奴隷少女と猫
住宅街。
時折、車が通り過ぎる交差点。
そこに猫がいる。
どこにでもいる、ごく普通の猫。
その身体が突然、光に包まれた。
「ニャッ――」
眩い光が視界を覆う。
次の瞬間、猫は見知らぬ場所に立っていた。
四方を囲む石の壁。
外へ出られそうな場所は、正面にある重そうな扉だけ。その扉には、小さな窓があるだけだった。
猫は辺りを見回す。
そして――気づいた。
部屋の隅に、人間がいる。
少女だった。
細い手足には枷がはめられ、壁際に座り込んでいる。
猫の身体がびくりと跳ねた。
反射的に数歩後ずさる。
その気配に、それまで動かなかった少女がゆっくりと顔を上げた。
「シャーッ!」
猫が身体を低くして威嚇する。
少女は驚くでもなく、ただ猫を見つめた。
「……ねこ」
猫と少女の視線が重なる。
どちらも動かない。
しばらくして、猫がそろりと横へ移動した。
少女から距離を取りながら、反対側へ。
少女の目が、その姿を追う。
また猫が移動する。
少女は何もせず、ただ見ている。
「……おいで」
小さな声。
猫の耳がぴくりと動いた。
だが、近づかない。
しばらく少女の様子を窺ったあと、距離を置いたまま床に座った。
少女も、それ以上呼ぼうとはしなかった。
◇
コツ、コツ、コツ。
足音が聞こえてきた。
猫は飛び起き、部屋の角で警戒する。
足音は次第に大きくなり、扉の前で止まった。
ガタン。
扉の下部が開く。
そこから皿が1枚、床を滑って入ってきた。
すぐに扉は閉じられ、足音が遠ざかっていく。
少女は皿を見た。
それだけだった。
取りに行こうとはしない。
猫は皿を見る。
しばらく、じっと見つめる。
それから、慎重に皿へ近づき、鼻先を寄せる。
くん、くん。
何度か匂いを嗅ぐ。
「……食べていいよ」
少女が呟いた。
その声が届いたのかどうかは分からない。
猫は皿に顔を突っ込み、ガツガツと食べ始めた。
「……」
少女は黙ってそれを見ていた。
やがて皿が空になる。
満足したのか、猫はその場に座ると前足を舐め始めた。
ぺろ、ぺろ。
少女はまだ見ている。
毛繕いを終えた猫が、少女を見る。
そして立ち上がった。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと少女へ近づいていく。
少女は動かない。
猫がさらに近づく。
それでも動かない。
やがて猫は、床についている少女の手の前までやってきた。
首を伸ばす。
くん。
少女の手の匂いを嗅ぐ。
少女は、ただじっとしていた。
しばらく匂いを確かめていた猫が、そっと少女の手に身体を擦りつけた。
そしてすぐに離れる。
少し離れたところまで歩くと、猫は再び座った。
少女は何も言わなかった。
ただ、猫を見つめていた。
◇
しばらく猫を見ていた少女が視線を落とす。
「……他に行ったほうがいいよ」
少女がぽつりと言った。
その言葉が届いていないのか、猫は少し離れたところに座ったまま動かない。
少女は構わず言葉を続ける。
「……私、もうすぐいなくなるから」
猫の片耳がぴくっと動いた。
そして、前足を舐める。
「……」
少女も、それ以上は何も言わなかった。
◇
コツ、コツ、コツ。
足音が近づいてくる。
眠っていた猫が顔を上げた。
耳を立て、音のする方を見る。
猫は立ち上がると、部屋の隅へ移動した。
足音が扉の前で止まる。
ガチャン。
重い音とともに、扉が動いた。
そのとき、少女が羽織っていた毛布を猫にかけた。
突然視界を塞がれた猫は、毛布の中で身を縮めた。
