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奴隷少女と猫

掲載日:2026/09/10

挿絵(By みてみん) 


 住宅街。

 時折、車が通り過ぎる交差点。

 そこに猫がいる。


 どこにでもいる、ごく普通の猫。


 その身体が突然、光に包まれた。


「ニャッ――」


 眩い光が視界を覆う。

 次の瞬間、猫は見知らぬ場所に立っていた。


 四方を囲む石の壁。

 外へ出られそうな場所は、正面にある重そうな扉だけ。その扉には、小さな窓があるだけだった。


 猫は辺りを見回す。


 そして――気づいた。


 部屋の隅に、人間がいる。

 少女だった。

 細い手足には枷がはめられ、壁際に座り込んでいる。


 猫の身体がびくりと跳ねた。

 反射的に数歩後ずさる。


 その気配に、それまで動かなかった少女がゆっくりと顔を上げた。


「シャーッ!」


 猫が身体を低くして威嚇する。

 少女は驚くでもなく、ただ猫を見つめた。


「……ねこ」


 猫と少女の視線が重なる。

 どちらも動かない。


 しばらくして、猫がそろりと横へ移動した。

 少女から距離を取りながら、反対側へ。


 少女の目が、その姿を追う。

 また猫が移動する。

 少女は何もせず、ただ見ている。


「……おいで」


 小さな声。

 猫の耳がぴくりと動いた。


 だが、近づかない。

 しばらく少女の様子を窺ったあと、距離を置いたまま床に座った。


 少女も、それ以上呼ぼうとはしなかった。


    ◇


 コツ、コツ、コツ。


 足音が聞こえてきた。

 猫は飛び起き、部屋の角で警戒する。


 足音は次第に大きくなり、扉の前で止まった。


 ガタン。


 扉の下部が開く。

 そこから皿が1枚、床を滑って入ってきた。


 すぐに扉は閉じられ、足音が遠ざかっていく。


 少女は皿を見た。

 それだけだった。

 取りに行こうとはしない。


 猫は皿を見る。

 しばらく、じっと見つめる。


 それから、慎重に皿へ近づき、鼻先を寄せる。


 くん、くん。


 何度か匂いを嗅ぐ。


「……食べていいよ」


 少女が呟いた。

 その声が届いたのかどうかは分からない。


 猫は皿に顔を突っ込み、ガツガツと食べ始めた。


「……」


 少女は黙ってそれを見ていた。


 やがて皿が空になる。

 満足したのか、猫はその場に座ると前足を舐め始めた。


 ぺろ、ぺろ。


 少女はまだ見ている。


 毛繕いを終えた猫が、少女を見る。

 そして立ち上がった。


 一歩。

 また一歩。


 ゆっくりと少女へ近づいていく。

 少女は動かない。


 猫がさらに近づく。

 それでも動かない。


 やがて猫は、床についている少女の手の前までやってきた。

 首を伸ばす。


 くん。


 少女の手の匂いを嗅ぐ。

 少女は、ただじっとしていた。


 しばらく匂いを確かめていた猫が、そっと少女の手に身体を擦りつけた。

 そしてすぐに離れる。


 少し離れたところまで歩くと、猫は再び座った。


 少女は何も言わなかった。

 ただ、猫を見つめていた。


    ◇


 しばらく猫を見ていた少女が視線を落とす。


「……他に行ったほうがいいよ」


 少女がぽつりと言った。

 その言葉が届いていないのか、猫は少し離れたところに座ったまま動かない。


 少女は構わず言葉を続ける。


「……私、もうすぐいなくなるから」


 猫の片耳がぴくっと動いた。

 そして、前足を舐める。


「……」


 少女も、それ以上は何も言わなかった。


    ◇


 コツ、コツ、コツ。


 足音が近づいてくる。

 眠っていた猫が顔を上げた。


 耳を立て、音のする方を見る。

 猫は立ち上がると、部屋の隅へ移動した。


 足音が扉の前で止まる。


 ガチャン。


 重い音とともに、扉が動いた。


 そのとき、少女が羽織っていた毛布を猫にかけた。

