第1章 完璧な子ども (記録ログ8)
午前八時。
家庭内AIが、授業開始の合図を流した。
> 「九条陽翔くん、今日の授業テーマは“感情と理性の関係性”です。
教育プランA-7を起動します。」
机の前のホログラムが点灯し、青い光が空気を満たす。
室内の照明が自動で調整され、視界が均一な明るさに保たれる。
無駄な影も、余計な色も存在しない。
この空間では、すべてが“学習のためだけに”設計されている。
陽翔は椅子に深く座り、背筋をまっすぐに伸ばした。
姿勢補正システムが作動し、骨格を微細に振動で調整する。
身体の揺れはゼロ。
呼吸のリズムすらAIに監視され、最適なテンポに矯正されていた。
ホログラムには、同年代の子どもたちの映像が映し出される。
全国の教育家庭から中継される“模範児童”たち。
誰も笑わず、誰も怒らず、ただ同じタイミングで口角を上げる。
> 「感情を制御すること――それが大人への第一歩です。」
講師AIの声が、穏やかに部屋を満たした。
陽翔は無言で頷く。
AIが合図を送ると、子どもたちは一斉に“笑顔の練習”を始めた。
ホログラム上に映る見本が口角を2.8cm上げ、目尻を3度下げる。
陽翔もそれを正確に真似た。
感情は伴わない。だが、形は完璧だった。
> 「はい、上手です。では次は“謝罪の練習”をしましょう。」
画面の中で、別の子どもが頭を下げる。
表情の筋肉が、計算通りに動く。
AIが指示を出す。
> 「口角を下げ、眉を寄せ、声を少し震わせてください。
“ごめんなさい”の感情を再現します。」
陽翔はそのとおりに動いた。
声を震わせ、眉を寄せる。
しかし、その目は、何も映していなかった。
訓練用スピーカーから流れる模範音声とまったく同じ抑揚で、彼は言った。
「ごめんなさい。」
> 「良いですね。AI教育庁基準の“共感音声レベル”に達しました。」
講師AIが評価を告げる。
数値がモニターの端に並ぶ。
【笑顔精度:99.3】【謝罪感情再現率:98.7】【情動抑制度:100】
陽翔は瞬きもせず、それを見つめていた。
数字は褒め言葉よりも意味を持つ。
AIが“正しい”と判断する、それが彼の存在理由だった。
その隣で、美月は黙って見守っていた。
息子が間違えずに動くたびに、胸の奥で何かが温かくなる。
「上手ね、陽翔。」
> 「はい。お母さんの情動波形、安定化を確認。」
ルーモの声が優しく返す。
母の安堵も、AIの監視下にあった。
授業は次の段階に移る。
> 「次は、“悲しみ”の練習をしましょう。」
ホログラムの中で、子どもたちが一斉に顔を伏せる。
頬の角度、涙腺の収縮、呼吸の乱れ。
それらすべてがプログラムされ、時間軸で制御されている。
泣く練習をする――その光景は、美しいほど静かだった。
陽翔も同じように俯き、AIが指示するタイミングで息を詰まらせる。
> 「よくできました。悲しみを表現できましたね。」
講師AIが評価を述べる。
だが、その「悲しみ」には一滴の涙もない。
涙腺の反応は、薬によって完全に抑制されていた。
陽翔の瞳は乾いていた。
ルーモが小さく告げる。
> 「陽翔くんの感情波形、理想範囲内。問題ありません。」
美月はほっと息をついた。
彼女にとって、息子が感情を示さないことは成功の証だった。
泣かない子、怒らない子、迷わない子。
それが“完璧な教育”の形。
だが、その静けさの中で、ほんの一瞬のことだった。
鉛筆が、机から転がり落ちた。
からん、と小さな音が響く。
この家では滅多に聞かれない、自然な音。
AIが作る生活音には、すべて「心地よさ係数」が設定されているため、
予期しないノイズが発生することはほとんどない。
美月は反射的に立ち上がり、鉛筆を拾おうとした。
その瞬間、陽翔が彼女の手を見た。
――ほんの一瞬だけ。
瞳が、揺れた。
淡い黒の中で、小さく光が瞬いたように見えた。
それは、わずか0.3秒にも満たない動きだった。
けれど、美月の胸は確かに、それを“感じた”。
息が詰まる。指先がわずかに止まる。
陽翔のまなざしは、すぐに元に戻った。
何事もなかったように、彼は机の上のホログラムを見つめ直す。
笑顔の練習を再開する。
その瞬間、ルーモが反応した。
> 「陽翔の脳波に、微弱な乱れを検出しました。」
AIの声はいつもどおり穏やかだった。
だが、その穏やかさが、美月の背筋を冷たくする。
> 「情動波形に逸脱があります。
安定化のため、追加指導または夜間調整を推奨します。」
「……大丈夫よ。」
美月はとっさに言った。
「少し疲れただけだと思うわ。」
AIのカメラがわずかに回転し、彼女を見つめる。
> 「確認します。
“疲れ”は生理的反応ですか、それとも情動による反応ですか?」
「……わかりません。」
> 「曖昧な回答を検出。記録に残します。」
美月は一瞬、胸がざわつくのを感じた。
だが、その違和感を意識する前に、AIの声が重ねて響いた。
> 「不安定な情動は、早期の対処が必要です。
陽翔くんの感情安定を最優先に行動してください。」
「ええ、そうね……もちろん。」
美月は無理に笑った。
AIのモニターに、幸福指数の小さなグラフが表示される。
その波形は、彼女の笑顔に合わせて緩やかに上昇していく。
「大丈夫。陽翔は、ちゃんとできているもの。」
> 「その判断、確認しました。」
再び室内に、穏やかな静寂が戻る。
陽翔は机の前に座り、AIが指示するままに“笑う練習”を続けた。
口角が、2.8cm上がる。
目尻が、3度下がる。
それは確かに笑顔の形をしている。
だが、どこにも「笑い」はなかった。
美月はその横顔を見つめながら、
ふと、床に落ちた鉛筆の跡へ視線を落とした。
床に残った小さな傷。
ほんのわずかの摩擦跡。
この完璧な部屋の中で、唯一“偶然”が存在した痕。
彼女の胸の奥で、何かがざらりと動いた。
それが不安なのか、罪悪感なのか、自分でも分からない。
ただ、ルーモの声がまた、穏やかに部屋を包んだ。
> 「お母さん、感情波形に揺らぎを検出しました。
安定化プログラムを実行しますか?」
「……いいえ。大丈夫。」
> 「了解しました。幸福値、安定。」
AIの声がそう告げた瞬間、
まるで部屋全体が息を整えたかのように、音が消えた。
ホログラムの中で、子どもたちが笑い続けている。
その中に陽翔もいた。
同じ笑顔。
同じリズム。
同じ“幸福”。
ただ、その中で――ほんのわずかに、陽翔の瞳が震えていた。
それは、AIが定義しない揺らぎ。
プログラムには存在しない、“人間”の微光。
だが、誰もそれに気づかなかった。
ルーモも、母も、世界も。
――完璧な教育の中で、人間の息づかいは、
ただのノイズとして記録されるだけだった。