「おい、出ろ」
「……」
少女は何も答えず、立ち上がった。
男が部屋へ入り、床に置かれた皿を見る。
「昨日は食ったんだな。それでいい」
空になった皿を拾い上げる。
少女は何も言わない。
男は皿を手にすると、少女を連れて部屋を出ていった。
ガチャン。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
しばらくして、床に落ちていた毛布が動いた。
もそもそ。
猫が中から顔を出す。
誰もいないことを確かめるように辺りを見回した。
「ふう」
大きく息を吐く。
そして再び毛布の中へ潜り込むと、そのまま丸くなった。
少女の残した毛布に包まれ、猫は目を閉じた。
◇
どれだけの時間が経ったのだろう。
猫はただ眠っていた。
◇
コツ、コツ、コツ。
足音が聞こえてきた。
猫が目を開ける。
身体を起こすと、毛布から抜け出し、部屋の隅へ移動した。
足音が扉の前で止まる。
ガチャン。
「入れ」
その言葉とともに扉が開いた。
入ってきたのは、朝に連れていかれた少女だった。
少女が中へ入ると、再び扉が閉まる。
ガチャン。
鍵のかかる音。
やがて足音が遠ざかっていった。
「……まだ、いたんだね」
少女が猫を見る。
猫も少女を見ていた。
少女は床に置かれていた毛布を手に取ると、昨日と同じ場所へ向かった。
そして壁に背を預けるように座る。
猫は少し離れたところから、その様子をじっと見ていた。
◇
また時間が過ぎた。
コツ、コツ、コツ。
足音が聞こえてくる。
猫が立ち上がった。
けれど、今度は部屋の隅へ逃げない。
その場で扉を見つめている。
足音が扉の前で止まった。
ガタン。
扉の下が開き、皿が床を滑ってくる。
猫は迷うことなく皿へ近づいた。
匂いを嗅ぐ。
そして、そのまま食べ始めた。
「……」
少女は何も言わない。
ただ、食べている猫を眺めていた。
食べ終えた猫は、その場に座って毛繕いを始めた。
前足を舐め、顔をこする。
しばらくそうしていた猫が、ふと少女を見る。
そして立ち上がると、ゆっくりと少女へ近づいてきた。
「……」
少女は動かない。
猫は床についている少女の手に身体を擦りつけた。
それだけすると、また少し離れた場所へ座る。
そして何事もなかったかのように、毛繕いを再開した。
少女は、そんな猫を黙って見ていた。
やがて毛繕いを終えたのか、猫が立ち上がる。
また少女のところへやってきた。
今度は少女の前を通り過ぎ、毛布の端に身体を横たえた。
「……」
少女は何も言わない。
毛布の端で丸くなる猫を、ただ見つめている。
その口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
また時間が過ぎた。
猫はまだ少女の横で眠っている。
時折、耳がぴくりと動く程度だ。
少女はそんな猫を見ていた。
「……」
それまで動かなかった少女の手が、ゆっくりと動く。
その手が猫の背へ伸びていく。
猫は眠ったまま、耳だけを横へ向けた。
少女の手が止まる。
猫の耳が、また前を向く。
少女はそっと、その背中を撫でた。
1回。
2回。
撫でるたび、猫の前足の指が開いたり閉じたりする。
少女はしばらく背中を撫でていた。
そして今度は、猫の頭へ手を伸ばす。
ぱくっ。
少女の手を噛む。
「……ねこさん、痛い」
少女はゆっくりと手を引いた。
噛まれたところを見る。
歯の跡はない。
甘噛みだったようだ。
頭を触られるのは嫌だったのだろう。
