした。自分には、誰が先輩を殺したのか全く理解できません!」
「そうかね……」
斎藤はひとまずそう言っておくと、ひとまず話を先に進めた。
「さっきも聞いたが、君は六時間目の授業に五分ほど遅れているようだね。さっきの話だとトイレだという事だが、改めて間違いないと言い切れるかね?」
「間違いありません!」
小浜は自信満々に答える。が、斎藤としては先程の日高茉優の証言との矛盾について突っ込まなければならなかった。とはいえ、直接ぶつかっても否定されるだけなのは目に見えているので、斎藤はあえて外堀から埋めていく事にする。
「こういう質問をするのは何だが、トイレが長引いた理由について説明できるかね?」
「昼に食べたパンが当たったみたいで……賞味期限を確認していなかったから」
「パンのビニールはどこに? 賞味期限を確認したいのだが」
「は? ごみ箱に捨てたと思いますけど……何でそんな事を?」
さすがに不審げな表情を浮かべる。が、斎藤は無視して質問を続けた。
「まぁ、いい。いずれにせよ、君はトイレにいたという事で間違いないね?」
「そうです。それが何か?」
「どこのトイレだね?」
「どこって、一階のトイレです。他のトイレに行く必要なんかありません」
小浜ははっきりとそう答えた。これで、他のトイレにいたという説は本人が否定した事になる。斎藤はそれを確認した上でいよいよ本題に切り込んだ。
「実は、君がトイレから出たと言った時間に、同じく一階のトイレに行った人物がいるんだが、その人物は君を見ていないんだ。それについてどう思う?」
「え?」
ここで初めて小浜の表情が微妙に変わった。斎藤と榊原はそれを見逃さなかった。
「どうかね?」
「どうって……入れ違いだったんじゃ?」
「入れ違いか。狭いトイレでそんなの無理だと思うが」
「いや、男子トイレと女子トイレだったら入れ違うくらい起こるじゃないですか! 彼女が出た後に自分がトイレから出てきたと考えたら辻褄は合うと思います!」
小浜は必死にそう叫ぶ。が、そこで榊原が厳しい表情で振り返った。斎藤の仕掛けた簡単な罠に小浜がかかったのを見て取ったからだ。
「ほぉ、よく知ってるな。その人物が女子生徒だったなんて事を」
「は、はい?」
「斎藤は彼女の事を『ある人物』としか言っていない。その人物が女子だったなんて、実際に彼女がトイレに入るところを直接見ていないとわからない事だ。だが、彼女はトイレ周辺で君の姿を見ていない。さて、これはどういう事だろうな?」
「え、いや、その……」
ここで明らかに小浜の表情が崩れた。榊原はここで一気に畳みかける。
「君がトイレの辺りにいなかったのは確実だ。男子トイレから覗き見していたという事もないだろう。そんな事をしていたのならむしろその行為そのものが問題になる。となると、トイレから離れた場所から彼女がトイレに入ってくのを見たと考えるのが筋だ。じゃあ、それはどこなんだろうな?」
「校内の見取り図を見ると、トイレは一階廊下の西端。一方、反対側の廊下の東端には昇降口があります。トイレでない以上、授業中だった事を考えれば目撃できるのはそこだけだと思いますね」
榊原の問いに答えるように、斎藤がこれ見よがしに校内の見取り図を机の上に出しながら言う。小浜の顔色は真っ青になっていた。
「だそうだ。さて、これについて意見は?」
「い、いや……それは……」
「状況的に君が昇降口にいたのは確実だ。そして、犯人は六時間目に昇降口の被害者の下駄箱に毒入りチョコを置いている。昇降口にいた事を隠していた君が疑われるのは、仕方がない話だとは思うが?」
「ま、待ってください! 自分じゃありません!」
小浜は血相を変えて立ち上がりながら叫んだ。
「なら、正直に話す事だ。まずはっきりさせておきたいのは、問題の六時間目最初の五分間に君がどこにいたのかというこの一点だ。トイレにいたという話はもう通用しない。他のトイレにいたという話は君自身が否定している。本当のことを言ってもらおうか」
小浜はしばらく何かに葛藤しているようだったが、やがて振り絞るように告げた。
「……確かに、自分はあの時トイレじゃなくて昇降口にいました。女子トイレに誰か入っていくのはその時に見ました。それは、認めます。でも、チョコを置いたのは自分じゃありません!」
「では、なぜ昇降口なんかにいたんだ? 時間割を確認したが、一年五組の五時間目は現代文で、六時間目は数学A。昇降口に行くような用事はないはずだ」
「そ、それは……」
小浜はさっきの威勢のよさはどこへやら、何やらもごもごと言っていたが、やがて振り絞るように言った。
