表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『恩返しの泥濘(ぬかるみ)』

掲載日:2026/05/05

それは、ある晴れた日の気まぐれだった。

アスファルトの上で干からびかけていた一匹のカエル。女は手元のペットボトルの水を、無造作にその背中へとかけた。ひんやりとした水にカエルの皮膚が脈打ち、命が吹き返される。女はその瞬間の「いいことをした」という全能感に満足し、カエルのことなどすぐに忘れた。


数日後の夜、玄関のチャイムが鳴った。

扉を開けると、そこにはぬめぬめと光る、異様に大きなカエルが立っていた。

「恩返しに来ました」

カエルは精一杯の誠意を込めて告げたが、女は悲鳴を上げてドアを閉めた。女が救ったのは「小さな可哀想な命」であって、目の前に現れた「ぬるつく巨大な生物」ではなかったからだ。


カエルは考えた。なぜ自分は拒絶されたのか。

「そうだ、僕がぬめぬめしていたからだ」

カエルは命を削る思いで水分を飛ばし、皮膚がひび割れるほどカサカサに乾いて、再び女の元を訪れた。しかし、現れたのは前回よりもさらに異様さを増した、干からびた怪物の姿だった。女は気味悪がり、塩を撒いて追い払った。


カエルはなおも考えた。何がいけないのか。

そこで、ようやく思い至る。人間は服を着ていた。自分もあの人と同じ姿になれば、きっと受け入れてもらえるはずだ。

カエルはゴミ捨て場を漁り、泥にまみれた子供のシャツや、ボロボロの布切れを拾い集めた。ボタンの弾けそうなシャツを無理やり体にねじ込み、ただの紐をネクタイのように結び、直立不動で玄関の前に立った。

「こんばんは。恩返しに……」

その声が届き切る前に、女は問答無用で棒を振り下ろした。

カエルの、必死に整えたはずの服が泥に汚れ、一撃の下に叩き出された。

「化け物が、二度と来るな!」


泥まみれになり、折れ曲がったネクタイを引きずりながら、カエルは這うようにして茂みへと戻っていく。その時、カエルは自分の頭をなで、決定的な事実に気づいてしまう。

自分には、あの人たちのような髪の毛がない。

月明かりの下、むき出しの頭はどこまでも不気味に、てかてかと光っていた。


カエルは、あきらめなかった。

何が足りないのか、何が人間を人間たらしめているのか。彼は執念深く、自分を少しずつ作り替えていった。泥と枯れ草で髪を編み、拾った化粧品で肌を整え、歪んだ手足の骨を無理やり矯正する。昨日よりも今日、今日よりも明日。カエルは激痛に耐えながら、人間になるために足りないパーツを一つずつ足していった。


そして、ついにその日が来た。

てかてかと光っていた頭にはしなやかな髪が流れ、泥の礼服の下には、誰もが見惚れるような彫刻のような肉体が宿っていた。どこからどう見ても、彼は非の打ちどころのない、輝くような「最高のイケメン」へと変貌を遂げていた。


カエルは、再びあの家のチャイムを鳴らす。

ドアが開いた。女は、目の前に立つ眩いばかりの青年を見るなり、その表情を一変させた。先日の棒も、罵声も、塩も、そこにはない。

「……まあ、どなた様ですか。どうぞ、中へ」

女は、うっとりとした表情で、すんなりと彼を招き入れた。


暖かい光の漏れる部屋、差し出される紅茶。

女は「美しい客」を前に、実に楽しそうに喋り続けている。

けれど、その瞬間。

カエルを突き動かしていた熱い執念は、音を立てて冷めていった。

この人は、僕を救った恩人だった。あの水をかけてくれた瞬間の輝きを、僕は一生をかけて返すべきものだと信じていた。

だが、どうだろう。服を着て、髪を整え、完璧な顔を手に入れた瞬間に差し出されたこの歓迎の、なんと浅ましく、空っぽなことか。


恩返しをしようと、命を削ってまで人間に近づいた。

だが、この扉を開けたのは、カエルの真実でも、積み上げた献身でもなく、ただの「形」に過ぎなかった。

女が愛しているのは、自分を救った慈悲の心でもなければ、救われた命の喜びでもない。ただ、自分の目の前に広がる「都合のいい美しさ」だけなのだ。


「……失礼します」

カエルは、紅茶に口をつけることもなく、静かに立ち上がった。

期待していた恩返しの喜びは、もうどこにもなかった。

かつて感じた恩義は、冷え切った泥のように重く、価値のないものに変わっていた。

「えっ、もうお帰りですか? もっとゆっくり……」

女の呼び止める声を背に、カエルは一度も振り返ることなくドアを開けた。

一刻も早く、この浅ましい人間の家から、あの静かな沼の底へ帰りたかった。

恩返しをする価値など、最初からどこにもなかったのだ。


おしまい

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