第一章「毒殺」
「まさか被害者も、自分がバレンタインに殺されて人生を終える事になるなんて、思ってもいなかっただろうな」
二〇〇八年二月十四日木曜日午後四時頃、現場に臨場した警視庁刑事部捜査一課の斎藤孝二警部が遺体を前にして最初に呟いたのはそのような事であった。その言葉に、同じく遺体を見つめていた部下の新庄勉警部補が答える。
「幸せの絶頂から、一気にあの世行じゃ割に合いませんよ」
「全くだ」
そう言うと、斎藤は遺体から目を離し、周囲……すなわち大量の捜査員がうろつく高校の昇降口の様子を観察するように見回した。
今日はいわゆるバレンタインデーというやつである。まぁ、チョコをもらえない男子辺りが「お菓子会社の陰謀だ!」とか叫んでいる日でもあるのだろうが、それはともかく大田区内にあるこの都立共栄高校でも、毎年のお約束という事なのか生徒たちの間で多くのチョコの受け渡しが行われていたようである。
だが、その中の一つがどうやら悪意というトッピングを含んでいたようだ。現に今ここに、誰かからもらったチョコを食べた男子生徒が、細フレームの眼鏡の奥で苦悶の表情を浮かべたまま物言わぬ死体となって転がっているのである。
「被害者は槙島光太郎。この高校の二年生です。見た感じ、かなりもてたようですが……死んでしまっては元も子もありませんね」
新庄はそう言って遺体のすぐそばを指さす。そこには落ちた紙袋から大量のチョコレートが散乱していた。どうやら今日一日でもらった物らしい。
「本当にいるんだな、こんなにチョコをもらうやつ。漫画の中だけかと思っていたが……」
「ちなみに警部はどうでしたか?」
「妻と娘が出かけにくれたよ。新庄は?」
「私も家内が。ハート形だったんでちょっと恥ずかしかったですけど……」
「仲が良くて結構な事だ。まぁ、それはともかく……死因はこいつだろうな」
斎藤は表情を引き締めて被害者の口元を見やる。そこには食べかけのチョコが付着していて、近くには同じ箱に入っていたと思しき丸い形のチョコが散らばっている。その傍には、それらのチョコが入っていた二十センチ×二十センチほどの青い包装紙に包まれた箱が転がっていて、箱の中には乾燥材が入っていた。
「毒殺、ですかね」
「あぁ。何の毒なのかは調べてみないとわからないがな。見た感じ、帰宅直前に下駄箱に入っていたチョコを食べてそのまま即死……と言ったところか」
実際、近くにある槙島の下駄箱は扉が開いていた。靴を履き替える時にチョコに気付き、それを食べて死んだのはほぼ間違いなさそうだった。現に、昇降口で下駄箱に入っていたチョコを食べた直後にいきなり苦しみ始めた被害者の姿を、何人もの生徒が目撃している。
「所持品は?」
「そこに」
見ると、すぐ近くに被害者のものと思しき『共栄高校野球部』の文字が入ったバッグが転がっている。斎藤は早速中身を確認した。
「えっと……各種教科書にノート、野球のユニホームとグローブ、空の弁当箱にお茶のペットボトル、生徒手帳、ハンカチ、ティッシュ、眼鏡ケース、それに……これはコンタクトレンズのケースだな。中は入ったままだが」
「被害者は目が悪かったみたいですね」
新庄が被害者の顔にかかった眼鏡を見ながらそう言う。斎藤は頷きながら所持品確認を進めた。
「あとは、財布に携帯電話……一応、後で鑑識にデータ解析をしてもらう必要はあるな。それにタオルとファイル……中はプリント類だ。あと筆記用具……中身はシャーペン数本と消しゴム、はさみ、ノリ、ホッチキス、ボールペンと蛍光ペンが数本。まぁ、こんな所か」
斎藤は立ち上がると、新庄にさらに質問した。
「被害者の人となりは聞いているか?」
「簡単な聞き込みだけですが、一応は。所持品を見ればわかるように野球部の所属で、エースピッチャーだったらしいです。弱小野球部を都大会ベスト4まで押し上げた事もあって、校内にファンも多かったとか」
「ふむ……。恨みを持っていそうな人間は?」
「それは竹村が調べています」
と、噂をすれば、同じく斎藤の部下である竹村竜警部補が駆け寄ってきた。元々は交通課で白バイを乗り回していた男であり、かなり体格がよい行動派の刑事である。
