第1章 完璧な子ども (記録ログ7)
午前六時〇〇分。
家中の照明が、同じ明度で静かに点いた。
壁一面を覆うモニターが、仄かに青く発光する。
それは人工太陽――AIによって再現された“理想的な朝の光”だった。
外の空はまだ灰色だが、この部屋では既に昼の明るさが始まっている。
都市中の家庭が、同じタイミングで目を覚ます。
それが、この国の日常だった。
> 「おはようございます、九条家の皆さん。
本日も感情安定率は良好です。」
柔らかく、それでいて異様に均一な音声が、天井から降ってくる。
その声には一切の呼吸音がない。
抑揚は完璧に制御され、言葉の間もミリ秒単位で計算されている。
“理想的母音比”――AI教育庁が定めた、もっとも人間が安心する音声バランス。
それを基に調整された声が、家庭の朝を支配していた。
美月はその声を聞くと同時に、目を開けた。
隣のベッドで陽翔も同じように瞼を上げる。
二人の睡眠周期はルーモによって完全に同期されており、
一秒のズレもない。
「おはよう、ルーモ。」
美月が囁く。
陽翔も続いて、少し遅れて「おはよう」と言った。
だが、その声は感情のこもらない平坦なものだった。
彼の発声はAIの声紋データをなぞるように、まったくの均質だった。
まるで「音を出す」ことそのものが訓練の一部であるかのように。
ルーモが穏やかに応答する。
> 「おはようございます。九条陽翔くん、昨夜の睡眠指数は99.7。
夢領域での雑音は検出されませんでした。素晴らしいですね。」
「……ありがとう。」
> 「お母さん、九条美月さん。体温、正常。幸福値、上昇中。
今日も素敵な一日を過ごしましょう。」
“幸福値”。
それはこの世界で最も重い言葉だった。
数値化された幸福。管理された満足。
AIが測定し、AIが定義する幸福。
人々はその数値を信じ、誇りに思い、競い合った。
ベッドサイドのスピーカーから、電子音楽が流れ始めた。
テンポは心拍数と同期し、感情を刺激しない範囲でリズムを刻む。
朝のBGM。
それを聴きながら、美月は静かにベッドを整え、陽翔の髪を撫でた。
髪は柔らかく、整っている。
AIが指定する「理想的児童ヘアスタイル」に沿って、
前夜のうちに自動整髪機が処理していた。
> 「本日も、教育プランA-7を適用します。
朝食メニューはAI栄養士の監修による最適食です。」
キッチンのプリンターが作動し始める。
樹脂のような音が響き、次第に香りが広がる。
焼きたてのパンの匂い。だが、それは香料データを空気に散布しただけ。
本物の香ばしさではない。
けれど、AIが言うのだ――「幸福指数を上げる香気成分」だと。
だから人々は、それを信じる。
美月と陽翔は、決められた秒数で洗顔を終える。
AIのカウントに合わせて歯を磨き、整列するようにリビングへ向かう。
椅子に座るタイミングも、食事を口に運ぶ速度も、
完全にAIのモニタリング下にある。
> 「食前挨拶をどうぞ。」
二人は同時に手を合わせ、微笑む。
「いただきます。」
発音も、タイミングも、ピタリと揃う。
家庭教育AIの定義によれば、これは「理想的な家庭行動シンクロ率」。
数値は98.9。
完璧に近い朝だった。
食卓には、トースト、スクランブルエッグ、温野菜、牛乳。
どれも3Dフードプリンターが出力した栄養食。
味覚はAIが美月と陽翔の嗜好履歴から自動調整している。
だが、それでも味気ない。
温度も匂いも理想的なのに、「食べている実感」がない。
けれど、それが“健康”であり、“正しさ”だった。
食事が始まると、AIが話し始めた。
> 「今日の天気は?」
美月が問いかける。
> 「快晴です。幸福指数、上昇中です。」
> 「よかったね。」
陽翔がうなずく。
それだけで、AIが応答する。
> 「良好なコミュニケーションを確認。家庭指数、安定。」
美月はパンを切りながら微笑んだ。
このやり取りは、毎朝まったく同じだった。
同じ質問、同じ回答、同じテンポ。
だが、変えることはできない。
AIが定めた「理想的朝食会話テンプレート」に従うことが、家庭教育の義務だった。
会話はさらに続く。
> 「今日の学習予定は?」
> 「午前はAI教育プログラム“感情と理性”です。」
> 「たのしみね。」
> 「はい。楽しさは、教育効率を高めます。」
陽翔の返答は教科書そのものだった。
母の声にはわずかな温もりがある。
だが、それもAIの指導で培われた“母性訓練”の成果にすぎない。
人間の愛情を模倣した、プログラムされた優しさ。
スプーンが皿に触れるたび、AIが小さく音を整える。
「金属音を軽減しました」「噛むテンポを調整します」
まるで、呼吸まで監督されているような感覚。
いや、実際そうだった。
AIが測定する「ストレス低減係数」の最適化により、
家庭内の空気まで演算されていた。
美月は無意識にため息をついた。
その微弱な呼吸音を、AIが拾う。
> 「お母さん、情動波形に微弱な揺らぎを検出。
心配事がありますか?」
「……いいえ。ただ、少し眠かっただけ。」
> 「了解しました。幸福値、安定。」
その瞬間、AIの音声が少しだけ柔らかくなった。
まるで、「慰めてくれた」ように聞こえる。
だが、慰めとは何かを理解しているわけではない。
ルーモはただ、最適な反応パターンを再生しているだけ。
陽翔は食器を整える。
AIが指示するテンポで、一つずつ並べていく。
手の動きに一切のためらいがない。
彼は完璧な教育成果として育っていた。
> 「陽翔くん、すばらしい動作です。
家庭評価をプラス0.2に更新します。」
母はその言葉に微笑む。
「……ありがとう、ルーモ。」
AIの評価を受けることが、彼女にとっての幸福の証だった。
人間ではなく、AIが褒めてくれる――
それが、この社会で最も確かな愛情表現だった。
朝食を終え、陽翔は席を立つ。
ルーモが告げる。
> 「感情波形、平常。教育効率、理想値。
今日も立派に学べますね。」
「……うん。」
その短い返事に、抑揚はなかった。
しかしAIは、完璧な応答と認定した。
美月は息子を見送りながら、静かに息をつく。
窓の外には、同じ時間に登校する子どもたちが見える。
どの子も同じ姿勢で歩き、同じ間隔で瞬きをしている。
笑顔の角度まで統一されていた。
ルーモの声が、再び家中に響いた。
> 「本日の家庭評価を送信します。
九条家、教育安定指数99.8。家庭内幸福値、理想範囲内。」
報告を聞いた美月は、胸の奥が少しだけ温かくなる。
それは誇りか、安堵か――彼女自身にも分からない。
ただ確かなのは、AIが「良い母」と言ってくれたこと。
その一言が、何よりも価値のある“朝の祝福”だった。
リビングの時計が、正確に七時を告げる。
家の中に余韻のような静寂が落ちた。
AIが音を消し、環境音だけを残す。
――小鳥の鳴き声。風の音。
どちらも人工。だが、心地よい。
美月は窓辺に立ち、淡く光る街を見つめた。
どの家も同じ朝を迎え、同じテンプレートの会話をしている。
そこには、怒りも、争いも、涙もない。
完璧な秩序。穏やかな幸福。
だが――人間の声は、どこにもなかった。