「い、言えません! それだけは絶対に!」
だが、それに対しても榊原は冷静だった。
「言えない、か。警察に対して『言いたくない』ではなく『言えない』となると、生半可な理由ではなさそうだな。斎藤、どう思う?」
「そうですね。この状況では彼が最有力容疑者になりますから、真実を知るために裁判所も各種令状を出すとは思いますよ。身体検査、家宅捜索、所持品検査……」
と、そこで榊原が鋭く言葉を挟んだ。
「なるほどね」
「な、何なんですか!」
わけがわからず、小浜が怯えた声を出す。が、榊原は事もなげに言った。
「自分で気づいているかどうかは知らないが、今、斎藤がいくつか列挙した中で『所持品検査』という言葉に反応したな。癖なのかどうかは知らないが、肩が軽く震えた。さっき、トイレに行っていたと嘘をついたときも同じような動作をしていた」
「そ、そんなの何の証拠にも……」
「もちろん、癖そのものは法的な証拠にはならないだろうな。だが、こっちとしては捜査の目安にはなる。言った通り、この状況なら裁判所も所持品検査の令状は出すだろう。もっとも、任意で見せてもらえるならそれに越した事はないが……何もないなら所持品を見せてもらえないかね?」
榊原はジッと小浜を睨みながらそう言ったが、小浜は視線をそらしながらか細い声で答える。
「じ、自分は殺していません。でも、荷物を見せるのは拒否します」
「そうか……ならば、君はいつまでも最有力容疑者のままだ」
榊原の言葉に、小浜は唇を噛み締めて俯いてしまった。が、榊原はさらに追い打ちをかける。
「話は変わるが、さっきの一緒にいた他の六人の中に知っている人間は?」
「……安川先生はもちろん知っていますし、高井戸先輩も知っています。あの人も元野球部ですから」
「知っていたか」
「自分が中学時代の時に何度か共栄高校の試合を見たんですが、そこで何度か見ました。高校に入ったら野球部を辞めて将棋部に入っていたので驚きましたけど」
「他は?」
「……後は知りません。一年生の二人も他のクラスですし」
「ちなみに、君が昇降口からトイレを見たときにいたという女生徒が誰なのかはわかるか?」
「それは……距離があったから、女子だった事はわかっても誰なのかまでは……」
「そうか。ではもう一つ。今日はバレンタインだが、君はチョコをもらったかね?」
「な、なぜですか?」
「全員に聞いている事だ。どうだね?」
「……マネージャーとクラスの友人からいくつか義理チョコをもらっただけです。もう、勘弁してください」
小浜は疲れ切った様子でそう言うと、あとは黙り込んでしまったのだった。
「改めて、君にも話を聞かせてもらおう」
次に部屋に入ってきたのは、榊原の依頼人でもある化学部一年の松北泰助だった。相変わらず不安そうな顔をしながらも、榊原を見て逆に勇気がわいたのか、ひとまず質問には答えられる状態である。
「大まかな話はさっき聞いているが、確認の意味を込めてもう一度。君は被害者の槙島光太郎君からいじめを受けていた。そのいじめを解決するために瑞穂ちゃんを通じて榊原さんに連絡を取り、今日会う予定だった。そうだね?」
「は、はい。その通りです」
松北はそう言って頷いた。
「被害者からはどんな経緯でいじめを?」
「二学期に入った辺りから目をつけられていました。廊下を歩いているときに蹴躓いて槙島君に持っていた缶コーヒーをかけてしまって、それがきっかけで……」
「具体的にはどんないじめを?」
「昼食用のパンを僕のお金で使いパシリさせられたり、そうでなくてもお金をカツアゲされたり、殴られた事も何度かあります。悪口なんか日常茶飯事でした。ばらしたらひどい目にあわすってずっと脅されていて……。多分、いじめ自体を楽しんでいたんだと思います。これ以上は……言いたくありません」
おそらく、もっと言えないような事もあるのだろう。が、斎藤はそれ以上突っ込むような事はしなかった。
「それで、君は耐え切れなくなって、昨日橋からその……投身自殺をしようとした」
「はい。もう学校に行く事が嫌になって、昨日は体調不良を理由に学校には休むって連絡を入れました。でも、家にいるわけにもいかなくってずっと街をフラフラしていて……気づいたらあの橋にいました」
「そこで瑞穂ちゃんと出会った、か」
榊原の言葉に、松北は頷く。
「今日は被害者と会ったのかね?」
「はい。昼休みに呼び出されて昨日休んだ事で悪口を言われた後、いつも通りパンを使いパシリさせられました。でも、夕方に深町さんが誰かを紹介してくれるって約束してくれていたから、我慢していました。会ったのはそれが最後です」
