第2話:入学式の「玉座」と「拒絶」
王立魔導学院の大講堂は、異様な熱気と、むせ返るような香水の匂いに包まれていた。
天井まで吹き抜けになった巨大な石造りの空間には、新入生およそ三百名がひしめき合っている。
その光景は、この「貞操逆転世界」の縮図そのものだった。
生徒の九割は女性。
彼女たちは皆、獲物を品定めするような鋭い視線をぎらつかせ、派手なドレスやオーダーメイドの制服で自身を飾り立てている。
対する残り一割の男性生徒は、まるで肉食獣の檻に放り込まれたウサギのように、講堂の隅で身を寄せ合い、ガタガタと震えていた。
彼らにとって、ここは学び舎ではない。これから始まる「狩り(婚活)」の狩猟場なのだ。
「見て、あの方よ」
「噂の『豚貴族』……ヴィンセント・ヴォン・ヴァルディアね」
「まあ、なんてふてぶてしい。公爵家を勘当同然で追い出された分際で、よくもあんな漆黒の礼服を……」
ヴィンセントが大講堂に足を踏み入れた瞬間、さざ波のような嘲笑と囁きが広がった。
だが、ヴィンセントは足を止めない。
彼の顔は能面のように無表情で、色素の薄い瞳は深淵のような虚無を湛えていた。
背筋をピンと伸ばし、黒のロングコートを翻して歩く姿は、嘲笑など意にも介さぬ「孤高の王」のように見えた――周囲には。
(……酸素濃度が低い)
ヴィンセントの思考は、周囲の視線など一ミリも捉えていなかった。
彼の脳内CPUを占有していたのは、ただ一つ、この講堂の劣悪な環境設計への不満である。
(窓は全てクローズ。換気扇の稼働音なし。三百人の呼気による二酸化炭素濃度の上昇に加え、照明用の魔導ランプが酸素を消費している。……設計者は馬鹿なのか? これじゃ酸欠で思考パフォーマンスが30%低下する)
彼は内心で舌打ちをしながら、指定された最前列の席へと向かった。
本来なら、成績優秀者や高位貴族に与えられる名誉ある席だ。
だが、聴覚過敏気味のヴィンセントにとっては、「スピーカー(拡声魔道具)の真正面」という、拷問席以外の何物でもなかった。
ドカッ。
彼はクッション性の悪い木製の椅子に、体重を預けるように深く腰を下ろした。
そして、苛立ちを紛らわせるために、コートのポケットに手を突っ込む。
指先で弄ぶのは、愛用の精密ドライバーセットの中から選び抜いた、グリップの手触りが良いマイナスドライバーだ。
カチ、カチ、カチ。
ポケットの中で金属の冷たい感触を確かめ、規則的なリズムを刻む。これだけが、彼の精神安定剤だった。
だが、その姿は周囲にどう映ったか。
「ひっ……!」
隣に座っていた男子生徒――伯爵家の三男で、気弱そうな少年――が、青ざめて椅子ごと後ずさる。
彼の目には、ヴィンセントの姿がこう見えていたのだ。
――周囲の嘲笑を「羽虫の羽音」程度に無視し、玉座に座る王のような傲慢さで足を組み、懐で「暗器(凶器)」の感触を楽しんでいる姿、と。
「(殺る気だ……この男、入学式の最中に誰かを『始末』するつもりだ……!)」
「(あの指のリズム……次に殺す相手の心臓の鼓動をカウントしているのか!?)」
周囲の嘲笑が、徐々に、しかし確実に「恐怖」へと変質していく。
誰もヴィンセントに話しかけようとしない。彼の周囲だけ、真空のような「絶対不可侵領域」が形成されていた。
もちろんヴィンセントは気づかない。
ただ、「この椅子の背もたれ、角度が直角すぎて腰に悪い。人間工学に基づいた設計にしろ」と内心で毒づいていただけである。
やがて、壇上のカーテンが開き、学園長が現れた。
初老の女性魔導師で、この国の教育界を牛耳る権力者だ。紫のローブを纏い、尊大な態度で杖を掲げる。
彼女の前には、巨大な拡声の魔道具――要するにマイクスタンド――が設置されていた。
「新入生の諸君。我が校へようこそ。私は学園長のエリザベス・――」
キィィィィィィィィン!!!!
突如、鼓膜をつんざくような高周波ノイズが講堂を襲った。
ハウリングだ。
スピーカーから出力された音が、再びマイクに入力され、無限ループして増幅される音響事故。
しかも、最悪なことに、特定の高い周波数だけが増幅されている。
「きゃあああ! 何!? 耳が!」
「痛い、痛い!!」
「音波攻撃!? 敵襲!?」
会場はパニックに陥った。
か弱い男子生徒たちは耳を押さえてうずくまり、女子生徒たちも状況が理解できずに悲鳴を上げる。
学園長自身も、「な、何事じゃ!?」と狼狽し、あろうことかマイクを持ったままスピーカーに近づいてしまった。
ギャァァァァァァァァン!!!
距離が縮まったことで、ループゲインがさらに上昇。ノイズはもはや殺人音波と化し、講堂の窓ガラスがビリビリと振動する。
その地獄絵図の中で。
ただ一人、ヴィンセントだけが立ち上がっていた。
彼の顔には、隠しきれない「激怒」が張り付いていた。
敵襲に対してではない。「音響設計の杜撰さ」に対してである。
(ゲインが高すぎるんだよ、素人が! 指向性も考慮せず、無指向性のマイクをスピーカーに向ける馬鹿がいるか!)