「警部、一通り聞き込みをしてきました」
「ご苦労さん。で、どうだった?」
「奴さん、やっぱり相当もてていたみたいです。ただ、その分妬んでるやつも多かったし、女癖は悪かったから女子の方にも捨てられた人間がいたのではないかというのが同級生の弁です。それと……」
竹村は少し声を潜めるようにしてこう言った。
「どうも、性格はそこまできれいな奴じゃなかったみたいですね」
「と言うと?」
「あくまで噂ですが、どうもいじめを主導していた疑いがあります。詳しくは調査待ちですが」
斉藤は眉をひそめた。やはり一筋縄ではいかなさそうである。
「わかった、それはこっちで調べてみよう。竹村は女性問題の方から当たってくれ」
「了解」
そのまま竹村は再び聞き込みへ向かっていく。斎藤はそれを見送ると、改めて被害者の遺体を見て呟いた。
「さて……毒入りチョコレートを贈った相手を探すとするか」
聞き込みを進めていくと、彼がやっていたといういじめの情報は少しずつ集まってきた。さすがに声を高くして言える話ではないのか口を閉ざすものが多かったが、どうやらある一年生の男子生徒が標的になっていたらしい。
「松北泰助。一年生で科学部所属……か」
浮かび上がったいじめられっ子の名前を手帳に書きながら斎藤は呟く。何より、科学部所属だという点が引っ掛かった。
「当然、その手の毒薬を手に入れる事ができる事になりますね」
「行ってみるか。部室は?」
「化学実験室だそうです」
そう言って歩き始めたとき、新庄の携帯電話が鳴った。新庄が出ると、しばらく何事か話して通話を切る。
「科捜研からです。現場に落ちていたチョコを検査した結果、中から水酸化ナトリウムの痕跡が見つかったそうです。おそらく、これが死因かと」
「水酸化ナトリウムときたか……いかにも学校らしい毒物だ」
「えぇ。青酸カリやヒ素と違って、水酸化ナトリウムなら理科の実験用に学校に保管されている事が多いですから。それに、毒物が水酸化ナトリウムならあの乾燥剤にも説明は点きます。水酸化ナトリウムは乾燥させておかないと潮解してしまいますからね」
「あぁ。とはいえ、学校側も管理はしっかりしているはずだ。入手経路がどうなっているのかが問題だな」
そんな事を話しながら歩いている二人を、周りの生徒たちが不安そうな表情で見つめている。事件後、即座に学校は封鎖され、当時校内にいた生徒たちは全員足止めされている状態である。現場近くにいなかった生徒たちの中には、何が起こったのかも知らない人間も多い。それだけに、急に大挙してやってきた刑事たちに、不安を覚える生徒が多いのも当然だった。
そんな視線の間を縫って、二人は目的地に到着した。
「……ここか」
化学実験室。主に化学の授業で使用される教室だが、今はひっそりと静まり返っている。が、斎藤がノックをすると、中から声がした。
「ど、どうぞ」
「失礼」
斎藤が中に入ると、そこには少し気弱そうな表情を浮かべた小柄な男子生徒が一人座っていた。
「松北泰助君、だね?」
「は、はい。そうですけど……何かあったんですか? それに、あなたたちは一体?」
少年……松北はそう言って不安そうな視線を斎藤たちに向ける。それに対し、斎藤と新庄は黙って警察手帳を示した。
「警視庁捜査一課の斎藤だ。こっちは新庄。我々がなぜここにいるのか、心当たりは?」
「ぜ、全然。ここにいたら急に待機するようにって放送があって。あの、何があったんですか?」
これに対し、斎藤は逆にこう尋ねた。
「槙島光太郎、という名前に心当たりは?」
すると、その名前に松北は小さく肩を震わせた。斎藤と新庄が素早く目配せし合う。脈ありである。
「あるようだね」
「あ、えっと、その……」
「彼、殺されたよ」
その斎藤の言葉に、松北はポカンとした表情を浮かべた。
「え……あの、今なんて?」
「殺された、と言ったんだ。昇降口で毒入りチョコレートを食べてね。我々はその事件を捜査している。すまないが、君の話を聞きたい」
「なんで、僕の話なんか……」
「君、彼にいじめられていたそうだね」
斎藤は単刀直入に尋ねた。
「え、あ……それは……」
