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第3話:剣聖レジーナと「可変式扇風機」

 入学式の騒動――後に「マイク切断事件」あるいは「静寂の粛清」と呼ばれることになる伝説の一幕を終え、ヴィンセントは疲労困憊で講堂を後にした。


 時刻は正午過ぎ。

 春の日差しは穏やかだが、ヴィンセントにとっては地獄の業火に等しかった。


(……暑い)


 彼の体感温度は、レッドゾーンに突入していた。

 原因は明白だ。彼が身に纏っている、この漆黒のロングコートである。

 耐刃・耐熱加工を施した魔獣の革で作られたこの特注作業着は、エンジニアとしての「現場の安全性」を保証する最強の防具(PPE)だ。

 だが、通気性は絶望的に悪い。


(排熱設計をミスったな。ベンチレーション(通気口)を脇の下に追加すべきだった。深部体温が上昇している。このままだと熱中症で思考プロセスが停止する)


 額に滲む汗を、彼は不機嫌そうに拭った。

 周囲の生徒たちは、遠巻きに彼を見つめながら、「ヴィンセント様が殺気を練り上げている……」「あの汗は、体内の魔力を循環させている蒸気だわ」などと囁いているが、そんなことはどうでもいい。


 彼が求めているのは、「クールダウン」のみ。

 早く寮の部屋に帰り、窓を全開にして、試作中の冷風機の前で惰眠を貪りたい。

 その一心で、彼は中庭を早足で横切ろうとした。


 だが。

 物語シナリオは、彼を帰宅させてはくれない。


「待て」


 凛とした、しかし絶対的な意志を孕んだ声が、彼の背中を打った。

 ヴィンセントが足を止め、億劫そうに振り返る。


 そこには、一輪の紅い薔薇のような少女が立っていた。

 燃えるような赤髪を高い位置でポニーテールに結い上げ、風にたなびかせている。

 制服のスカートの下には、引き締まった健康的な太腿。そして腰には、装飾過多な儀礼剣ではなく、実戦仕様のロングソードが佩かれている。


 レジーナ・フォン・アーベル。

 この国の軍事を統括するアーベル侯爵家の令嬢にして、歴代最年少で「剣聖」の称号を受け継いだ天才剣士である。


(……誰だっけ? まあいい、邪魔だ)


 ヴィンセントの認識はその程度だった。

 彼にとって重要なのは、彼女の美貌でも家柄でもなく、彼女が「帰宅ルート(クリティカル・パス)」を物理的に塞いでいるという事実だけだ。


「何の用だ。俺は忙しい(暑いから早く帰りたい)」


 ヴィンセントは低い声で告げた。

 だが、レジーナはその不機嫌さを、「強者の余裕」と受け取ったらしい。

 彼女は頬を紅潮させ、熱っぽい瞳でヴィンセントを見据えた。


「ヴィンセント・ヴォン・ヴァルディア。先ほどの講堂での立ち振る舞い……見事だった。音の精霊すらも一撃で黙らせるその胆力、そして躊躇なき決断力。……私の魂が、震えたぞ」


「はぁ(またマイクの話か。しつこいな)」


「ゆえに! 私は貴様を認め、そして挑みたい! 私の剣が貴様に届くのか、それとも貴様が私を犯……いや、降すのか!」


 レジーナは腰の剣を抜き放ち、切っ先をヴィンセントに向けた。

 シャラッ……という涼やかな金属音が響く。

 周囲の生徒たちから、「きゃあああ!」という黄色い悲鳴が上がった。


「剣聖レジーナ様よ! 本気だわ!」

「入学初日に決闘!? なんて野蛮で、なんて情熱的な求愛なの!」

「ヴィンセント様、逃げて! 剣聖に斬りかかられたら、男なんてひとたまりもないわ!」


 この世界において、女性から男性への決闘申し込みは、ある種の「求愛行動」でもある。

 「お前を力ずくで私のものにする」という、捕食者としての究極のアプローチだ。

 だが、ヴィンセントにそんな文化的コンテキスト(文脈)を理解する回路はない。


(……面倒くさい)


