第9話:毒見と「ストロー浄水器」
ヴィンセント・ヴォン・ヴァルディアが、古代タブレットのロックを解除し、システムの「管理者」としての地位を確立してから数日が経過した。
学園内の空気は、もはや「畏敬」を通り越して「宗教」の域に達していた。
彼が廊下を歩けば、生徒たちは壁に張り付き、合掌して祈りを捧げる。
彼が食堂で水を飲めば、「聖水」としてコップの競売が始まる(セシリアが即座に回収・洗浄しているが)。
彼が授業中に居眠りをすれば、「世界の理を深層領域でリソース調整されているのだ」と教師が声を潜める。
だが、そんな過剰な忖度とは裏腹に、ヴィンセント本人の悩みは尽きなかった。
「……喉が渇いた」
放課後の寮の自室。ヴィンセントは執務机で書類と格闘していた。
領地の改革案(という名の効率化計画)を作成しているのだが、作業に集中すると水分補給を忘れがちになるのが彼の悪癖だ。
「セシリア。飲み物を」
「はい、マスター。直ちに」
影のように控えていた専属メイド・セシリアが、恭しく一礼する。
彼女がヴィンセントに仕えるようになってから数日。その働きは完璧を通り越し、もはや「主人の思考を先読みするデバイス」の域に達していた。
セシリアの手には、豪奢な銀のトレイと、一本のワインボトルが乗せられていた。
「本日は、差出人不明ですが、極上のヴィンテージワインが届いております。……『ヴィンセント様の偉業を称えて』とのメッセージカードが添えられておりました」
「ほう。気が利くな」
ヴィンセントは顔を上げた。
差出人不明の荷物など、セキュリティ上は即廃棄すべき案件だ。
だが、彼は今、極度の喉の渇きを感じていた。そして何より、この世界の安酒ではなく「ヴィンテージ(古酒)」という響きに、エンジニア特有の「熟成された情報の価値」を感じてしまった。
「開けろ。テイスティングだ」
「……畏まりました」
セシリアは、ほんの一瞬だけ瞳を細めた。
元暗殺者である彼女の直感が、警鐘を鳴らしていたからだ。
差出人不明。あまりにタイミングが良すぎる。そして、ボトルから微かに漂う、不自然なほど甘ったるい香り。
(……怪しいわね。資料にあった『ガットン派の残党』の仕業かしら)
彼女はコルクを抜き、グラスに注ぐふりをして、袖口に仕込んだ「毒検知の魔紙」を液体に触れさせた。
紙が、どす黒い紫色に変色する。
(!!)
猛毒だ。それも、即効性の神経毒。
「バジリスクの涙」と呼ばれる、一滴で象をも殺す王室御用達の暗殺毒である。
(やはり……! マスターの圧倒的な力を恐れた愚か者の足掻きね。……身の程をわからせてあげなくては)
セシリアは即座にボトルを奪い取り、不届き者を「清掃(物理的なデリート)」しに行こうとした。
だが、その前にヴィンセントの手が伸びた。
「遅いぞ」
彼はセシリアの手から、なみなみと注がれたグラスをひょいと奪い取った。
「あッ……! マスター、いけません! それは……!」
セシリアが叫ぶ。しかし、ヴィンセントは既にグラスを口元に運んでいた。
彼はグラスを軽く回し、香りを嗅ぎ、そして眉をひそめた。
「……なんだこれ。臭いな」
ヴィンセントの第一声は、毒の検知ではなかった。
「品質管理(QC)への不満」だった。
(酸化が進みすぎている。保存状態が悪かったのか、コルクのシールが甘かったのか。酢酸エチルのような刺激臭がする。これじゃワインというより、工業用の腐った溶剤だぞ)
エンジニアとしての鋭敏な感覚(潔癖症)が、ワインに含まれる不純物の多さを瞬時に見抜いたのだ。もちろん、その不純物の正体が「致死性猛毒」だとは気づいていない。