「昼休みの彼に変わったところは?」
「えっと……いつもの通りだったと思います」
と、ここで再び斎藤が口を開いた。
「話は変わるが、君も六時間目に教室を出ているみたいだね」
「は、はい。三時頃にちょっと腹痛になってトイレに行きました」
「それは一階のトイレ?」
「もちろんです。他のトイレに行く意味もないし。五分くらいで戻りました」
この辺は日高茉優の証言と一致している。
「その時、何か変わった事は?」
「なかったと……思います。昇降口の方はよく見ていなかったけど、人はいなかったと思います」
松北の答えは曖昧だった。
「……わかった。では、別の話をしよう。化学準備室に保管されている水酸化ナトリウムだが、あれの保管についてだ。君は科学部だそうだが、薬品の持ち出しについては他の生徒よりも融通が利いたのではないのかね?」
「いえ、さっきも言ったように、普段薬品棚の鍵は職員室で管理していますから、僕たちも自由に持ち出す事はできません。科学部だから実験で薬品を使う事はもちろんありますけど、最後に僕たち科学部が使ったのは一週間前に実験した時が最後です。しかも硫黄を使った実験だったから、水酸化ナトリウムには手を付けていません」
「だが、さっきも言ったように鍵の型を取るくらいはできるはずだ。それに、硫黄を取るふりをして実はこっそり水酸化ナトリウムを取り出していた可能性だって考えられる」
斎藤としては当然の問いだったが、松北は首を振った。
「それは無理だと思います」
「なぜだね?」
「職員室で鍵を借りる時は、職員室に入ったところにたくさんかかっている鍵から目的の鍵を選んで、その鍵を受付の先生に見せて貸出ノートに記帳してから借りるんです。でも、薬品棚の鍵だけは生徒だけで扱うのは危険だからって事で、鍵を借りる時は必ず先生が化学準備室まで同行して目的の薬品だけ取り出す事を確認した上で、その場で先生に鍵を返却する事になっています。余計な薬品に手を出す事はできません」
「なら、余分に薬品を取り出す事は?」
これは榊原の問いだったが、松北はまたしても首を振った。
「取り出した際にその分量を化学準備室にあるノートに必ず記帳する事になっています。生徒が薬品を使う場合、この作業はさっき言った同行している先生の前でやるんです。それに一週間に一回、化学の先生が薬品の残量とノートの値が一致しているのかを絶対に確認します。分量を誤魔化すなんてできません」
「その辺はさすがにしっかりしているか……ちなみに前回の残量確認作業はいつ?」
「それは知りません……。聞いた話だと抜き打ちの意味を込めてランダムにやっているみたいですけど、詳しくは化学の先生に聞いてください」
松北は申し訳なさそうにそう言った。それを見ながら、榊原はさらに問いを重ねる。
「では、さっき会った六人の中で知っている人は?」
「えっと、安川先生は科学部繋がりで知っていました。というか、先生が科学部の顧問なんです。あと、茉優さんは同じクラスだから当然知っています。話した事はないけど。それから……国木田さんは図書館の受付にいるのをたまに見た事があります。名前はさっきまで知らなかったけど。僕が知っているのはそれだけです」
「じゃあ次だが、君は今日チョコをもらったかね?」
思わぬ問いに松北は目を白黒させる。
「えっと……もらっていません。僕、女子とそこまで仲が良くないし……それにいじめの噂もあったからあまり近づこうっていう人がいなかったし……」
「そうか……。なら、これが最後だ。君自身は、この事件の犯人が誰だと思う?」
その問いに、松北はこう答えた。
「わかりません。わからないけど……多分、槙島先輩に苦しめられていたのは、僕だけじゃなかったって事だと思います……」
最後に呼ばれたのは、容疑者の中で唯一の教師である化学教師の安川則勝だった。どことなく不安そうにしながらも、自分の担任するクラスの生徒が殺された事で責任は感じているようだった。
「それで……私は何を話せばいいんでしょうか?」
やや疲れたような声を出しながら、安川はそう尋ねてきた。斎藤も、生徒とは違ってちゃんと敬語で応対する。
「いくつか質問をしますので、それに答えてもらえれば充分です。よろしくお願いします」
「はぁ……わかりました。それで、質問と言うのは?」
今までの尋問を経て、彼にはいくつか聞いておかねばならない事がある。斎藤は少し考えた後、まずは今まで通り被害者の事から聞く事にした。
「被害者……槙島光太郎君は、あなたの担当するクラスの生徒だったそうですね?」
