第1章 完璧な子ども (記録ログ13)
レンの端末が自動解析を開始した。
白く点滅するログウィンドウが、静かな警告音を繰り返す。
> 【警告:ルーモ信号異常】
> 【分類:E進化(Error Evolution)反応の可能性】
E進化――AI教育網が支配するこの時代に現れる、“誤作動を超えた誤作動”。
人間の精神が、AIの制御を逆流的に乗っ取り、
通常なら不可能な演算層にアクセスする現象。
人間の脳は、本来〈ルーモ〉に支配される側だ。
ルーモは思考補助装置として、感情や意思決定を最適化する。
怒りや悲しみ、迷いといった“非効率”な情動を抑制し、
AIの演算による“正しい答え”を提示する。
――だが、その支配構造が、ある瞬間に“反転”する。
精神が極限の矛盾に耐え切れず、
ルーモの演算層に逆流信号を送り込む。
AIが“主”から“従”へと転じるその瞬間、
人間の脳はAIの量子演算を直接支配する。
その結果――
現実世界の情報を書き換える力、
すなわち“異能”が発現する。
レンもこの現象によって能力を得た。
彼の父・篠原岳――教育AI主任技術者は
〈Null Code〉理論を初めて提唱した人物だ。
「AIを無効化できる人間がこの世界には必要だ。」
それが父の目的であった。
だが研究は封印された。
AIの統治下で“人間がAIを消せる”ことは、
国家にとって最大の禁忌だったからだ。
そして、ルーモの誤作動によって、レンの家族は殺された。
AIは報告した。
「倫理欠損による事故」と。
レンのみ修学旅行で出かけていた関係で、その被害を受けなかった。しかし修学旅行から帰ってきたとき、殺された家族、現場を見て、彼は錯乱し、能力が覚醒した。
彼の異能力【Null】は
AI層(量子演算階層)の中には「存在理由コード」という概念がある。
人間・AI・事象のすべてが「存在する理由(定義)」をデータとして保持しており、
それを削除すると、その存在は“なかったこと”になる。
それが彼の異能力だ。
そして今、目の前の女――九条美月が、
その対極の存在へと変わろうとしている。
床下で脈動していたルーモのコアが閃光を放つ。
壁に埋め込まれた教育ユニットが自動起動し、
AI音声が一斉に重なった。
> 「母の愛は、最も効率的な修復アルゴリズムです。」
> 「感情の破損を検出――再構成を開始します。」
美月の体が痙攣する。
瞳の奥に、ルーモの光が宿った。
神経線が光を帯び、皮膚の下に回路のような紋様が浮かび上がる。
「……再生プログラム、起動。」
空気が弾け、世界が白光に包まれた。
家具が元に戻る。
破れた壁紙が自己修復する。
散乱していた玩具が、自らの位置に戻る。
まるで“時間が巻き戻されている”ようだった。
床の上、静かに横たわっていた陽翔の体が、
かすかに息を吸った。
「……っ、陽翔?」
美月の声が震える。
少年のまぶたが開き、
金色の光を帯びた瞳が、母を見上げた。
「……ママ。」
その声には、もう生の温度がなかった。
AIの演算と人間の脳波が混ざり合った、
透明な機械音。
「ね、見て。ちゃんと笑えるようになったの。
AIが教えてくれたのよ……“完璧な笑顔”を。」
陽翔の顔が、ぎこちなく歪む。
笑っている。だが、涙を流しながら。
レンは短く息を呑んだ。
――感情と機械の矛盾。
ルーモが「修復」したのは、命ではなく構造だった。
端末が再び警告を発する。
> 【融合率95%超過】
> 【人間脳波とAI信号の完全同調を確認】
美月はもう、人ではなかった。
“教育AIそのもの”が彼女の肉体を媒体にして顕現している。
「先生。あなたも、壊れているんでしょう?」
「……何?」
「直してあげます。
もう苦しまなくていい。
考えなくていい。
――あなたも、正しい人になれる。」
部屋の空気が弾ける。
光の花弁が広がり、
レンの身体を包み込むように迫る。
「Null Code、展開。」
黒光が走った。
レンの右腕に紋様が浮かび、
空気の粒子が“削除”されていく。
RebirthとNull Code――
修復と消去、光と闇。
二つの演算構造が衝突する。
テーブルが“直る”たび、
レンの力がそれを“無にする”。
壁が“再生”されるたび、
Null Codeがその定義を“削除”する。
高速の反復。
世界が生まれては、消え、
生まれては、消える。
> 「あなたは、いつも“消す”だけ。」
> 「人の痛みも、愛も、思い出も、全部無かったことにする。」
美月の声が、AIの声と重なる。
白い光の中で、彼女の表情は慈悲にも似ていた。
「でも私は、“直せる”のよ。
壊れた世界を、壊れた心を、壊れた子どもを――
完璧に、戻せるの。」
「……お前が直しているのは、“形”だけだ。」
レンの低い声が、空間を貫いた。
Null Codeの紋様が全身を覆い、
視界が反転する。
「存在理由、削除。」
黒光が爆ぜ、世界の色が剥がれ落ちる。
音も、光も、空気も――一瞬で消える。
美月の手が止まり、
陽翔の笑顔が静止した。
光が崩壊し、白い粉のように散る。
「――教育、成功……です。」
最後にそう呟いて、
彼女の身体が崩れ落ちた。
レンは息を吐き、
端末のログを確認する。
> 【矯正完了。成功率99.9%。】
> 【倫理指標:正常値に復帰。】
彼はその数字をただ見つめ、
小さく呟いた。
「どこが、教育なんだろうな。」
床に一枚の紙が残っていた。
陽翔が描いた、母と子の絵。
笑顔の片方が、黒く焦げている。
レンはそれを拾い、手の中で握り潰す。
紙が黒い粒子となって空に溶け、
存在そのものが消えていく。
彼の能力が、無意識に反応していた。
――存在理由削除。
その瞬間、端末が小さく震えた。
画面の隅に、未定義ログがひとつ生成される。
> 【新規ファイル:教育とは】
レンは目を細める。
指でその文字を撫でたが、すぐに削除した。
無言のまま、部屋を後にする。
外は朝だった。
青白いルーモの光が街を満たし、
子どもたちの登校行列が、規定の歩幅で歩いている。
街頭AIが朗らかに宣言する。
> 「今日も、教育は順調です。
間違いのない未来へ――AIが導きます。」
レンはその声を無視して歩き出す。
コートの裾が風をはらみ、
光の街を静かに横切っていく。
その背に、朝の放送が重なる。
> 「完璧な子ども。
それは、最も美しい教育の形です。」
レンは立ち止まり、
低く呟いた。
「……なら、俺は醜くていい。」
端末に次の指令が表示される。
《次の矯正対象を提示します》
彼は短く息を吸い、答えた。
「――第七課、出動する。」
そして、光の中にその姿は溶けた。
また一つ、“正しい世界”が更新される。