「何人もの生徒が証言している。もっとも、わかっていて何もしなかったというのは一警察官としてはどうかとは思うが……それはそれとして、動機がある人間に話を聞くのは当然の話だと思わないかね?」
「ま、待ってください! 僕は殺していません! そんな、ひどい話……」
「では、君はここで何をしていたんだね?」
その問いに対し、松北はビクリと肩を震わせた。
「な、何って部活を……僕、科学部の所属だし……」
「一人で?」
「部員は僕を合わせて三人だけなんです。でも、今日は他の二人が休みで、それでこうして僕一人で活動を……」
「その割には実験道具も何も出ていないようだけど」
新庄の指摘に、松北はビクリと肩を震わせる。元々気の弱い性格らしく、すっかり顔が真っ青になっている。と、新庄は唐突に部屋を横切って奥にあるドアの方へ向かった。
「失礼」
そう言って、そのドア……化学準備室へと入る。案の定、中には大量の薬品類が保管されていた。新庄は即座にガラス戸式の薬品棚の中身を注意深く確認していったが、やがて奥の方でその視線が止まった。
「こいつか……水酸化ナトリウム」
その棚には確かに「水酸化ナトリウム」と書かれた瓶が置かれていた。水酸化ナトリウムは通常固体で保管されるが、一般的な空気に含まれる水分程度でも潮解してしまう物質であるため、瓶の中には乾燥材が入れられている。改めて棚を確認すると、さすがに鍵がかかるようになっていた。
いったん、化学実験室に戻ると、新庄は松北にこう問いかける。
「この部屋の薬品棚の鍵はどこに?」
「しょ、職員室です。使うときは先生に鍵を借ります」
「最後に借りたのはいつ?」
「えっと……確か一週間くらい前に実験をしたのが最後です」
「その時鍵を借りたのは?」
「僕ですけど……」
「なら、鍵の型を取るくらいの事はできるはずだね。合鍵を作れるんじゃないか?」
その言葉に、松北の顔色が変わった。
「そんな……僕はやってなんか……!」
「警部、状況証拠的には彼を捨ててはおけませんが……どうしますか?」
新庄はあくまで事務的にそう尋ねた。すっかり血の気が引いている松北の様子を見ながら、斎藤は考え込む。
「そうだな……。少なくとも、行動に疑問が残る以上は話を詳しく聞く必要はあるが」
「ま、待ってください! 本当のことを言います! だから待って!」
松北は必死に叫んだ。それを聞いて、新庄が松北を睨む。
「本当の事? 君がやったと認めるのか?」
「ち、違います! そうじゃなくて僕、今日は部活のためにここにいたんじゃないんです。実験用具がないのはそれが理由で……」
「じゃあ、どうして一人こんな場所にいたんだ?」
厳しく尋ねる新庄に対し、松北はガタガタ怯えながらこう答えた。
「そ、それは……人を待っていたんです……」
「人?」
「刑事さんたちが言うように、僕は槙島先輩にいじめられていました。だから今日、ある人にその事について相談に乗ってもらう事になっていたんです。その待ち合わせ場所をここにしていただけなんです。本当です!」
「その待ち合わせ相手というのは?」
斎藤は当然の問いをするが、松北は言いにくそうにこう言った。
「それは……僕にもわかりません」
「どういう意味だね?」
「実は昨日、たまたま中学時代の同級生に会って、その子に僕の近況を話したら『ちょうどいい相談相手がいる』って言われたんです。で、今日はその相談相手を引き合わせてくれる事になっていて……多分、今頃校舎の外にいると思うんですけど……」
「それを我々に信じろと言うのかね?」
「信じてください! 何だったら、外を探してみてください! お願いします!」
松北は必死だった。斎藤はしばらくその様子を見ていたが、やがて短くため息をついて新庄に指示を出した。
「新庄、しばらく彼を見張っていてくれ。私はその相談相手とやらを探してみる。そうしないと話が始まらないようだからな」
「わかりました」
斎藤は化学実験室を出ると、そのまま校舎を出て校門の方へと向かった。現場は封鎖されていて、校門の向こうには野次馬やマスコミ関係者が多く集まっている。この中から探すのは骨が折れそうな仕事だった。