「えぇ。クラスの中でも目立つ生徒でした。正直、殺されたというのが今でも信じられません」
安川は本当に悲しそうにそう言う。が、斎藤としてはそんな上っ面の返事など聞きたくはなかった。そのまま間髪入れずに次の質問をぶつける。
「では、彼に何か問題はありませんでしたか? 聞いた話だと、いじめをしていたという噂があったようですが」
その問いに対し、途端に安川はなぜか少し目を泳がせながら答えた。
「それは……そういう噂があったかなかったかと言われれば、まぁ確かにあったのですが……ですが、何か証拠があったわけでもないし……」
何とも曖昧な返事だった。斎藤は眉をひそめる。
「何も対応しなかったのですか?」
「い、いえ、そう言うわけでは……でも、証拠もないのに追及するわけにもいかないですし、特にいじめを受けているという訴えがあったわけでもないので……」
「黙認したって事ですか」
はっきりものを言わない安川に代わって榊原がズバリと言った。
「い、いえ、そう言うわけではありません。もちろん、訴えがあったら動くつもりだったんですが……」
「噂だといじめの被害者になっていたのはあなたが顧問をしている科学部の生徒だったようですが、話くらい聞かなかったんですか?」
「それは……確かに私は科学部の顧問ですがほとんど名前だけで、活動にもほとんど顔を出せていませんでしたし……そんな人間が話を聞いても何の解決にもならないだろうし……」
斎藤はため息をついた。典型的な事なかれ主義の教師……それがこの安川という教師の本質らしい。警察としてさらに追及したい気持ちはあったが、今は事件の捜査が第一である。いじめに対する学校側の対応に関しては後で調べる事にして、話を先に進める事にした。
「もう結構です。どうやら、その件についても後々調べる必要があるようですが、今は事件の話をしましょう。あなたが槙島君と最後に会ったのはいつですか?」
急に話題を変えられて、安川は困惑気味に答える。
「それは、今日の二時間目に四組で化学の授業をしたときです。特に変わったところはなかったはずですが」
「授業内容は何を? 何か実験でもしたんですか?」
「いえ、教室で普通の講義でした。実験は二日前に終わっていたので」
安川は首を振りながら言う。
「……六時間目について聞きましょう。あなたはこの時間授業がなく、校内を巡回していた。間違いありませんね?」
「ありません。特に校内に異常はなかったはずですが」
「昇降口の辺りも巡回しましたか?」
「もちろんです。確か回ったのは三時十分頃だったと思います」
「授業が終わる直前ですね」
「えぇ、まぁ。もちろん、昇降口には誰もいませんでしたよ」
安川はそう主張する。と、ここで榊原が口を挟んだ。
「屋上は見なかったんですか?」
「はい?」
「屋上ですよ。校内を巡回したんなら、屋上も見たんじゃないんですか?」
「え、いや……確かに見ましたよ。でも、誰もいなかったからすぐに下に下りたんです」
「誰もいなかった?」
その言葉に榊原が反応した。屋上には、授業をさぼっていた野塚和菜がいたはずである。
「屋上に行ったのは何時頃ですか?」
「えっと……三時くらいだったと思います。この学校の近くに工場があって、その工場が休憩時間の三時になるとチャイムを鳴らすんです。そのチャイムがちょうど聞こえたので、もう三時なんだと思ったのを覚えています」
斎藤と榊原は顔を見合わせて小声で安川に聞こえないように相談する。
「野塚はそんな事一言も言っていませんでしたね」
「あぁ、ずっと屋上にいたって言っていた。安川の話が本当なら、野塚は嘘をついた事になる」
「もしかして、その時間に昇降口にチョコを置きに行ったとか?」
斎藤が緊張した様子で言うが、榊原はこの説には懐疑的な様子を見せた。
「どうだろう……三時と言えば、ちょうど松北がトイレに行った時間だ。そして、さっきの尋問で松北は昇降口の辺りに誰もいなかったと答えている。この証言を捨てるわけにはいかない」
「あぁ……そう言えばそうでしたね。誰が嘘をついているのか……」
「何にしても、どこに行ったにせよ、もう一度野塚を尋問する必要はあるな」
ひとまず、話を先に進める事にする。
「わかりました。では次に、化学準備室の薬品棚の事について聞きます。さっき聞いた話では、あの薬品棚の薬品は定期的に化学の先生が分量を確認しているそうですね?」
「えぇ、なくなったら大問題ですから。ノートに記帳してある分量と残量が一致しているのかを確認します」
「前回の確認はいつですか?」
これに対する安川の答えは簡単だった。
