第1話:魔王の顔面凶器(Face of a Thug)
鏡の中に、殺人鬼がいた。
いや、正確には「殺人鬼のような顔をした自分」だ。 色素の薄い三白眼は、獲物の頸動脈を狙う肉食獣のように鋭く細められ、眉間には深いシワが刻まれている。黒の長髪を無造作に掻き上げる仕草は、返り血を拭う動作にしか見えない。 そこから発せられる威圧感は、鏡越しでも背筋が凍るほどだった。
(……目が、痛い)
ヴィンセント・ヴォン・ヴァルディア(18歳)は、内心で血の涙を流していた。 前世からの職業病である深刻なドライアイに加え、この世界の照明事情の悪さが、彼の眼球に多大なるダメージを与えていたのだ。 薄暗い部屋、揺らぐ蝋燭の光。フリッカー(ちらつき)の酷い光源は、エンジニアにとって最大の敵である。
「……ぐ、ぅ……」
ヴィンセントは震える手で、懐から小瓶を取り出した。 前世の化学知識を総動員し、薬草から精製した特製高粘度目薬(クールタイプ・清涼感レベルMAX)である。 天井を仰ぎ、大きく目を見開く。充血した瞳孔に、冷たい液体が投下される。
――ジュッ。
脳内でそんな音がした気がした。 激痛と爽快感が同時に視神経を焼き尽くす。 ヴィンセントの口元が引きつり、口角が奇妙な形に吊り上がった。喉の奥から「くくく……」という、うめき声が漏れる。
「……落ちたな(充血が)」
端的に言えば、それは「眼精疲労に耐えている顔」だった。 だが、運悪く部屋の掃除に入ってきた新人の専属メイドの視点では、世界は全く違って見えていた。
「(ひっ……!!)」
メイドの少女は、洗濯籠を取り落としそうになりながら、廊下の陰でガタガタと震えていた。 彼女の目には、ヴィンセントの姿がこう映っていたのだ。
――鏡の中の自分自身にすら殺意を向け、己の闘争本能を高めている狂気の姿。 ――あふれる涙は、あえて自分に猛毒(目薬)を与えることで精神を研ぎ澄ます「儀式」の代償。 ――そして、あの口元の笑み。あれは間違いなく、これから始まる「粛清」を楽しんでいる魔王の笑みだ……!
「お、お戯れを……ご自身の眼球すらも『甘い』と罰しておられるのですか……ッ!」
メイドは音もなくその場を逃げ出した。 『落ちた』。その言葉の意味を、「領地が落ちた」、あるいは「誰かの首が落ちた」と解釈したからだ。
もちろんヴィンセントは気づかない。 自分がただ目薬をさしただけで、屋敷中に「本日、当主様による大粛清が行われる」という緊急警報が発令されたことに。
「さて……着替えるか」
ヴィンセントは目元の涙を指で拭い、クローゼットを開けた。 そこには、悪夢のような光景が広がっていた。
フリル。レース。シースルー。 パステルカラーのリボンに、太腿が露わになるショートパンツ。 それが、この世界における「高貴な男性」の正装だった。
(ふざけるな。防御力ゼロかよ)
ここは「貞操逆転世界」だ。 数百年前に起きた遺伝子変異により、男女の力関係は完全に逆転している。 女性は強く逞しく、魔力も体力も高い「捕食者」。 男性は弱く儚く、種の保存のために保護される「愛玩動物」。
ゆえに、男性の服装は「いかに女性の庇護欲を煽るか」「いかに誘惑するか」に特化している。鎖骨を見せ、脚を見せ、媚びるように上目遣いをするのが、この世界の「男らしさ」なのだ。
だが、ヴィンセントの中身は、現代日本でデスマーチを生き抜いたシステムエンジニアである。 機能美のないデザインなど、バグと変わらない。
「こんな布切れで現場に出られるか。労働安全衛生法違反だ」
彼は迷わず、クローゼットの奥に押しやられていた「作業着」を掴んだ。 それは、彼が特別に職人に作らせたオーダーメイド品。 全身を覆う黒のロングコート。素材は耐熱・耐刃加工された魔獣の革。 インナーは肌の露出を一切許さないハイネックシャツ。 そして腰には、剣の代わりに重厚な革ベルトを巻き、そこに愛すべき相棒たち――ドライバー、ニッパー、レンチ、テスター――をジャラジャラと吊り下げた。
鏡の前に立つ。 黒一色の姿は、まるで闇夜に紛れる暗殺者か、葬儀を取り仕切る死神のようだった。
「よし。これなら落ち着く(精神的に)」
彼は満足げに頷いた。 これなら、いつサーバーが火を噴いても対応できる。 しかし彼はまだ知らない。 この格好が、この世界では「『私の身体を守れるのは私のみ』という騎士不要の絶対的自信」、あるいは「誘惑を拒絶する孤高の王」という、とんでもないメッセージを発信していることを。
「まずは腹ごしらえだ。……またパンか」
食堂に行くと、冷え切った食パンが置かれていた。 この屋敷の使用人たちは、悪名高い「豚貴族(転生前のヴィンセント)」を軽蔑しており、まともな食事を出さない。 だが、ヴィンセントが許せないのは「冷遇」ではない。「品質」だ。
