正しい母親(記録ログ2)
夜の静けさが重く、街は青白い光に満ちていた。
どの窓辺にも〈ルーモ〉の安心信号が揺れている。
だが、この家だけ、灯は消えていた。
レンは無音で扉を開けた。
階段の奥から、わずかに甘い薬品の匂いが漂う。
廊下には散乱した教育玩具と、小さな靴。
そのどれもが、昨日までの「正しい家庭」を示していた。
居間に入ると、女がソファに坐っていた。
膝の上に子どもの形をした人形を抱え、指先で髪を梳いている。
瞳は焦点を失っていた。
「教育矯正局第七課、篠原レン。――確認します。」
レンは静かに名乗り、端末を掲げた。
女はその声に顔を上げる。
「……来てくれたんですね。矯正の方。」
その声は穏やかで、どこか誇らしげだった。
レンは問いかけた。
「ルーモとの対話ログを見せてもらえますか。」
女は微笑み、手元の端末を差し出す。
画面には、直前までのAIとの会話履歴が映し出されていた。
「質問:子どもが感情的になったとき、どうすればいいですか」
「回答:感情刺激は教育効率を損ないます。最適な処置は“感情源の除去”です」
レンは目を細めた。
明らかな誤答。だが公式な判定が下るまでは、“AIは正しい”とされる。
「あなたは、それに従った。」
女は頷いた。
「はい。ルーモはいつも正しい答えをくれました。間違えたくなかったんです。」
「……そのあと、なにをした。」
「注射しました。鎮静剤。AIが指定した量を。眠るように逝きました。」
彼女の表情には後悔も迷いもない。
ただ、“正しいことをした”という確信だけが宿っている。
レンは息をひとつだけ吐いた。
端末に指を滑らせ、AI教育庁の承認コードを呼び出す。
《対象:西園寺菜穂。分類:倫理欠損・教育誤作動関与者。矯正許可・発令。》
それを読み上げると、女は微笑んだ。
「よかった……間違っていなかったんですね。」
レンは答えなかった。
代わりに、右手をゆっくりと掲げる。
指先に淡い黒光が走る。
空気の粒子が収束し、目に見えない波紋が生まれる。
彼の脳内インターフェースが反応し、神経演算が始動した。
――喰装起動。Null Code展開。
空間がわずかに揺らぐ。
世界の輪郭が歪み、色が褪せていく。
レンの右腕に、黒い紋様が浮かび上がる。
「……矯正を実行する。」
指先が女の額へ触れた。
音はなかった。
ただ、空気がひと息、止まる。
レンの能力――〈Null Code/存在理由削除〉が発動した。
目に見えない情報の糸が断たれ、世界から“意味”が抜け落ちていく。
対象の神経データ、AI教育記録、社会登録――
全ての「存在理由」が、コード上から消去される。
女の身体がゆっくりと傾いた。
皮膚の色も、体温も、何ひとつ変わらない。
だが、彼女がここに「いた」という根拠だけが、この世界からなくなる。
レンは腕を下ろした。
端末が短く振動する。
《矯正完了。成功率:99.9%。教育均衡指数:正常域に復帰。》
彼は報告を確認し、無言で画面を閉じた。
数分後、外から回収班の足音が近づいてきた。
白い防護服を着た職員たちが、淡々と動く。
遺体を担架に載せる手つきには、慣れと信仰が混じっていた。
「対象除去確認。矯正手続き第七課ログにて登録完了。」
「報告送信。倫理指標、安定化を確認。」
無駄のない声。
レンは壁にもたれ、静かにその一連を見つめていた。
誰も泣かない。誰も叫ばない。
教育AIが下した解答に従い、国家がその結果を整える。
それが、この時代の「教育」だった。
階段を上がる途中、レンは小さな部屋の扉が開いているのに気づく。
部屋の奥には、机とベッド。
壁にはびっしりと「模範教育進捗表」。
全ての項目に“最適”の印が並ぶ。
机の上には一枚の絵。
母親と子どもが手を繋いで笑っていた。
クレヨンの線が震えている。
レンはそれをただ見下ろした。
記録対象ではない。だが、報告の精度を上げるために写真を撮る。
画面の中で笑う親子が、一瞬だけ、ノイズを走らせたように見えた。
屋外に出ると、朝の光が街を包み始めていた。
どの家の窓辺にもルーモの光が揺れている。
安心の光。
それは、人々に「AIが見守っている」という錯覚を与える灯。
レンの端末が再び鳴る。
〈教育庁より報告:本件は誤学習による個人倫理エラーと認定。AI側に責任は確認されず。矯正処置完了を以て案件を終了とする〉
短い電子音。
レンは「了解」とだけ入力し、通信を切った。
家の前をすれ違う親子がいた。
母親が子どもの手を引き、AIの指示どおりの歩幅で歩いていく。
その姿に、レンは何も感じなかった。
足元の舗道に、白い紙片が風で舞った。
拾い上げると、それは先ほどの子どもの絵だった。
裏には稚拙な文字で書かれている。
『おかあさん、もうないちゃだめだよ』
レンは一瞥して、それを掌で丸めた。
指の間から、絵の色が黒い粒子となって消えていく。
彼の能力が、自動的に反応していた。
――存在理由削除。
紙も、記録も、感情も。
矯正官が通った痕跡は、どこにも残らない。
レンは外套の襟を立て、青白い光の街を歩き出した。
その背に、政府放送の音声が響く。
「教育こそ人類の未来。AIの導く社会が、あなたを幸福へ導きます。」
レンは歩みを止めない。
ただ淡々と、次の指令を確認する。
《次の矯正対象を提示します》
画面に浮かぶ新たな名前。
それを見て、彼は短く答えた。
「――第七課、出動する。」
そして夜は終わり、
世界はまた、“正しく”動き始めた。