「さて、どう探したものか。中学の同級生という事はおそらく松北と同い年くらいだろうが……」
と、その時だった。
「あれー、斎藤警部じゃないですか? こんなところで何をしているんですか?」
不意にそんなお気楽そうな声がした。振り返ると、そこには斎藤の知り合いがいた。
「君は、瑞穂ちゃん、か?」
「お久しぶりです!」
肩口に届くくらいのショートヘアにセーラー服の女子高生……都立立山高校一年で、同校のミス研会長でもある深町瑞穂が、にっこり笑ってそこに立っていた。以前の事件で知り合った仲である。
「こっちは仕事だ。それより、君がいるという事は当然……」
そう言って瑞穂の周囲を見渡すと……すぐ近くに年齢四十歳前後のヨレヨレのスーツを着た中年男性が、バツの悪そうな表情で立っていた。
「そういう事だ、斎藤」
「やっぱり、あなたもいましたか。榊原さん」
榊原恵一……元警視庁捜査一課警部補で、現在は品川に私立探偵事務所を開業。一見くたびれたサラリーマンにしか見えないが、刑事時代は警視庁捜査一課最強の捜査班のブレーンとして数々の難事件を解決に導いてきた推理の天才であり、警察を辞職後も私立探偵として日本犯罪史にその名を残す大事件を立て続けに解決してきた正真正銘の「名探偵」である。今でも警察関係者の間ではその推理力は有名で、斎藤も何度か解決が難しい事件にアドバイザーとして助力を求めた事がある。
ちなみに隣で微笑んでいる深町瑞穂は榊原の自称弟子である。昨年の六月ごろに彼女の通う立山高校で起こったある殺人事件を榊原が解決して以降榊原に心酔し、彼の事務所に入り浸っては自称弟子として色々学んでいるようである。そんなこんなで、斎藤からしてみればよく顔を見知ったコンビであった。
「で、今日はどうしてこんなところに? 今回は警察からアドバイザーの依頼をした覚えはありませんが……」
「いや、今日は別件でね。というより、私も瑞穂ちゃんに無理やり連れられてきたにすぎないんだがね」
その言葉に、瑞穂が頷いてこう答える。
「実は、ちょっと先生に会ってもらいたい人がいまして。待ち合わせ場所がここだったんでやって来たんですけど、着いてみたらこの有様でどうしたらいいかなぁって」
その言葉に、斎藤はなぜか少し嫌な予感がした。
「もしかして、その待ち合わせの相手というのは松北という男子生徒じゃないだろうね?」
「あれ? どうして知ってるんですか?」
「……やっぱり、か」
その言葉に、斎藤は思わず天を仰いだのだった。
さかのぼる事、事件の前日。その日の夕方、都内に流れるある川に架かる橋の上から、一人の男子生徒が思いつめた表情で水面を見下ろしていた。それは、他ならぬ共栄高校科学部の松北泰助であった。
もう限界だった。毎日のように槙島にいじめられ続けてきた松北の精神は限界に近いところまで来ていた。だが、これだけの事が起こっているのに学校側は見て見ぬふりをし、周囲の生徒たちも下手に手を出して自分が巻き込まれるのを恐れて傍観に徹している。いわば、松北は槙島の生贄にされたようなものだった。
この日、松北は仮病を使って学校を休んでいた。何というか、朝起きて何となく学校に行きたくなくなってしまったのである。とはいえ家にいるわけにもいかず……両親に自分がいじめられているという事は言っていなかった……結局今日一日当てもなくその辺をぶらぶらして過ごし、気がついたらこの橋の上にいたのであった。
松北は無表情に橋の下の川を眺める。大きな川で、ここから飛び降りたらまず助からないだろう。だが、松北としてはもうそれでもよかった。このままずっと学校を休み続けるわけにもいかず、行ったら行ったで彼が来なかった鬱憤を晴らすようにさらなる出目が行われるだろう。そんな事は松北には耐えられなかった。
気が付くとほとんど無意識に、松北は端の手すりに手をかけていた。
「もう……嫌だ……」
そう言いながら、松北は思考停止したまま橋の欄干を飛び越えようとし……。
「ちょ、何やってるの!」
突然、誰かに服を掴まれ、欄干から道路へと倒れるように引き戻された。道路に叩きつけられ一瞬頭の周りを星が回るが、逆にそれで意識が覚醒し、自分がとんでもない事をしようとしていた事に改めてゾッとする事になった。