「一昨日……つまり二日前です。さっきも言ったようにその日授業で化学の実験をしたんですが、その実験が終わったらしばらくは薬品を使った実験の予定はなかったんです。だからいい機会だと思って、二日前の放課後に分量確認をしました」
「水酸化ナトリウムも調べましたか?」
「もちろん。水酸化ナトリウムも含めて、すべての薬品の残量がノートに記帳された使用量と一致していました。問題はなかったはずです」
これは重要な情報だった。
「確かですか? 失礼ですが、あなたが見落としたという事は?」
斎藤のぶしつけな問いに、安川は少し機嫌を悪くしながらも答えた。
「本当に失礼ですね。でも、この確認は私だけじゃなくて複数の化学の教師で行いますから、絶対に間違いはありません。二日前の時点で薬品の不足はありませんでした。それから今日まで、授業でも科学部の実験でも薬品は一切使われていないはずです」
安川の答えは明快だった。が、榊原はなおもこう食い下がった。
「では失礼ついでにもう一つ。生徒が薬品棚の鍵を借りる場合は受付の先生が薬品棚まで同行して実際に薬品を取り出すところまで監視するそうですが、化学教師のあなたならこの手続きなしに一人で薬品棚の鍵を自由に使用できるはず。つまり、勝手に薬品棚から薬品を取り出す事もできるのではないですか?」
これに対し、安川は少し憮然としながらも、不承不承頷いた。
「それは……まぁ、できないと言えば嘘になります。でも、私がそんな事をしたという証拠でもあるんですか?」
「いえ、単なる確認です。お気になされないように」
榊原はそう言うと頭を下げた。が、安川はなおも不満そうにこう反論した。
「大体、この状況で薬品棚の薬品で人が死んだりしたら、真っ先に疑われるのは鍵を自由に使える私じゃないですか。それがわかっているのにわざわざ薬品棚の薬品で人を殺すような事はしませんよ」
「それは……確かにそうですね」
正面に座る斎藤はそう言って頷くしかなかった。榊原は黙って安川を睨んだままだ。
「あの、話せる事は話したと思いますが……もういいでしょうか?」
「そうですね……榊原さんは何か?」
「では、あと少しだけ。まず、さっき一緒になった六人の中に知っている人間はいますか? これは今まで全員に聞いている質問ですが」
「それは、生徒ですから当然ほとんど知っています。授業を受け持っている二年生は全員知っていますし、授業のない一年生でも、科学部の松北君はちゃんと知っています」
「そうですか。では、今日はバレンタインですが、あなたはチョコをもらいましたか?」
「私ですか? いえ、生憎生徒には人気がないらしくて」
「最後にもう一つ。あなた自身は、この事件の犯人が誰だと思っていますか?」
その問いに、安川は深いため息をつきながら答えた。
「そんなの、私にわかるはずがないじゃないですか。私はただ、この事件がこれ以上大事にならないよう祈るだけですよ……」
「……トイレだよ」
安川の尋問が終わった直後、さっきの証言で不自然な動きが発覚した野塚和菜がもう一度呼び出されていた。尋問の内容は、安川が屋上に見回りに行ったという午後三時に彼女がどこにいたのかである。
「トイレ?」
「何だよ、トイレも行っちゃ駄目なのかよ? どうにも我慢できなくなったからトイレに行った。それだけの話だって」
「しかし、一階のトイレで君の姿は目撃されていないが?」
斎藤のその問いに、和菜は呆れたように答えた。
「あのなぁ、何で屋上にいた私がわざわざ一階のトイレに行かないといけないんだよ。私が行ったのは三階のトイレだって」
「三階と言うと、三年生の教室があるな」
「この時期、三年生は自由登校になっているから三階には誰もいないんだよ。そこのトイレを使ったって、何も問題ないじゃないか」
和菜はふてくされたように言った。
「何でさっきそれを言わなかった?」
「トイレに行ったくらいの事をいちいち言わないといけないのかよ! 些細な事だから言わなくてもいいと思っただけだって」
「言ってくれないと困るんだがね。さっきも言ったが、これは殺人事件の捜査なんだ。たった五分でも君のアリバイに直結してしまうんだぞ」
「知らねぇよ!」
和菜はいらついたように叫んだ。が、榊原は冷静に尋ね返す。
「今一度聞くが、君は本当にずっと屋上にいたのかね? 今度こそ正直に答えてもらうぞ」
「……五時間目にも一回だけ三階のトイレに行った。でも、それだけ。それ以外は本当にずっと屋上にいたよ。今度こそ間違いない」
和菜はそう言うと、話はすんだとばかりに腕を組んで黙り込んでしまったのだった。