②
のどが痛い。うまく呼吸ができない。口内の潤い不足で、飲み込めなかった唾を押し出そうと咳がでる。腕はもはや自分の意思で振っているのか、身体がふらつく反動で揺れているのか分からない。足は必死に地面を蹴るけれど、大して進んでくれない。額から流れ出る汗が、まつ毛を抜け眼球に届き片目を瞑る。何でこんなことになったのだろう。前方を疾走する茶色い毛玉を見失わないよう、必死になって全身で走る。
遡ること三時間前、僕は隣町の全国展開をする大型書店の入り口に陣取っていた。前から数えて十番目だろうか。一番早い人でいったい何時から並んでいるのか。僕の後ろにも続く長蛇の列を見まわしながら考える。重くシャッターが下りた傍で、今か今かとその時を待つ。スマホを操る人が大半の列の中、僕は用意しておいた単行本を読み始める。目は一生懸命に文字を追うけれど、興奮し過ぎている為か全く頭に内容が入って来ない。ダメだなこれは、と本を閉じたと同時に通用口から書店員が顔を出す。途端にざわめく僕と周囲。
午前九時前、遂にシャッターが開かれ、眼前に目的地が広がる。開店と同時に「五人ずつ入場してください」と指示が飛ぶ。混乱を避ける措置だろう。それでも、書店員たちが「走らないでください!」と声を荒げる。目指すは二階の書籍新刊コーナー。
でかでかとポップで飾り付けられた特設置場にそれはあった。光り輝いてみえるのは気のせいではないはずだ。藤堂藍凪先生の新刊『ヒカゲの華』。一年ぶりの新刊発行だ。最近じわじわと人気を上げてきている僕が大好きな作家のひとりだ。性別は男性、年齢は三一歳ということ以外その素性は謎に包まれている。それというのも滅多に表舞台に立たないからだ。極度の人見知りだとか、精神的な病を抱えているだとか、ミステリアスを売りにしているだとか諸説ある。
そんな先生がなんと、先着五十人に直接サインを書いてくれるというのだ。こんなチャンス二度とないかもしれない。僕は思った、行くしかない。普段は消極的、という言葉が似合いすぎるほど大人しい僕だけど、大好きな作品を生む先生のサインが貰えるなら、朝四時起きも苦ではなかった。しっかりと赤色の分厚いハードカバーを握りしめ、レジに向かい、購入と引き換えに整理券を受け取る。
すぐさま五階のイベント会場に急ぐ。会場では既に何人かがサインを終えていて、満足そうな表情で僕を横切っていく。ドキドキしながら、自分の順番を待つ。先生の姿は可動式の間仕切りで仕切られ見えない。
「はい、次の方~」
やや間延びした係員に呼ばれ、生唾を一度飲み込み、失礼しますと歩を進める。
「はい、いらっしゃい」
「ふぁい!」
緊張しすぎて思いきり噛んでしまった。係員の肩が僅かに震えている。我慢しなくていいです、いっそ笑ってください。赤面しながら、先生に改めて向き直る。折り畳み式の長机に手を置き、背もたれのついたキャスター付きの椅子に腰かけている。
「緊張しなくていいですよ、わたしなんてただのオッサンですから」
そういって優しく微笑む先生は、三一歳と聞いていたけれど、実年齢より若く見える。染色した栗色の髪を緩く後ろでまとめている。メガネの奥から覗く瞳は、聡明な輝きを湛えている。服装もカッチリとしたスーツだ。しっかりとジャケットも羽織っている。なんだろう、諸説言われてはいたけれど、いたって普通の人にみえる。
先程購入した本を先生に渡せば、キュポンとマジックのふたを外し、僕を見上げる。
「なんて書こうかな?」
「あっ、えと、じゃあ高木葵で!」
「漢字は?」
「あっ、高い低いの高いに樹木の木、treeの木です。葵は……えっと、普通の……」
「ヒマワリの葵?」
「あっ!そう、それです!向日葵です!」
「良い名前だね」
「っ!はいっ!」
嬉しい、嬉しい。憧れの人に例えお世辞とはいえ、褒められた。お父さん、お母さんありがとう!僕が歓喜に打ち震えていると、先生が書き終わったらしく、本を渡される。最後に握手をかわす。よくクラスの女子が握手会に行って「もう手洗えない」と言う話を聞くけれど、やっとその意味が分かった。今なら分かる、その気持ち。最後にもう一度会釈をしてその場を後にした。
そのまま夢見心地で自分の住む町へと戻ってきた。ハッキリ言うと、どうやって戻って来たのか曖昧だ。気が付けば、よく馴染んだ町の歩道に立っていた、という表現の方が正しいかもしれない。それ程、僕は浮かれていた。
この後がいけなかった。どうしても家に着くまで我慢できなかったのだ。一年間待った新刊。駅と家の間には丁度中間の位置に小さな公園がある。遊具はなく、ただベンチが何卓か置いてあるだけの簡素な公園だ。夏場は公園を囲む林の木々が青々と生い茂り、他と比べ涼しい風が吹き抜けている。鳥や今の時間はアブラゼミもけたたましく鳴いている。
丁度日陰になっているベンチのひとつに腰かけ、カバンに入れていた本を取り出す。書籍は単行本で読むに限る、と思う。勿論文庫サイズも良い、値段を考えると圧倒的に文庫の方が、高校生の財布事情には優しい。けれど、単行本は単行本にしかない味がある。装丁だってその本の内容をイメージして細かく作られている。