 突然視界を塞がれた猫は、毛布の中で身を縮めた。


「おい、出ろ」

「……」


 少女は何も答えず、立ち上がった。


 男が部屋へ入り、床に置かれた皿を見る。


「昨日は食ったんだな。それでいい」


 空になった皿を拾い上げる。

 少女は何も言わない。


 男は皿を手にすると、少女を連れて部屋を出ていった。


 ガチャン。


 扉が閉まる。

 足音が遠ざかっていく。


 しばらくして、床に落ちていた毛布が動いた。


 もそもそ。


 猫が中から顔を出す。

 誰もいないことを確かめるように辺りを見回した。


「ふう」


 大きく息を吐く。


 そして再び毛布の中へ潜り込むと、そのまま丸くなった。

 少女の残した毛布に包まれ、猫は目を閉じた。


    ◇


 どれだけの時間が経ったのだろう。

 猫はただ眠っていた。


    ◇


 コツ、コツ、コツ。


 足音が聞こえてきた。

 猫が目を開ける。


 身体を起こすと、毛布から抜け出し、部屋の隅へ移動した。


 足音が扉の前で止まる。


 ガチャン。


「入れ」


 その言葉とともに扉が開いた。

 入ってきたのは、朝に連れていかれた少女だった。


 少女が中へ入ると、再び扉が閉まる。


 ガチャン。


 鍵のかかる音。

 やがて足音が遠ざかっていった。


「……まだ、いたんだね」


 少女が猫を見る。

 猫も少女を見ていた。


 少女は床に置かれていた毛布を手に取ると、昨日と同じ場所へ向かった。

 そして壁に背を預けるように座る。


 猫は少し離れたところから、その様子をじっと見ていた。


    ◇


 また時間が過ぎた。


 コツ、コツ、コツ。


 足音が聞こえてくる。

 猫が立ち上がった。


 けれど、今度は部屋の隅へ逃げない。

 その場で扉を見つめている。


 足音が扉の前で止まった。


 ガタン。


 扉の下が開き、皿が床を滑ってくる。

 猫は迷うことなく皿へ近づいた。


 匂いを嗅ぐ。

 そして、そのまま食べ始めた。


「……」


 少女は何も言わない。

 ただ、食べている猫を眺めていた。


 食べ終えた猫は、その場に座って毛繕いを始めた。

 前足を舐め、顔をこする。


 しばらくそうしていた猫が、ふと少女を見る。

 そして立ち上がると、ゆっくりと少女へ近づいてきた。


「……」


 少女は動かない。


 猫は床についている少女の手に身体を擦りつけた。

 それだけすると、また少し離れた場所へ座る。


 そして何事もなかったかのように、毛繕いを再開した。


 少女は、そんな猫を黙って見ていた。


 やがて毛繕いを終えたのか、猫が立ち上がる。

 また少女のところへやってきた。


 今度は少女の前を通り過ぎ、毛布の端に身体を横たえた。


「……」


 少女は何も言わない。

 毛布の端で丸くなる猫を、ただ見つめている。


 その口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


    ◇


 また時間が過ぎた。

 猫はまだ少女の横で眠っている。


 時折、耳がぴくりと動く程度だ。

 少女はそんな猫を見ていた。


「……」


 それまで動かなかった少女の手が、ゆっくりと動く。

 その手が猫の背へ伸びていく。


 猫は眠ったまま、耳だけを横へ向けた。


 少女の手が止まる。

 猫の耳が、また前を向く。


 少女はそっと、その背中を撫でた。


 1回。

 2回。


 撫でるたび、猫の前足の指が開いたり閉じたりする。

 少女はしばらく背中を撫でていた。


 そして今度は、猫の頭へ手を伸ばす。


 ぱくっ。


 少女の手を噛む。


「……ねこさん、痛い」


 少女はゆっくりと手を引いた。

 噛まれたところを見る。


 歯の跡はない。

 甘噛みだったようだ。


 頭を触られるのは嫌だったのだろう。

 少女はまた、猫の背中を撫で始めた。


    ◇


 コツ、コツ、コツ。


 足音で猫が目を覚ます。