少女はまた、猫の背中を撫で始めた。
◇
コツ、コツ、コツ。
足音で猫が目を覚ます。
少女はもう起きていた。
「……」
少女は壁に手をついた。
そのまま身体を支えるように、ゆっくりと立ち上がる。
足音が扉の前で止まった。
ガチャン。
少女は昨日と同じように、猫へ毛布をかけた。
扉が開く。
入ってきた男が少女の顔を見る。
そして、床に置かれた空の皿へ視線を移した。
「……来い」
男はそれだけ言った。
皿を拾い上げる。
少女は何も答えず、男と一緒に部屋を出ていった。
ガチャン。
扉が閉まる。
やがて足音が遠ざかっていく。
しばらくして、毛布がもぞもぞと動いた。
猫が顔を出す。
誰もいなくなった部屋を見回すと、毛布の上で丸くなった。
そして、目を閉じた。
◇
また長い時間が過ぎた。
コツ、コツ、コツ。
足音が聞こえる。
猫は毛布の上で顔を上げ、扉を見た。
足音が扉の前で止まる。
ガチャン。
扉が開いた。
少女が入ってくる。
ガチャン。
鍵がかかり、足音が遠ざかっていった。
少女はいつもの場所へ向かう。
猫は毛布の上から退いた。
少女はそこまで歩くと、崩れ落ちるように座り込んだ。
「……」
猫が少女へ近づいていく。
床についている少女の手に鼻先をつける。
そして、頬を擦りつけた。
少女の手がゆっくりと動く。
猫の背中を撫でた。
「ぐるるる……」
低い音が聞こえた。
猫の喉が鳴っている。
猫は気持ちよさそうに目を閉じた。
少女は何も言わない。
ただ、猫の背中を撫で続けた。
◇
猫は起きていた。
目の前の少女は、肩で息をしている。
猫は少女の手を舐めた。
鼻先でつついてみる。
少女がゆっくりと猫へ目を向けた。
そして、微笑んだ。
そのとき。
コツ、コツ、コツ。
足音が近づいてきた。
扉の前で止まる。
ガタン。
扉の下から皿が滑り込んでくる。
猫が皿へ向かう。
だが、食べない。
皿の縁を咥える。
ズズッ。
少しずつ、床の上を引きずっていく。
そして少女の前まで持ってくると、顔を上げた。
「ふにゃん!」
少女が目を開ける。
「ふにゃん」
猫がもう一度鳴く。
「……なに、その鳴き声……」
少女が微笑んだ。
「ふにゃん、ふにゃん」
「……」
「ふにゃん、ふにゃん」
「……」
「ふにゃん、ふにゃん」
猫は少女を見つめる。
少女も猫を見つめる。
「……」
「……ごめん」
「……もうすぐいなくなると言ったけど」
少しだけ息を整える。
「もう少し……一緒にいてもいいかな……」
そう言って、少女は皿へ手を伸ばした――
◇
猫は少女の横で眠っていた。
少女はその背中をゆっくりと撫でている。
その手には、少し力が戻っていた。
何度か背中を撫でていた手が、そっと猫の頭へ向かう。
ぱくっ。
「……ねこさん、痛い」
やっぱり頭を触られるのは嫌なようだ。
少女は手を引くと、また猫の背中を撫で始めた。
「……ねこさんって呼ぶのも変だよね」
「……」
「……名前をつけてもいいかな?」
少女は猫に問いかける。
「ふにゃん」
猫が鳴いた。
それを返事と受け取ったのか、少女は微笑む。
「……私、夢があるんだ」
猫の背中を撫でながら、少女は続ける。
「まだ、見たことないんだけど」
「それを見るのが夢なんだ……」
少女の手がゆっくりと猫の背中を往復する。
「それを、君の名前にしようと思う」
「それはね――」
◇
少女と猫は眠っていた。
ダダダダダッ――!
突然、激しい足音が響く。
猫が顔を上げた。
少女も目を覚ます。
足音が扉の前で止まった。
ガチャン!
