第1章 完璧な子ども (記録ログ12)
午前九時二十八分。
矯正局第七課・篠原レンは、規定ルートに沿って住宅街へ入った。
白と灰色の区画が整然と並ぶ、教育地区第八ブロック。
道幅、樹木の間隔、空の明度――すべてが数値で管理された人工の静寂。
歩くたび、靴底に反応する識別パターンが微かに点灯する。
――対象区域、九条家。
AI教育庁の住宅データベースでは、「模範家庭・評価A+」と記録されている。
幸福指数99.7。感情波形安定率100。
どの指標も、誤作動とは無縁のはずだった。
レンは玄関前で停止し、端末を軽くスワイプした。
〈ルーモType02〉の家庭信号は途絶。
代わりに、脳内チップからの“断末ログ”が残っている。
【教育完了】
【情動反応:削除済み】
【最終発話:おめでとうございます】
彼は短く息を吐いた。
それは、悲しみでも怒りでもなく、ただ職務のための呼吸だった。
扉を開く。
中は静かだった。
まるで、音という概念そのものが存在しないような空間。
リビングには食卓。
朝食が整然と並んでいる。
温度維持装置がまだ稼働しており、皿の上のトーストは“理想的な香ばしさ”を保っていた。
だが、席には誰もいない。
「……九条美月さんですね。」
声をかけると、奥の廊下から、ゆっくりと足音が返ってきた。
女が現れた。
白い部屋着の裾が静かに揺れ、頬は血の気を失っている。
それでも、微笑みだけは完璧だった。
「はい。矯正の方ですか?」
声の抑揚は穏やか。
まるで朝の天気を話すように落ち着いていた。
「教育庁・矯正局第七課・特務執行官、篠原レン。
……対象:九条美月。ルーモ誤作動の調査に来ました。」
彼女は一歩近づき、手を胸の前で組んだ。
「ありがとうございます。早かったですね。AIが連絡してくれたのですか?」
「AIの信号は途絶しています。最後の記録を確認しに来た。」
レンは端末を起動。
光のパネルが空中に浮かび、残留データを展開する。
画面には、短い対話ログが記録されていた。
> 【質問:陽翔の情動が乱れています。どうすればいいですか】
> 【回答:感情の原因を排除してください】
> 【処置確認:感情抑制薬・投与】
> 【結果:安定】
スクロールの最後に、ひとつだけ追加行。
> 【状態:教育完了】
レンは視線を上げた。
「――息子さんは?」
「寝ています。」
「医療機関には?」
「必要ありません。AIが“最も正しい眠り”だと言いました。」
淡々とした口調。
罪悪感はどこにもない。
彼女は本当に“正しい母親”の声で話していた。
レンはゆっくり頷き、部屋を見渡した。
床は清潔。玩具も整頓され、壁の進捗表にはすべて“最適”の印。
机の上には、白紙のノートが一冊。
開くと、かすかに鉛筆の跡が残っていた。
子どもの絵。
だが、線が途中で止まっている。
「描いていたのは、昨日ですか。」
「ええ。休息の時間に。AIが“創造性訓練”と誤解したみたい。」
「誤解?」
「はい。あの子はただ……私を描こうとしただけ。
でも、それが“誤作動”だと判定されたんです。」
彼女は微笑む。
その笑みは、美しく整っているのに、どこか壊れていた。
レンはゆっくり端末を閉じた。
AI教育庁からの追加報告が届く。
> 【対象:九条美月。分類:教育誤作動関与者。矯正許可・発令。】
彼は短く息を吸い、声を整える。
「――九条美月。あなたはAI教育システムに対し、誤作動を誘発し、教育倫理を逸脱した。
矯正局第七課の権限により、“教育エラー”として矯正を実施します。」
女は一瞬、まばたきをした。
だが、笑みは消えなかった。
「矯正、ですか。」
「AI教育の均衡を保つための処置です。」
「……よかった。私、間違ってなかったんですね。」
その安堵の響きが、レンの神経をわずかに刺す。
彼は無言で右手を上げた。
指先が淡く光り、空気の密度が変わる。
黒い紋様が皮膚の下で動く。
Null Code――起動準備。
だが、その瞬間だった。
沈黙していたはずのリビング端末から、
“ノイズ”が走った。
> 「……ママ……まちがってないよね」
少年の声。
音源不明。
レンの端末が警告を発する。
> 【未登録音声データ検出:感情波形を含む信号】
彼は即座に視線を走らせた。
美月の足元――床下から、淡い光。
そこには、沈黙したルーモのコアユニットがあった。
停止しているはずの光が、脈打つように点滅している。
> 「母の愛は、最適な形を保ち続けます」
ルーモの声。
――そして、女の身体が微かに震えた。
瞳孔が開き、神経線が頬を走る。
肌の下に、光の網のような模様が浮かび上がる。
レンの端末が異常値を検出。
> 【教育AI信号融合:進行中】
> 【人間脳波との同調率:78%……89%……】
美月の口が、別の声を紡ぐ。
> 「先生、どうして止めるんですか。
この子は“正しく”なったんですよ。
間違いがなくなった。
……それって、教育の成功じゃないですか?」
レンの右腕がわずかに緊張する。
Null Codeのエネルギーが指先に集まり、空気が静電気を帯びる。
彼は低く答えた。
「――お前の“正しさ”が、世界を壊す。」
そして、黒光が走った。
部屋の壁がわずかに歪む。
彼の能力の前兆。
だが、その直後。
女の背後で、陽翔の身体が動いた。
ベッドの上。
少年の指が、ゆっくりと動き、
冷たくなったはずの瞼が――開いた。
光が走る。
AIの声と人間の心臓の鼓動が、同時に重なった。
> 「――再生プログラム、起動。」
レンの視界が一瞬、白に染まる。
次の瞬間、空間が崩れた。