「焼き加減にムラがある。メイラード反応が均一じゃない。これを作ったシェフは、熱伝導率の計算もできないのか?」
彼はパンと、厨房の隅に放置されていた「魔導トースター(古代遺物)」を掴み、庭へと出た。 屋内で実験してボヤ騒ぎを起こすのは、リスク管理上好ましくないからだ。
庭のベンチにトースターを置く。 筐体を開けると、内部は酷い有様だった。
「回路が腐食してる。これじゃ抵抗値が安定しない。サーモスタットも死んでるな。安全装置が機能していない」
ヴィンセントの目が、エンジニアのそれに変わる。 腰のベルトからドライバーを抜き、流れるような手つきで分解を始めた。 錆びついたネジを回し、魔力回路をバイパス手術する。
「ニクロム線は……パラジウム合金で代用するか。熱効率を上げよう。温度管理はバイメタル式じゃ遅い。俺の魔力で直接PID制御する」
カチャカチャ、キュイーン。 静かな庭に、無機質な金属音が響く。 それを、屋敷の窓から数人のメイドたちが覗いていた。
「な、何をしているの……?」 「古代の魔道具を、あんな乱暴に……壊しているのでは?」 「いいえ、見て。あの指先……」
ヴィンセントの指は、まるでピアノを弾くように高速で動いていた。 複雑怪奇な魔力回路を、目視すらせずに指先の感覚だけで繋ぎ変えていく。 時折、「チッ、仕様がクソだ」と吐き捨てる声が、風に乗って聞こえてくる。
「完成だ。テストラン(試運転)、開始」
ヴィンセントはパンを投入し、魔力を流し込んだ。 ブォン……!! トースターが低く唸り、内部のコイルが赤熱する。 いや、赤ではない。青白いプラズマのような光だ。
「出力5%……10%……よし、安定している。いけるか?」
カチン。 小気味よい音と共に、パンが飛び出す――はずだった。
ドォォォォォォォォン!!
トースターの投入口から、パンと共に紅蓮の炎が噴出した。 それはトースターというより、ドラゴンのブレスだった。 直線状に放たれた熱線は、パンを一瞬で炭化させ、その延長線上にあった樹齢300年の庭木を直撃した。
バシュッ! 巨木が、音もなく消滅した。 幹の中央が円形にえぐれ、炭化している。残り火がチリチリと燃えていた。
「……あーあ」
ヴィンセントは炭になったパンを箸でつまみ上げた。 ススがハラハラと落ちる。
「オーバーシュートしたか。ゲイン調整が甘かったな。熱量がカロリー計算の300倍出てる。これじゃ朝食じゃなくて兵器だ」
彼はため息をつき、ドライバーで出力を微調整し始めた。 失敗は成功の母だ。次は上手く焼けるだろう。
だが、窓から見ていたメイドたちは、腰を抜かしてへたり込んでいた。
「ひ、ひぃぃ……!!」 「見た!? 古代のガラクタを一瞬で『戦略級攻城兵器』に作り変えたわ!」 「あの大木を、音もなく消滅させるなんて……!」 「しかも、『あーあ(失敗)』ですって!? あの威力で不満だと言うの!?」
彼女たちの脳裏に、先ほどのヴィンセントの「粛清の笑み」がフラッシュバックする。 ――落ちたな。 あの言葉は、やはり予告だったのだ。 逆らう者は、あの木のように骨も残さず消し去るという、魔王の意思表示。
「ご、ご当主様……いえ、ヴィンセント様……!」 「あの方は『無能』なんかじゃない。力を隠していただけ……!」 「私たち、とんでもない怪物を飼っていたのね……」
恐怖と、畏怖。 そして生物としての本能的な「服従心」が、彼女たちの股間を熱く濡らした。 この世界において、強さこそが正義であり、強き雄は絶対的な支配者なのだ。
「ふぅ。次は上手く焼けた」
ヴィンセントは、二枚目のパン(今度は黄金色の完璧な焼き加減)を齧りながら、満足げに工具をしまった。 QOL(生活の質)の向上。 それが彼の目的の全てであり、庭の木が消し飛んだことなど「些細なバグ」として処理されていた。
***
数時間後。 ヴィンセントは王立魔導学院へ向かう馬車の中にいた。 今日から新学期。 だが、彼の心は鉛のように重かった。
(行きたくねぇ……)
学園には、彼を「豚貴族」と蔑む高慢な女貴族たちや、元婚約者のヒステリックな令嬢がいる。 それに何より、あの学園の設備は最悪だ。 空調は効かない、Wi-Fi(魔力通信網)は遅い、トイレのウォシュレットもついていない。 エンジニアにとって、あの環境は刑務所に等しい。
「はぁ……憂鬱だ」
ヴィンセントは窓の外を見つめ、深く、重い溜息をついた。 その顔は、この世の全てを呪うかのように暗く沈んでいた。
沿道の人々は、漆黒の馬車の窓から覗く、その「魔王の横顔」を見て戦慄した。
「おい、見ろ……あの目」 「なんて冷徹な……これから学園を『狩り場』に変えに行く捕食者の目だ」 「王都が……血に染まるぞ」
ヴィンセント・ヴォン・ヴァルディア。 最強のエンジニアにして、最凶の誤解を背負う男。 彼の覇道が、今、幕を開ける。