 少女はもう起きていた。


「……」


 少女は壁に手をついた。

 そのまま身体を支えるように、ゆっくりと立ち上がる。


 足音が扉の前で止まった。


 ガチャン。


 少女は昨日と同じように、猫へ毛布をかけた。

 扉が開く。


 入ってきた男が少女の顔を見る。

 そして、床に置かれた空の皿へ視線を移した。


「……来い」


 男はそれだけ言った。

 皿を拾い上げる。


 少女は何も答えず、男と一緒に部屋を出ていった。


 ガチャン。


 扉が閉まる。

 やがて足音が遠ざかっていく。


 しばらくして、毛布がもぞもぞと動いた。

 猫が顔を出す。


 誰もいなくなった部屋を見回すと、毛布の上で丸くなった。

 そして、目を閉じた。


    ◇


 また長い時間が過ぎた。


 コツ、コツ、コツ。


 足音が聞こえる。

 猫は毛布の上で顔を上げ、扉を見た。


 足音が扉の前で止まる。


 ガチャン。


 扉が開いた。

 少女が入ってくる。


 ガチャン。


 鍵がかかり、足音が遠ざかっていった。


 少女はいつもの場所へ向かう。

 猫は毛布の上から退いた。


 少女はそこまで歩くと、崩れ落ちるように座り込んだ。


「……」


 猫が少女へ近づいていく。

 床についている少女の手に鼻先をつける。


 そして、頬を擦りつけた。


 少女の手がゆっくりと動く。

 猫の背中を撫でた。


「ぐるるる……」


 低い音が聞こえた。

 猫の喉が鳴っている。


 猫は気持ちよさそうに目を閉じた。

 少女は何も言わない。


 ただ、猫の背中を撫で続けた。


    ◇


 猫は起きていた。

 目の前の少女は、肩で息をしている。


 猫は少女の手を舐めた。

 鼻先でつついてみる。


 少女がゆっくりと猫へ目を向けた。

 そして、微笑んだ。


 そのとき。


 コツ、コツ、コツ。


 足音が近づいてきた。

 扉の前で止まる。


 ガタン。


 扉の下から皿が滑り込んでくる。


 猫が皿へ向かう。


 だが、食べない。


 皿の縁を咥える。


 ズズッ。


 少しずつ、床の上を引きずっていく。

 そして少女の前まで持ってくると、顔を上げた。

 


「ふにゃん!」

 


 少女が目を開ける。


「ふにゃん」


 猫がもう一度鳴く。


「……なに、その鳴き声……」


 少女が微笑んだ。


「ふにゃん、ふにゃん」

 

「……」

 

「ふにゃん、ふにゃん」

 

「……」

 

「ふにゃん、ふにゃん」


 猫は少女を見つめる。

 

 少女も猫を見つめる。


「……」

 

「……ごめん」

 

「……もうすぐいなくなると言ったけど」


 少しだけ息を整える。

 


「もう少し……一緒にいてもいいかな……」

 


 そう言って、少女は皿へ手を伸ばした――


    ◇


 猫は少女の横で眠っていた。

 少女はその背中をゆっくりと撫でている。


 その手には、少し力が戻っていた。


 何度か背中を撫でていた手が、そっと猫の頭へ向かう。


 ぱくっ。


「……ねこさん、痛い」


 やっぱり頭を触られるのは嫌なようだ。


 少女は手を引くと、また猫の背中を撫で始めた。


「……ねこさんって呼ぶのも変だよね」

 

「……」

 

「……名前をつけてもいいかな?」


 少女は猫に問いかける。


「ふにゃん」


 猫が鳴いた。

 それを返事と受け取ったのか、少女は微笑む。


「……私、夢があるんだ」


 猫の背中を撫でながら、少女は続ける。


「まだ、見たことないんだけど」

 

「それを見るのが夢なんだ……」


 少女の手がゆっくりと猫の背中を往復する。


「それを、君の名前にしようと思う」


 

「それはね――」

 


    ◇


 少女と猫は眠っていた。


 ダダダダダッ――!


 突然、激しい足音が響く。


 猫が顔を上げた。

 少女も目を覚ます。


 足音が扉の前で止まった。


 ガチャン!