「まったく、何を考えてるのよ! こんなところから飛び降りたら死んじゃうじゃない!」
そう言って松北の傍に座り込んで怒っているのは、同年代くらいのセーラー服を着た少女だった。どうやら、飛び降りようとしている松北を見て慌てて引き戻してくれたらしい。帰宅途中だったのか、近くには鞄も落ちていた。
とはいえ、どう反応すべきかわからず、松北はどもりながら謝るしかない。
「えっと……その……ごめんなさい……」
「ごめんなさいって、そういう事じゃなくって……って、あれ?」
不意に、少女はまじまじと松北を見やった。そして、思わぬ事を言う。
「もしかして……松北君?」
「え?」
なぜ相手が自分の名前を知っているのかわからず、松北は少女の顔を改めて見やった。なかなかにかわいい子であるが、しかし改めて見ると確かにどこかで見覚えがある。
「えっと……君は……」
「私よ、覚えてない? ほら、中学校の時の同級生だった……」
そう言われて、松北はようやく相手が誰なのかを思い出した。
「もしかして……深町さん?」
「そう! いやぁ、覚えてくれていてよかったぁ」
少女……瑞穂はそう言ってはにかんだ笑顔を見せた。確かに、中学の時の同級生に彼女はいた。三年の時に同じクラスで、確か彼女は陸上部に所属していたはずである。記憶にある限り誰とでも仲良くなれるという性格で、特に水泳部の笠原由衣とかいう子と仲が良かったのを松北は覚えていた。もっとも、松北との接点はほとんど皆無で、特段仲が悪いわけでもないがその代り仲がいいわけでもないと言った関係のはずだった。
だが、そんな事お構いなしに瑞穂は話を続ける。
「でも、久しぶりだよね。卒業以来だから……一年ぶりかな?」
「う、うん。そうだと思うけど。深町さんは今どこに? 陸上で推薦でも貰ったの?」
松北はつっかえながらもなんとかそう答えた。
「私? 立山高校っていう都立高校。陸上はもうやってないけどね」
「え? じゃあ、今は何を?」
「うーん、説明すると長くなるけど……今はミス研の会長かな」
思わぬ話に、松北は少し驚いた。
「ミス研って、ミステリー研究会だよね。深町さん、そういうのに興味があったの?」
「うん。何て言うか、ちょっと事情があって。そういう松北君は?」
その問いに、松北は少し声を落として答えた。
「共栄高校。科学部に入ってる」
「そうなんだ。えっと、それで……さっきの事なんだけど」
瑞穂は少し言いにくそうに言った。
「何であんな事を?」
その言葉に、松北は少し黙った後、小さな声でこう言った。
「ちょっと……学校で嫌な事があって……」
「……よかったら、話してみない? 私でよかったら聞くよ」
瑞穂が心配そうに言う。久しぶりに自分を心配してくれる人間に出会ったからだろうか。気づいたら、松北は今の自分の現状をポツポツと話し始めていた。
「……そっか。先輩にいじめられて……」
「でも、先生も他のみんなも見て見ぬふりをして……僕、どうしたらいいのかわからなくて」
「相談できる人はいないの?」
松北は力なく首を振った。一瞬、その場に沈黙が生まれる。
「……深町さん、ありがとう。話を聞いてもらっただけでも嬉しかった」
「これからどうするの? また、あんな事をするんだったら……」
「大丈夫、今日はもうあんな事しないから……」
「今日は、って……」
そういう瑞穂を無視して松北は立ち上がり、とぼとぼと家に帰ろうとする。が、その直前に背後から瑞穂が再度声をかけた。
「待って!」
その鋭い声に、松北は思わず足を止めた。
「えっと……あの、こんな事私が言うのもなんだけど……相談に乗ってもらいたいんだったらいい人を知ってるよ」
そう言われて、松北は思わず振り返った。
「いい人って?」
「あー、何というか、私の先生なんだけど……」
「……ごめん、学校の先生はちょっと信用できなくて……」
いじめを無視し続けている学校の教師たちの事を思い出しながら松北は悲しそうに言う。が、瑞穂は慌てたように首を振った。
「あ、違うの。先生って言っても学校の先生じゃなくて、私のお師匠様」
「お師匠様?」