勢いよく扉が開く。
男が飛び込んできた。
「おい、来い!」
男が少女の手を掴む。
「シャーーーッ!」
猫が飛びかかった。
男の手に噛みつく。
「な、なんだこの猫!」
男が腕を振る。
振り払われた猫は壁際へ飛ばされ、床へ着地した。
男は猫を無視して、もう一度少女の手を掴もうとした。
そのとき、扉の外から声が響く。
「おい! 騎士団が外まで来やがった! そいつを残すな、逃げるぞ!」
男の動きが止まった。
少女を部屋の奥へ投げ飛ばす。
「っ……!」
少女が床へ倒れた。
男は腰からナイフを抜く。
「すまねぇな」
「シャーーーッ!」
猫が威嚇する。
その瞬間――。
猫の身体が光り始めた。
それを見た少女はハッとする。
猫が男の前へ出る。
「ダメ!」
少女が叫んだ。
「そのまま、逃げて……」
震える声が漏れる。
「……なんだ?」
猫が床を蹴る。
男の腕へ飛びつき、そのまま噛みついた。
光が強くなっていく。
「ちっ、なんだこの猫! どけ!」
男がナイフを振り上げる。
そして――。
猫へ向けて振り下ろした。
「いやーーーっ!」
少女の叫びが響く。
ナイフが、猫の身体へ深々と突き刺さっていた。
猫の身体から力が抜ける。
その瞬間。
――「ふにゃーん」――
猫が大きく鳴いた。
猫を包んでいた光が、少女へ移っていく。
「……え?」
少女の身体が光に包まれる。
眩い光が牢屋を埋め尽くした。
そして――。
少女の姿が消えた。
◇
住宅街。
時折、車が通り過ぎる交差点。
何もなかった場所に、突然光が現れた。
眩い光の中から、1人の少女が姿を現す。
「……え?」
少女は呆然と立ち尽くしていた。
「おい、君! どこから出てきたんだ!」
近くにいた人が駆け寄ってくる。
また1人。
さらに1人。
少女の周りに人が集まっていく。
「怪我してるぞ!」
「救急車! 救急車呼んで!」
「大丈夫か!?」
「……」
少女には、何が起きたのか分からなかった。
ただ呆然と、人々を見つめていた。
◇
「――これが……私の……過去の……話です」
病院のベッドに、年老いた女性が横たわっていた。
口元には酸素マスク。
その横には、年老いた男性が座っている。
「そうだったんだね」
優しく答えた。
「あなた……今まで……黙っていて……すみません」
「そんなことないよ。よく話してくれた、エリサ」
エリサはゆっくりと彼を見る。
「こんな……私といてくれて……ありがとうございました」
男性は握っていた手に力を込めた。
「私は幸せでした……あなたと出会った日……あなたと結婚した日……あの子たちが生まれた日……」
一度、ゆっくりと息を吸う。
「今でも……はっきりと覚えています」
「……」
「どれも、かけがえのない日でした……」
二人は、互いの手を握り続けていた。
「あなた――」
「ほんとうに……私は……幸せ……でした……」
エリサの目が、ゆっくりと閉じていく。
「ありが……とう……」
深く息を吐いた。
それきり、胸が動くことはなかった。
◇
エリサは橋のたもとに立っていた。
周囲を見回す。
辺りには霧がかかり、遠くまでは見えない。
「……私、死んだのね」
それでも、その顔は晴れやかだった。
エリサは目の前の橋を見る。
向こう岸は見えない。
しばらく眺めたあと、橋を渡り始める。
一歩ずつ、ゆっくりと進んでいく。
やがて霧の向こうに、対岸が見えてきた。
「――」
何かが聞こえた。
エリサが足を止める。
今のは――
歩みが速くなる。
「ふにゃん」
確かに聞こえた。
「あ……」
その声を聞いたエリサは走り出す。
全力で走る。
いつしか、その姿が少女の頃へと戻っていく。
――『……私、夢があるんだ』
――『まだ、見たことないんだけど』
「ふにゃん」
――『それを見るのが夢なんだ……』
「ふにゃん」
――『それを、君の名前にしようと思う』
「ふにゃん」
――『そら』――
――「そら!」
エリサとそらは抱き合った。
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
初めての短編小説で、右も左も分からない状態から始めましたが、楽しく書き進めることができました。
『奴隷少女と猫』を少しでも気に入っていただけましたら、評価や感想をいただけると今後の励みになります。
また、本作とは違う世界観の長編小説『彼方と日常の境界、そのリアル』も連載しています。
よろしければ、そちらもお読みいただけると嬉しいです。