 彼の感想は、その一言に尽きた。

 気温28度、湿度60%。不快指数が上昇し続ける中で、なぜ金属の棒を振り回す運動に付き合わねばならないのか。エネルギーの無駄遣いだ。


「断る。時間の無駄だ」


 ヴィンセントは踵を返そうとした。

 だが、レジーナは逃がさない。


「逃げるか! その背中を見せるという行為……『貴様など背後からでも殺せる』という挑発と受け取ったぞ!」


「(ちげーよ!)」


 レジーナが地面を蹴った。

 速い。

 常人なら目で追うことすら不可能な踏み込み(ステップ・イン)。

 瞬きする間にヴィンセントとの間合いを詰め、その剣が閃く。


 もちろん、寸止めするつもりだ。

 彼女はヴィンセントを殺したいわけではない。彼の「強さ」を暴き、自分を組み敷いてくれる雄かどうかを確認したいだけなのだ。


 だが、ヴィンセントにそんな手加減は見えていない。

 ただ、「暑苦しい物体が高速で接近してきた」という事実だけが認識された。


(暑い……! 風が欲しい!)


 ヴィンセントの本能(エンジニアとしての解決策)が発動した。

 彼は懐に手を突っ込み、内ポケットに忍ばせていた「試作品」を鷲掴みにした。


 それは、円筒形の金属パーツに、彼が独自に開発した超小型高出力モーターを内蔵した魔道具。

 名付けて――『携帯用可変式扇風機ハンディ・ファン Mk-II』。


 前世のダイソン技術を参考に、羽根のない「エアマルチプライアー方式」を採用。

 周囲の空気を巻き込み、15倍の風量に増幅して射出する、掌サイズの暴風発生装置である。


最大出力フルパワーで冷却する!)


 ヴィンセントは、迫りくるレジーナに向けて――正確には、彼女が巻き起こす熱風を相殺するために――その筒を突き出し、スイッチを押し込んだ。


 カチッ。


 キュイィィィィィィィィン――!!


 空気を切り裂くような高周波音が鳴り響いた。

 次の瞬間、直径わずか3センチの噴出口から、圧縮された空気が爆発的に噴射された。

 風速50メートル毎秒。

 それはもはや涼風ではない。

 見えない空気の砲弾エア・キャノンだった。


「――なッ!?」


 レジーナの視界が、歪んだ。

 彼女が踏み込み、剣を振り下ろそうとしたその刹那。

 ヴィンセントの手元から放たれた「何か」が、彼女の顔面を直撃したのだ。


 物理的な衝撃はない。

 だが、凄まじい風圧が彼女の瞼を強制的に閉じさせ、呼吸を一瞬停止させた。

 さらに、空気の壁に剣が弾かれ、重心が後ろへと持っていかれる。


(見えない……剣!? いや、衝撃波!?)


 レジーナの達人級の動体視力をもってしても、その攻撃は見えなかった。

 当然だ。空気なのだから。

 だが、彼女の脳内では、それが「神域の技」として超解釈される。


(構えもせず、詠唱もなく、ただ掌を向けただけで……この私が吹き飛ばされるだと!? まさか、これが伝説の『無形剣インビジブル・ブレイド』!?)


「きゃぁぁっ!?」


 レジーナは無様に足を滑らせ、背中から地面に倒れ込んだ。

 ドサッ、という音が中庭に響く。

 彼女のスカートがふわりと捲れ上がり、健康的な太腿と、白のレースの下着が露わになる。


「おおっ……!」

「剣聖様が、転んだ……?」

「いや、違う! 見ろ、ヴィンセント様は指一本触れていないぞ!」

「気迫だ! 覇王色の気迫だけで、剣聖を吹き飛ばしたんだ!」


 ギャラリーが爆発したように騒ぎ出した。

 ヴィンセントは、手の中のハンディ・ファンを振りながら眉をひそめた。


「(ちっ、風量が強すぎたか。ベルヌーイの定理を甘く見ていた。これじゃ顔に風が当たりすぎて目が乾く)」


 彼はスイッチを切り、ファンの排熱を確認する。

 その仕草が、周囲には「放った衝撃波の余韻を確認し、武器(手刀)を納める動作」に見えた。


 ヴィンセントは、尻餅をついて呆然としているレジーナを見下ろした。

 彼女の顔は真っ赤だ。

 下着が見えていることへの恥じらいか、それとも敗北の屈辱か。

 ヴィンセントは、少しだけ良心が痛んだ。

 暑いからといって、いきなり強風を浴びせたのは大人げなかったかもしれない。


「……悪いな。設定セッティングを間違えた」


 彼はボソッと言った。

 「風量の設定を強にしすぎた」という意味だ。

 だが、レジーナの耳には、その言葉はこう変換されて届いた。


『手加減の度合いを間違えたな。殺すつもりはなかったが、少し吹き飛ばしすぎてしまった』


 レジーナは震えた。

 恐怖ではない。歓喜に、である。


(なんて……なんて優しいの……!)