ヴィンセントは聴覚過敏である。
この不快な特定周波数のノイズは、彼にとって黒板を爪で引っ掻く音の数百倍の苦痛であり、脳神経を直接ヤスリで削られるような拷問だった。
思考が乱される。計算ができない。静寂というリソースが侵害されている。
(許せない)
エンジニアとして、この物理法則を無視した「バグ」を放置することは、死んでもできない。
カツ、カツ、カツ。
ヴィンセントは壇上へと歩き出した。
その足取りは速く、迷いがない。殺意(騒音への怒り)に満ちた形相で、音源の中心地である学園長に肉薄する。
「う、嘘でしょ……?」
「おい、あいつ……学園長を襲う気か!?」
教師たちが止めようとするが、足が動かない。
ヴィンセントから発せられる気迫――「どけ、邪魔だ(作業の)」という職人のオーラ――が、生物としての格の違いを見せつけていたからだ。
ヴィンセントは壇上に上がると、怯える学園長の手から、乱暴にマイクを奪い取った。
「な、何を……無礼者!」
「うるさい」
ヴィンセントは短く吐き捨てると、懐からニッパーを取り出した。
第1話でトースターを修理した際に使った、愛用のニッパーだ。
彼はマイクの構造を一瞬で目視解析する。
根本にある魔力伝導線。ここが信号の入力ラインだ。
(ここを切れば、ループは物理的に断たれる)
躊躇はなかった。
パチンッ。
乾いた金属音が響き、伝導線が切断される。
その瞬間、鼓膜を破壊せんばかりのハウリングが、嘘のように止んだ。
静寂。
完全なる静寂が、講堂を支配した。
耳鳴りだけが残る中、数百人の視線が壇上のヴィンセントに集中する。
「……ふぅ」
ヴィンセントは安堵の息をついた。
ようやく静かになった。これで脳のCPU使用率が正常に戻る。
彼は切断されたマイクを、呆然とする学園長に突き返し、低い声で言った。
「フィードバック・ループだ。入力感度を下げろ。それと、スピーカーの配置を変えない限り、この場所で音を出すな。……耳障りだ」
それは、技術者としての真っ当なアドバイスだった。
「EQで特定の周波数帯域をカットしろ」と言いたかったが、この世界の技術レベルでは通じないと思い、物理的な解決策だけを伝えたのだ。
それだけ言い残し、彼は踵を返して壇上を降りた。
自分の席に戻り、再び深く腰掛ける。
会場中の視線が、彼に突き刺さっていた。
だが、それはもう嘲笑ではなかった。
畏怖。
そして、熱狂的な崇拝。
(あ、あの学園長の長話を、物理的に黙らせた……!?)
(「うるさい」の一言で、この場の最高権力者をねじ伏せたの!?)
(音の精霊すらも、彼の一撃で沈黙したわ……!)
生徒たちは震えていた。
この国において、女性上位は絶対のルール。ましてや学園長は、王宮にも顔が利く大魔導師だ。
その彼女に対し、一切の躊躇なく歩み寄り、武器を取り上げ、沈黙させた。
その姿は、この世界の常識を覆す「反逆の王」そのものだった。
そして。
その光景を見ていた新入生の中に、一際熱い視線を送る少女がいた。
燃えるような赤髪をポニーテールに結び、腰には長剣を佩いた美少女。
王国最強と謳われる「剣聖」の家系、レジーナ・フォン・アーベルである。
彼女は、退屈していた。
剣聖の娘として生まれ、幼い頃からあらゆる男を剣でねじ伏せてきた。
寄ってくる男は皆、彼女の強さに怯えるか、あるいは家柄目当てで媚びへつらう弱者ばかり。
「私より強い男など、この世にいないのか」と絶望していた。
だが、今。
目の前に、圧倒的な「強者」が現れた。
「……見つけた」
レジーナは、胸の高鳴りを抑えるように、服の上から心臓を強く押さえた。
早鐘のように打つ鼓動。乾いた喉。
それは、武者震いではない。初めて感じる、「雌」としての本能の疼きだった。
「媚びず、驕らず、ただ己の理のみで世界を断ち切る……。あの方こそ、私が探していた王……!」
彼女の目には、ヴィンセントの背中が後光が差して見えていた。
ニッパーで線を切っただけの動作が、「次元を断裂させる神速の剣技」に変換されて脳内再生されている。
「あの方になら……斬られてもいい」
ヴィンセントが席で「(あー、目立っちゃったかな。まあいいか、静かになったし。帰って寝たい)」と呑気に欠伸を噛み殺している間、彼の知らぬところで、一人の最強ヒロインが「陥落」していた。
入学式は、ヴィンセントの独壇場として幕を開けた。
だが、これはまだ序章に過ぎない。
彼が求める「平穏な学園生活」は、彼自身の技術力と、これから始まるヒロインたちの暴走によって、粉々に破壊されようとしていた。
次回、剣聖レジーナ襲来。
「貴様の強さ、確かめさせてもらう!」
対するヴィンセントの武器は――扇風機!?