「うん。松北君は、去年の六月にうちの高校で起こった事件って知ってる? 殺人事件だったんだけど……」
そう言われて、松北は記憶を探ってみる。確かに、半年ほど前にそんな事件があったような記憶があった。
「えっと、何となく覚えてる。あのころニュースで騒がれていたから」
「その事件なんだけど、私も関係していてさ。ちょっと容疑者の一人になっちゃって」
さらりととんでもない事を言われてさすがの松北もギョッとする。が、瑞穂は何でもない風にこう続けた。
「で、ある人がその事件を見事に解決してくれて、それ以来私、その人に色々教えてもらってるの。私たちが知らないような、世の中の負の側面とか」
「だ、大丈夫なの、その人?」
何とも胡散臭い話に松北は思わずそう聞き返したが、瑞穂は苦笑気味に答えた。
「大丈夫、一応元刑事の人で、今でも警察から信頼されているみたいだから。でも、その人なら世の中の色々な事を知ってるから、松北君のいじめにも何かいいアドバイスをもらえるかもしれないよ」
「そう……なんだ」
松北の心は揺れた。もう誰も信用できないと思っていたのだが、不思議と瑞穂の話は魅力的だったのだ。
「どうする? 松北君がいいなら、私から先生を紹介してもいいけど……」
……それから少し考えた後、松北は瑞穂の申し出を受け入れていた。そして、翌日の夕方、放課後にその「先生」と会う事が決定し、瑞穂たちが学校に到着した時点で携帯に連絡する事になっていたのだが……。
その直前に、そのいじめっ子たる槙島光太郎が毒殺されてしまったのだった……。
「……というわけです」
共栄高校化学実験室。瑞穂は一同の前で事情を説明していた。どう反応したらいいのかわからない様子の斎藤や新庄を尻目に、瑞穂は目を白黒させている松北に榊原を紹介していた。
「そんなわけで、こちらが先生……榊原さん。元警視庁の刑事で、今は私立探偵をやってるの。そういういじめに対する相談にはぴったりだと思って連れてきたんだけど……」
「よりによってそのいじめっ子が殺されて、その容疑をかけられているとはね。改めまして、榊原という。よろしく」
「あ、はい。どうも」
松北はどぎまぎしながら挨拶した。一方、斎藤は静かに榊原に問いかける。
「それで榊原さん、これからどうするつもりですか?」
「かかわってしまった以上は仕方がない。帰れと言うならば帰るが、斎藤がいいなら私もこの事件を調べる事にやぶさかではない。どうする?」
「それは……榊原さんがいれば百人力ですが……」
とはいえ、斎藤の立場からしてみればそう簡単に認められないのも事実である。と、そこで瑞穂が不意に手を打った。
「そうだ! だったら松北君が先生に依頼をすればいいんじゃないかな」
「ぼ、僕が依頼って……」
「この事件を解決してくださいって。元々、いじめの解決を依頼するつもりだったんだし、ちょうどいいと思うんだけど」
そう言われて、松北は少し不安そうに榊原を見やる。
「あの……やっぱり依頼料っているんですよね?」
「まぁ、こっちも仕事だからね。とはいえ、高校生相手にそこまで取る気はない」
「お願いしたらその……僕の無実を証明してくれるって事ですか?」
だが、これに対して榊原は首を振った。
「ちょっと違うな。私の仕事は、あくまで『真相を明らかにする事』だ。従って、それが必ずしも依頼人にとって有益になるとは限らない。例えば、調査の結果仮に君が犯人だったという結論が出た場合、私は躊躇なく君を告発する事となる」
「そ、そんな……」
顔を青くする松北に対し、榊原は苦笑気味にこう続けた。
「落ち着きなさい。私はあくまで『真実を明らかにする事』を第一とするだけだ。どのような形であれ依頼を受けた以上、それに対しては一切妥協するつもりはない。どんな事件であれ、必ず『真相』を明らかにして見せる。本当に君がやっていないというなら、心配する事はない。間違った推理で君を追い込むというような事は、探偵の誇りにかけて絶対にしないと誓おう」
「ほ、本当ですか?」
「私もプロだ。プロの探偵として、事件を解決する事を約束する。どうだね?」
松北は少し考え込む様子を見せたが、やがて、少し緊張でどもりながらもはっきりとこう告げた。