「ちっ、期待外れだ。……だが、捨てるのはリソースの無駄だな」
彼はグラスを置いた。
セシリアは安堵の息をつこうとした。流石はマスター、毒の臭いだけで危険を察知されたのだ、と。
「処分いたしますか?」
「いや。……物理フィルタを通す」
「……は?」
ヴィンセントは、懐から「ある道具」を取り出した。
それは、長さ20センチほどの、太めの金属製ストローだった。
表面には幾何学的な刻印が施され、内部には複雑な機構が詰まっていることが見て取れる。
『携帯用強力浄水ストロー(サバイバル・マスター Mk-V)』。
元々は、ダンジョンや野外活動で、泥水や汚水を安全に飲むために開発したアイテムだ。
中空糸膜フィルター、活性炭吸着層、そして魔法で強化した逆浸透膜(RO膜)を多層構造で配置した、超高性能な携帯浄水器である。
その除去能力は、細菌、ウイルス、重金属、そして「有機毒素」に至るまで、99.9999%をカットする。
(雑味が激しいなら、物理的に遮断すればいい。アルコール成分と水分だけを抽出し、酸化した不純物(毒)をマニュアル通りに除去する)
ヴィンセントは、ストローを毒入りワインのグラスに突き刺した。
「いただく(実行)」
彼はストローを咥え、勢いよく吸い込んだ。
「マスターーーーッ!!?」
セシリアの絶叫が響く。彼女の目の前で、主人が「象をも殺す毒」をゴクゴクと飲み干していく。
終わった。私の不手際で、世界の王が死ぬ――。
だが。数秒後。
ヴィンセントは口を離し、満足げに息を吐いた。
「……ぷはぁ。クリアになったな」
彼は顔色一つ変えず、むしろ血色が良くなった顔で言った。
「うん、雑味が抜けて、本来の果実味が戻った。ただ、かなり不純物が溜まっていたな。フィルターの吸引抵抗が上がった気がする」
「え……?」
セシリアは呆然とした。生きている。痙攣もしていないし、泡も吹いていない。それどころか、清々しい表情をしている。
(バジリスクの毒を……飲み干した? しかも、不純物(毒)を吸い取って、自分の力に変えたというの……?)
セシリアの脳内で、常識が崩壊する音がした。
「ま、まさか……マスターは、毒を『栄養』に変える体質をお持ちなのですか!?」
「ん? 何の話だ。ただの物理濾過だぞ」
ヴィンセントはストローを分解し、中のフィルター――毒を吸着して真っ黒に変色している――を取り出した。
「うわ、汚っ。やっぱり設計値以上のゴミが入ってたか。……セシリア、替えのフィルターを持ってきてくれ」
彼は汚れたフィルターを紙に包んで捨てた。
その黒い塊こそが、凝縮されたバジリスクの毒素の成れの果てである。
だが、セシリアにはそれが「主人の体内で浄化され、排泄された穢れ」に見えた。
「は、はいッ! 直ちに、予備を!」
セシリアは震える手で新しいフィルターを渡しながら、心の中で深く膝をついた。
(このお方は……人間ではないわ。毒すらも糧とし、世界の不浄を体内で浄化する『聖域』そのもの。……そんなお方に不純物を飲ませようとした愚か者に、相応の『処理』を施さねば)
彼女の忠誠心が、また一つ危険なレベルへとアップデートされた。
***
その頃。寮の天井裏に潜んでいた「犯人」もまた、戦慄していた。
彼は、かつてガットン男爵に仕えていた毒薬調合師の生き残りだ。
一族を(セシリアによって)パンツ一枚で吊るされた恨みを晴らすべく、秘蔵の毒ワインを送り込み、その死に様を見届けようとしていたのだ。
「ば、馬鹿な……!」
彼は屋根裏の隙間から、ヴィンセントが毒ワインを平然と飲み干す光景を目撃していた。