 彼女は悟った。

 ヴィンセントは、彼女の剣技を完全に見切っていた。

 その上で、彼女を傷つけないように、剣ではなく「空気(風圧)」で制したのだ。

 もし彼が本気で殺意を向けていれば、今の衝撃波で自分の首は飛んでいただろう。

 圧倒的な実力差。

 そして、敗者への慈悲深い配慮(パンツは見えてしまったが)。


「あ、ぅ……」


 レジーナは、生まれたばかりの小鹿のように震える足で立ち上がった。

 そして、剣を鞘に納めると、その場に片膝をついて跪いた。

 騎士が、主君に対して行う最上級のカテシー


「ま、参りました……!」


 彼女の声は、感動で潤んでいた。


「私の完敗です。剣速、威力、そして慈悲の心……全てにおいて、貴方様は私の遥か高みにいらっしゃる。……私の目は、間違っていなかった」


「は?(何の話だ?)」


 ヴィンセントが首を傾げる。

 レジーナは顔を上げ、濡れた瞳で彼を見つめた。

 その表情は、もはや「狩人」のそれではない。

 完全に「雌」の顔だった。


「ヴィンセント・ヴォン・ヴァルディア様。……いいえ、我がマスターよ」


 彼女は熱っぽく宣言した。


「このレジーナ・フォン・アーベルの剣、そしてこの身の全てを、貴方様に捧げます。煮るなり焼くなり、あるいは夜のおもちゃにするなり……好きになさってください♡」


「断る!!」


 ヴィンセントは即答した。

 食費がかかりそうな女だ。それに、今は一刻も早く部屋に帰って扇風機を改良したい。


「俺は忙しいんだ。帰るぞ」


 彼はコートの裾を翻し、逃げるようにその場を去った。

 だが、それが逆効果だった。

 冷たくあしらわれたことで、レジーナのハートに火がついたのだ。


「ああ……なんてクールなの。私の誘惑になびかないなんて、やはり彼こそが『真の王』……! 待ってください、ヴィンセント様! カバンをお持ちします! 靴をお舐めしましょうか!?」


「来るな! ついてくるな!」


 中庭を逃走する黒衣のエンジニアと、それを追いかける赤髪の剣聖。

 その奇妙な追いかけっこは、瞬く間に学園中の噂となった。


『剣聖レジーナ、瞬殺される』

『ヴィンセント様、見えない剣で女騎士の服だけを吹き飛ばす』

『悪役貴族のハーレム伝説、開幕』


 尾ひれがついた噂は、やがて社交界を駆け巡り、一人の危険な人物の耳に届くことになる。


 ***


 学園内にある、限られた特権階級のみが入室を許される高級サロン。

 豪奢なソファに深く腰掛け、不機嫌そうに紅茶を啜る少女がいた。

 完璧な黄金の縦ロールを揺らし、宝石を散りばめた扇子をパタパタと動かすのは、ヒルダ・フォン・ローゼンバーグ公爵令嬢である。


「……ほう? あの『豚貴族』が、レジーナを手玉に取ったと?」


 彼女は取り巻きの令嬢から報告を受け、傲慢な美貌を歪に歪めた。

 彼女の膝の上には、複雑な魔導回路が刻まれた黒革の首輪が置かれている。


「面白い。レジーナごときを落とした程度で、男の分際で図に乗るとはね。……きちんとした『しつけ』が必要かしら」


 パチン。

 彼女の指先で、首輪の金具が冷たく鳴った。

 それは、次なるトラブル――ヴィンセントの平穏を脅かす「理不尽」の到来を告げる音だった。


 次回、第4話。

 「公爵令嬢のプライドと『安全装置』」。

 ヴィンセントのドライバーが、傲慢な令嬢のプライドと衣服を物理的にショートさせる!


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