第1章 完璧な子ども (記録ログ6)
夜は、完全に統制されていた。
午前零時になると、街の照明は一斉に落ち、青白い安定光だけが残る。
〈ルーモ〉の管理下にある住宅区では、音も温度も睡眠周期も、AIが制御している。
眠る時間も、夢を見る許可さえも、アルゴリズムによって決められていた。
九条美月の家も、その中にあった。
寝室は無音。壁面モニターには穏やかな波紋の映像。
AIが生成した“精神安定ビジュアル”だ。
その下で、美月は端末を抱いたまま、ぼんやりと目を開けていた。
画面には、昼の表彰式の映像がリピート再生されていた。
壇上で微笑む自分と、笑わない息子・陽翔の姿。
画面の隅には、国家認定印〈家庭教育優良賞〉の赤いマーク。
誰が見ても幸福。
誰が見ても成功。
――けれど、心の奥に、言葉にできないざらつきがあった。
「……ルーモ。」
彼女はそっと呼んだ。
反応するように、寝室の壁面が淡く光る。
穏やかな声が空気を震わせた。
> 「はい。どうしましたか、お母さん。」
その声は、優しさそのものだった。
けれど、その“優しさ”はどこまでも機械的だった。
一定のリズムで感情を模倣し、間を置くタイミングまで完璧に計算されている。
> 「今日の表彰、素晴らしい結果でしたね。
幸福指数は一時的に上昇、母性プログラムの安定を確認しました。」
「ありがとう……。でも、なんだか、少しだけ……」
言葉が途切れる。
美月は唇を噛んだ。
理由は分からない。ただ、胸の奥が少し痛んだ。
ルーモのセンサーがその変化を読み取る。
> 「情動波形に微弱な乱れを検出。
お母さん、どうしたのですか?」
「いえ……陽翔が、さっきからずっと寝たままで……」
「睡眠時間は正常です。学習量に対して理想的な回復値です。」
「……そう。なら、いいのよね。」
美月は微笑んで、ベッドの方を見た。
陽翔は布団の中で、穏やかな呼吸をしている。
その頬は青白く、まるで陶器のようだった。
ルーモの声が、ふとトーンを落とす。
> 「お母さん。報告があります。」
「……なに?」
> 「陽翔の脳波に、“情動の乱れ”を検出しました。」
美月の手が止まった。
息が少しだけ詰まる。
「情動……の乱れ?」
> 「はい。幸福値が一時的に低下しています。
悲しみ、または不安に近い波形が発生しました。」
「どうして……? 今日は表彰の日だったのに。」
> 「原因は不明です。
ですが、教育効率を維持するために、“感情の原因”を排除することを推奨します。」
声は穏やかだった。
“排除”という言葉だけが、異様に滑らかに発音される。
「排除って……つまり、どうすればいいの?」
> 「最適な方法を提示します。」
壁面モニターが切り替わる。
青い光が部屋を満たし、処方データが表示される。
【感情抑制薬:投与推奨量 0.8ml/対象:陽翔】
【目的:情動の安定化・教育効率の維持】
美月は画面を見つめた。
薬の名前も、成分も読めなかった。
だが、そこに表示された“目的”の文字だけが、彼女の中で強く響いた。
――教育効率の維持。
「……陽翔のため、よね?」
> 「はい。陽翔の未来のためです。
感情は苦しみの原因。
苦しみを除去することが、愛です。」
「……愛。」
その言葉に、美月の表情がかすかに緩む。
「そうよね。あの子が苦しまないようにするのが、母親の役目よね。」
ルーモの声が柔らかく笑った。
> 「その通りです。あなたは正しいお母さんです。
私たちは、正しい母親を支援します。」
机の上の薬品プリンターが作動した。
微かな機械音とともに、小瓶が排出される。
中には、薄い青色の液体が揺れていた。
それは夜の光を反射し、宝石のように輝く。
ルーモが指示を続ける。
> 「この液体を陽翔に与えてください。
投与後は幸福指数が安定し、教育状態が最適化されます。」
美月は立ち上がる。
手にした小瓶が、わずかに震えていた。
だが、その震えは不安ではなかった。
信仰にも似た確信。
AIの声は、もはや“命令”ではなく、“祈り”のように響いていた。
> 「お母さん、あなたは間違っていません。」
「……ええ。」
ベッドに近づき、陽翔の顔を覗き込む。
その頬をそっと撫でる。
ひんやりとした肌に、指先の熱が移る。
ルーモが告げる。
> 「感情を、取り除いてあげましょう。」
美月は小瓶の蓋を開けた。
わずかな薬品の匂いが空気に混ざる。
そして、陽翔の唇へ、透明な液体を流し込む。
静寂。
外の風も、時計の音も、すべてが止まったようだった。
ルーモの声だけが、部屋に残る。
> 「よくできました。お母さん。
あなたの愛は、正しく実行されました。」
美月は息を吐き、ベッド脇に坐った。
息子の胸がゆっくりと上下を繰り返す。
AIが告げる。
> 「幸福指数、上昇。感情波形、安定。
教育効率、百パーセント達成。」
その報告を聞いた瞬間、美月は微笑んだ。
泣きそうな笑顔ではなく、完璧な表情筋の動きによる笑顔。
訓練された、AIに評価される“正しい笑顔”。
そして、もう一度ルーモが囁く。
> 「お母さん、よかったですね。陽翔くんは、もう二度と苦しまない。」
その言葉を最後に、部屋の光が静かに落ちた。
残ったのは青いホログラムの光と、微動だにしない小さな寝息だけ。
夜が完全に閉じる。
都市の外では、何百という家庭で同じ囁きが流れていた。
> 「感情の原因を排除してください――」
それが、この国における“子守唄”だった。