「あれは『バジリスクの涙』だぞ!? なのに、なぜ死なない!? 『雑味が抜けて美味い』だと!? 俺の最高傑作の毒を、ただの調味料扱いしたのか……っ!」
毒薬師のプライドが、粉々に砕け散った。次元が違ったのだ。
「ふ、不死の王……! 奴は死という概念をデリートした魔神だ!」
男は恐怖のあまり、足を踏み外した。
ガタッ! 大きな音が屋根裏に響く。
「……ん?」
部屋の下から、ヴィンセントが見上げた。目が合った(ような気がした)。
「(……ネズミか? 天井裏に害獣がいるな。最近、学園の衛生環境が悪すぎる)」
ヴィンセントは眉をひそめ、近くの充電ドックで待機していた円盤状の機械――『殺戮ルンバ Mk-III』を指差した。
「Mk-III。天井裏、スキャンして不純物(害獣)を駆除しろ。……Mk-Iの失敗(壁激突)とMk-IIの失敗(騒音過大)を繰り返すなよ。静かにやれ」
それは、「ネズミを追い払え」という軽いメンテナンス命令だった。
だが、ルンバのAIと、それを聞いたセシリアの解釈は違った。
『了解。高所作業モード、および隠密排除プロトコル起動』
「マスターの御意のままに。……害虫は、塵一つ残さず抹消します」
シュゴオオオオオオオ!!
ルンバMk-IIIが強烈な吸引力で壁を垂直走行し、天井へと這い上がっていく。
その動きを見たセシリアもまた、スカートから無数のナイフを取り出し、殺意に満ちた笑顔で天井の点検口を開けた。
「ひ、ひぃぃぃぃ!! 助けてくれぇぇぇ!!」
天井裏から、男の断末魔が聞こえた。
その後、ドタバタという暴れる音、ルンバのハイパワー吸引音、そして「お仕置き(物理攻撃)」の鈍い音が数分間続き……やがて完全な静寂が訪れた。
「……ふぅ。静かになったな」
ヴィンセントは満足げにワインの残りを飲み干した。やはり静寂こそが最高のスパイスだ。
数分後。セシリアが戻ってきた。
その手には、大きなゴミ袋(中身はパンツ一枚で縛り上げられ、全身をルンバに吸われて真っ赤になった毒薬師)が握られている。
「マスター。……『大型の粗大ゴミ』を回収しました。所定の場所(広場の木)に、分別の看板と共に捨てておきます」
「ああ、頼む。しっかり資源化(見せしめ)してやれよ」
ヴィンセントは書類から目を離さずに答えた。彼は本当に「壊れた椅子か何か」だと思っている。
翌朝。
学園の中庭にある大木に、パンツ一枚で「私は毒を盛りましたが、ヴィンセント様にはエッセンスにしかなりませんでした。ごめんなさい」という看板を下げた男が吊るされているのが発見された。
その事件は、瞬く間に伝説となった。
『ヴィンセント様は毒すらも美味しく頂く』
『彼に毒殺は通用しない。むしろ魂の糧になる』
『不死身の魔王』
その噂は、ついに国の中枢――教皇ソフィアの元へと届くことになる。
***
聖都、大聖堂の最深部。
薄暗い祈りの間で、一人の少女が報告書を読んでいた。
透き通るような金髪に、神秘的なオッドアイ。教皇ソフィアである。
「……あら、面白い」
彼女は鈴を転がすような声で笑った。
『ドラゴンを一喝』『古代遺物を解読』『猛毒を無効化』。
「死すら超越した存在……。ふふ、見つけましたわ。私の『最高の実験体』。……会いに行きましょう。そして、その『不死の理』を解剖してあげましょう」
ソフィアが立ち上がる。
物語は、ヴィンセントの平穏を粉砕する第2章へと、加速し始めていた。
次回、第10話。
「教皇来訪の予兆」。
ついに現れる「狂気の聖女」。ヴィンセントのQOLをかけた戦いが始まる!