早速、目の前で本を広げる。新刊独特の真新しいインクの匂いが鼻腔に広がる。背表紙側を開けばサインと「高木葵くんへ」の文字。迷いなく藤堂藍凪と書かれた右隣には、ぽっかりと浮かぶ月のように、藤の花の枠の中に「堂」と「凪」の草書体が青い印肉で押されている。
「幸せだ……」
思わず呟いてしまう。周りに人がいれば、完全に怪しい人だが、今この公園には僕しかいない。つまり、何をしても僕の自由だ。本を膝に載せ、目次に一通り目を通し、いよいよ本編。
『出会いは、突然』
真っ白なページにたった一行、左端隅に文字が躍る。やや真ん中より下に書かれたその文字を人差し指でなぞる。
「出会いは、突然」
声に出し、咀嚼する。その時、僕しかいなかった公園に声が響く。思わず顔を上げると、公園の入り口に茶色い毛玉が見える。その毛玉が段々と僕に近づいてくる。いや、あれは毛玉じゃない。あれは――。
「わふっ!」
薄汚れた中型犬だ。だらしなく舌を出し、駆けてくる。そういえばここ最近、野良犬が多いと誰かが言っていた。
「ひっ!」
僕は犬が嫌いだ。小さな頃に鎖の外れたハスキー犬二匹に追いかけられて以来、かなりの恐怖心を植え付けられてしまった。せいぜい、チワワまでだ。トイプードルはもうダメだ。
全身を細かい震えが走る。走る準備をしようと、腰を半分浮かせたところで。
「あっ」
気がすっかり動転してしまい、膝に載せていた本のことを失念していた。落下し地面に落ち砂埃を立てるサイン本。地面が乾いていて助かった。手を伸ばそうとした矢先……。
「わふ」
何を思ったか全速力で走ってきた中型犬が、器用に本を咥える。そして、そのまま来た道を走り出してしまう。
「――え?」
一瞬、現状を把握できなかったが、すぐに正気を取り戻し、犬を追いかける。家とは反対方向だけれど仕方ない。
「なんなんだよ!あれは滅多に貰えないサイン本なのに!」
そして、現在。太陽の光が降り注ぐ住宅街を、必死に犬を追いかける。普段からインドアな生活がたたり、はっきりいって体力には自信がない。遺伝的にも運動神経は壊滅的だ。でも、ここで諦める訳にはいかない。必死の思いで、流れる汗をぬぐうこともせずに、走る、走る。
「?」
見失わないように睨みつけていた前方の犬が突然止まり、視界から消える。何事かと驚いてそこまで走れば、高さ二メートル程のレンガ造りの塀の隅に、ポッカリと中型犬くらいならば通れそうな穴が開いていた。恐らく、この穴から先程の犬は中へ入っていったのだろう。アブラゼミの声が鳴り響く住宅街で立ち尽くす。拭うことをしなかった汗が顎を伝い、アスファルトに染み込む。
「なんで、よりにもよって……」
塀の奥に広がる不気味な洋館を見上げる。十年前、田んぼと日本家屋に囲まれた田舎に突如造られた住宅団地。明らかに田舎の田畑と住宅の比率を住宅側に傾けた団地の中で、一際異彩を放っていたのが、この洋館だった。前の持ち主は、建てたきり一度も住むことはなく、五年前に別の家族がこの家に引っ越してきた。新しい家主を迎えるまでは無人だった為、そういう噂が後を絶たなかった。勿論、人が暮らすようになった今でも、いわくありげな怪談が付きまとっていた。つまり、幽霊屋敷であると。
僕は犬も嫌いだけれど、怪談はもっと嫌いだ。ミステリーもスリラーも問題ないけれど、ホラーだけは受け付けない。夏場になるといきなり増えるそのての話に、いつもびくついていた。それというのも親友が夏になると決まって僕を心霊ツアーに誘うからなのだけれど、今は置いておく。それどころではない。
「どうしよ……」
暑さからとは別の汗が滲む手を固く握りしめる。迷っている場合じゃない。そう決心し、助走から塀に足をかけ勢いよく手を伸ばす。何とか頂上に手をつけ、そのまま腕にありったけの力を込め、右足から何とか塀を乗り越える、が。
「うっわ……」
自分の運動神経のなさを考えていなかった。慣れないことをし、バランスを崩した身体が宙を仰ぎ地面に打ち付けられる。青空と自分のスニーカーが同じ視界におさまったところで、住人に調べてもらえば良かったと思ったが、時すでに遅し。
「~~~~~~~っ」
背中から地面に落ちたせいで、一瞬息が止まる。すぐに再開された呼吸を、短く繰り返す。落下の割に余り体に痛みを感じないのは、下敷きにしてしまった無数のヒマワリのおかげだろう。身体を起こしてみれば、目の前にはヒマワリの群れ。おびただしい量のそれは、全て僕を向いており、背筋を悪寒が走り抜ける。まるで、監視されているみたいだ。
「と、とにかくさっきの犬を探さないと」
本格的に起き上り、とりあえず前進する。進めどもヒマワリしかない世界。まるで別の世界に迷い込んだ錯覚を覚えるが、空を仰げば先程と変わらない青空。遠いが、蝉の声もする。
気を取り直して更にヒマワリをかき分け進む。五メートルほど進んだ頃だろうか。いきなり背後から突風が吹きつける。思わず目を瞑り、両手で顔をかばう。
「わふ!」
ざぁざぁと、ヒマワリが突風により靡く音で溢れる中、探していた声が聞こえ、思わず顔を上げる。目の前に開かれた場所には、確かに探していた薄汚れた犬がいた。それと、もうひとり……。
「だれ?」
きょとん、という擬音が似合う様子で、見知らぬ少女が犬と一緒に目の前に立っていた。