 勢いよく扉が開く。

 男が飛び込んできた。


「おい、来い!」


 男が少女の手を掴む。


「シャーーーッ!」


 猫が飛びかかった。

 男の手に噛みつく。


「な、なんだこの猫!」


 男が腕を振る。

 振り払われた猫は壁際へ飛ばされ、床へ着地した。


 男は猫を無視して、もう一度少女の手を掴もうとした。


 そのとき、扉の外から声が響く。


「おい! 騎士団が外まで来やがった! そいつを残すな、逃げるぞ!」


 男の動きが止まった。

 少女を部屋の奥へ投げ飛ばす。


「っ……!」


 少女が床へ倒れた。

 男は腰からナイフを抜く。


「すまねぇな」

 

 

「シャーーーッ!」

 


 猫が威嚇する。


 その瞬間――。


 猫の身体が光り始めた。


 それを見た少女はハッとする。

 猫が男の前へ出る。


「ダメ!」


 少女が叫んだ。


「そのまま、逃げて……」


 震える声が漏れる。


「……なんだ?」


 猫が床を蹴る。

 男の腕へ飛びつき、そのまま噛みついた。


 光が強くなっていく。


「ちっ、なんだこの猫! どけ!」


 男がナイフを振り上げる。


 そして――。


 猫へ向けて振り下ろした。

 


「いやーーーっ!」

 


 少女の叫びが響く。


 ナイフが、猫の身体へ深々と突き刺さっていた。


 猫の身体から力が抜ける。


 その瞬間。

 


 ――「ふにゃーん」――


 

 猫が大きく鳴いた。


 猫を包んでいた光が、少女へ移っていく。


「……え?」


 少女の身体が光に包まれる。

 眩い光が牢屋を埋め尽くした。


 そして――。


 少女の姿が消えた。


    ◇


 住宅街。

 時折、車が通り過ぎる交差点。


 何もなかった場所に、突然光が現れた。

 眩い光の中から、1人の少女が姿を現す。


「……え?」


 少女は呆然と立ち尽くしていた。


「おい、君! どこから出てきたんだ!」


 近くにいた人が駆け寄ってくる。

 また1人。

 さらに1人。


 少女の周りに人が集まっていく。


「怪我してるぞ!」

「救急車! 救急車呼んで!」

「大丈夫か!?」


「……」


 少女には、何が起きたのか分からなかった。

 ただ呆然と、人々を見つめていた。


    ◇


「――これが……私の……過去の……話です」


 病院のベッドに、年老いた女性が横たわっていた。

 口元には酸素マスク。


 その横には、年老いた男性が座っている。


「そうだったんだね」


 優しく答えた。


「あなた……今まで……黙っていて……すみません」

 

「そんなことないよ。よく話してくれた、エリサ」


 エリサはゆっくりと彼を見る。


「こんな……私といてくれて……ありがとうございました」


 男性は握っていた手に力を込めた。


「私は幸せでした……あなたと出会った日……あなたと結婚した日……あの子たちが生まれた日……」


 一度、ゆっくりと息を吸う。


「今でも……はっきりと覚えています」

 

「……」

 

「どれも、かけがえのない日でした……」


 二人は、互いの手を握り続けていた。


「あなた――」

 

「ほんとうに……私は……幸せ……でした……」


 エリサの目が、ゆっくりと閉じていく。


「ありが……とう……」


 深く息を吐いた。

 それきり、胸が動くことはなかった。


    ◇


 エリサは橋のたもとに立っていた。

 周囲を見回す。


 辺りには霧がかかり、遠くまでは見えない。


「……私、死んだのね」


 それでも、その顔は晴れやかだった。


 エリサは目の前の橋を見る。

 向こう岸は見えない。


 しばらく眺めたあと、橋を渡り始める。

 一歩ずつ、ゆっくりと進んでいく。


 やがて霧の向こうに、対岸が見えてきた。


「――」


 何かが聞こえた。


 エリサが足を止める。


 今のは――


 歩みが速くなる。


「ふにゃん」


 確かに聞こえた。


「あ……」


 その声を聞いたエリサは走り出す。

 全力で走る。


 いつしか、その姿が少女の頃へと戻っていく。


 ――『……私、夢があるんだ』


 ――『まだ、見たことないんだけど』


「ふにゃん」


 ――『それを見るのが夢なんだ……』


「ふにゃん」


 ――『それを、君の名前にしようと思う』


「ふにゃん」


 


 ――『そら』――

 ――「そら!」


 


 エリサとそらは抱き合った。



 


    完

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


初めての短編小説で、右も左も分からない状態から始めましたが、楽しく書き進めることができました。


『奴隷少女と猫』を少しでも気に入っていただけましたら、評価や感想をいただけると今後の励みになります。


また、本作とは違う世界観の長編小説『彼方と日常の境界、そのリアル』も連載しています。

よろしければ、そちらもお読みいただけると嬉しいです。

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