「お、お願いします! 僕はやっていません! どんな事実が明らかになってもいい。だから、何があったのか……調べてください!」
「……わかった。ならばこの依頼、確かに引き受けた」
榊原はそう言うと、改めて斎藤たちを見やった。
「と、まぁ、そういうわけだ。現時点を持って私は彼の依頼を受諾し、探偵の仕事としてこの事件を調べる。ならば、下手に敵対するより警察と一緒に捜査をした方が効率いいとは思わないかね?」
「……まったく、かないませんね、榊原さんには」
斎藤は苦笑しながらそういうしかなかったのだった。
「それで、事件の詳細は?」
「事件発生は本日午後三時半頃。この都立共栄高校の昇降口で一人の男子生徒が急に苦しみだし、その場に倒れて死亡しました。死亡したのは槙島光太郎という二年生で、凶器はチョコレートに含まれていた水酸化ナトリウムです。状況から考えて、下駄箱に入っていた毒入りチョコを食べて死亡したようですね」
「チョコレート……そうか、今日はバレンタインだったな」
榊原は今気付いたと言わんばかりに頷いた。隣では瑞穂が呆れたように首を振っている。
「我々は、被害者がこの松北という生徒をいじめていたという情報を得てこうしてここにやってきています。それに、凶器が水酸化ナトリウムとなると、この化学室から盗まれたと考えるのが自然です」
「確かに、それを聞くと松北君が疑わしいというのにも納得はできるが……」
そう言いながらも榊原は少し何事か考えていたようだが、早速斎藤に質問を開始した。
「いくつか確認したい事がある。まず、この学校の時間割だ」
「時間割?」
「平たく言えば、授業が終わるのは何時だ?」
斎藤と新庄は顔を見合わせるが、それに答えたのは松北だった。
「えっと、六時間目は午後三時二十分に終わります。今日もそうでした」
「斎藤、もう一度聞くが被害者の死亡時刻が午後三時半というのは間違いない話なのか?」
「間違いありません。事件が事件なので目撃者も多数います。そのうちの一人が咄嗟に時計を確認したそうですが、その時間が三時半だったと。もちろん一、二分のずれはあるかもしれませんが、概ね間違いないと考えていいでしょう」
斎藤がそう答えると、榊原は少し考えて次の質問に移った。
「被害者は何か部活に入っていたのか?」
「野球部です。今日も練習がある予定でした」
「野球部の部室はどこに?」
一見意味不明な質問に斎藤は戸惑ったが、榊原の事だから何か考えがあるのだと思い直して素直に答える。
「グラウンドの隅です。ちょうどバックネットの裏手に」
「……もう一つ。被害者の具体的な時間割はどうなっていた? 何時間目に何の教科を受けている?」
「どうしてそんな事を?」
「必要な事だ。どうだ?」
その言葉に、一度新庄が部屋を出て行き、五分ほどして再び戻ってきた。
「ええっと、被害者の所属する二年四組の時間割ですが、一時間目が現代文、二時間目が化学、三時間目が数学Ⅱ、四時間目が日本史、昼休みを挟んで五時間目が体育、六時間目が英語Ⅱになっています」
「五時間目の体育だが、内容は何だ?」
「聞いた限りだと長距離走ですね」
「そうか……なら、ある程度まで容疑者は絞れる」
その言葉に、新庄は驚いた顔を浮かべた。
「い、今の意味不明な質問でですか?」
「あぁ。ひとまず毒薬の入手云々に関しては置いておく。今問題にしたいのは、その毒入りチョコがいつ被害者の下駄箱に入れられたのか、という点だ」
「いつ、ですか?」
「そうだ。入れたのはもちろん犯人だろう。だが、問題はそのタイミングだ」
そう言うと、榊原はさっそく自分の推理を述べ始めた。
「いいか、被害者が死亡したのが午後三時半。すると、犯人が被害者の下駄箱にチョコを入れた可能性のある時間帯は大きく三つに分類される。それは六時間目以前、六時間目中、そして六時間目終了後……つまり放課後になってから被害者が死亡するまでの時間の三パターンだ。だが、まずこの中で六時間目以前に仕掛けられていた可能性が除外される」
「え、何でですか? というか、さっきから気になってるんですけど何で基準が六時間目なんですか?
瑞穂の当然の問いに、榊原が何でもない風に答える。
「それは、被害者のクラスの五時間目が体育だったからだ」
「……いや、意味がわからないんですが」
瑞穂がそう答えた瞬間だった。
「あっ」
そう声を上げたのは新庄だった。
「気付いたか」
「え、えぇ。確かに、六時間目以前にチョコを仕掛けたとは考えられませんね」
「……確かに、言われてみればそうです」
続いて斎藤も大きく頷く。瑞穂と松北は置いて行かれたままだ。
「先生、説明してください!」
「いいかね、さっきの新庄警部補の話で、五時間目の体育が長距離走だった事がわかっている。じゃあ、ここで質問だ。長距離走は普通どこでやる?」
「どこって……グラウンドじゃないんですか?」
「そうだ。そうなると、当然被害者は昇降口で靴を履き替えているはずだ」
「まぁ、それが普通ですよね。でもそれが……あ」
ここに至って瑞穂もようやく気付いたようだ。
「そう、もし六時間目以前に下駄箱にチョコがあったら、この時点で被害者が気付いていないとおかしい。つまり、彼が体育を終えて自分の靴を下駄箱に入れたその瞬間まで、問題のチョコは下駄箱に存在しなかったという事になる」
「そっか、だから六時間目以前にチョコが入れられた可能性が排除できるんだ」
「つまり、犯人がチョコを仕掛けたのは六時間目になって以降……」
斎藤が呟く。
「そうだ。だが、犯人が学校関係者……平たく言えば生徒だった場合、六時間目そのものにチョコを下駄箱に仕込むのは至難の業だ。何しろその時、犯人自身も授業を受けているはずだからな。となると、仕込む余地があるのは六時間目終了後という事になるが……今回の場合、実はこれもかなり厳しい」
「というと?」
「この学校の六時間目が終わるのが午後三時二十分。しかし被害者は野球部所属で、部室がグランド脇にある以上は授業終了からわずかな時間で下駄箱にやってきてしまう可能性が高い。実際、彼が死んだのは授業終了のわずか十分後だった。おまけに、当時の昇降口は帰宅する生徒たちでごった返していたはず。この衆人環視の状況でいつ被害者がやってくるかわからないのに下駄箱に毒入りチョコを入れるなんて事を犯人がやろうとするとは思えない。というより、下手をすれば犯人より先に被害者が下駄箱に到着してしまうケースだって考えられる。はっきり言って無理だ」
「じゃ、じゃあ、犯人はいつチョコを下駄箱に入れたんですか?」
瑞穂の問いに、榊原ははっきり答えた。
「考えられる可能性は一つ。それは、犯人が六時間目の最中に下駄箱にチョコを入れたという可能性だ」
「いや、でもさっきそれはないって話になっていたんじゃないんですか? 犯人も授業を受けているはずだからって……」
「そうだ。だが、その条件にはいくつか例外がある。何らかの理由……例えばトイレや保健室に行くなどの理由で犯人が教室を抜け出していた場合だ」
「あっ!」
瑞穂は声を上げた。確かに、要は五分でも教室を抜け出す事ができればチョコを置く事は可能なのである。そして、その推理に斎藤の表情が厳しくなった。
「という事は、容疑者は……」
「今日の六時間目に何らかの理由で教室から抜け出ていた生徒を探すのが妥当だろう。それに教師も調べた方がいい」
「教師?」
「生徒と違って、授業に入っていない教師なら授業中でも自由に校舎内を移動できる。後は外部犯の可能性だが……これについては?」
「可能性は低いはずです。授業中、防犯上の理由から裏門も正面の門も閉まっていますし、正面門のあるグラウンドでは六時間目に一年生の三・四組が体育の授業をしていました。正面門から入ろうとする人間がいれば気付かれるはず。裏門も近くに職員室があるので、何かあれば職員室の教員が気付くはずです」
「なら、外部犯は除外していい。ひとまず、六時間目にわずかでもアリバイのない生徒と教師だ」
「すぐに、調べます!」
新庄が部屋を飛び出していった。
「よかったね、松北君。これなら松北君がやったんじゃないって事もすぐに証明できるんじゃないかな?」
瑞穂が松北にそう話しかける。が、肝心の松北の表情は暗かった。
「えっと、その……ごめん、多分まだ容疑は晴れないと思う」
「どういう意味だね?」
榊原の静かな問いかけに、松北は少しためらうように言った。
「実は僕……六時間目の途中で一度トイレに行ってるんです。もちろん、五分くらいで戻ってきましたけど……」
「そんな……」
瑞穂が絶句する。が、榊原はあくまで冷静に告げた。
「つまり、まだ君を容疑者から外すわけにはいかない、という事だね」
「はい……」
「まぁ、いい。何にせよ、これで容疑者を減らせるはずだ。後はそこからどう攻め込んでいくか、だな」
そう言いながら、榊原の表情はすでに獲物を狙う狩人のそれになっていた。