第八話 ヤタガラスのストラップ
幽霊が出て数日経った金曜日。
幽霊は相変わらず夜な夜な美鈴の部屋に出現しては、朝になると消えている。幽霊につきあって毎晩夜更かししてしまう美鈴は、床で寝落ちしているのも原因で、寝不足と疲労に重い体を引きずっていた。
(取り憑かれてる、っていうのも、あながち間違いではないかも……)
寝坊し、遅刻寸前でも走る気力がなく、どうにかこうにか始業直前の講義室に滑り込む。目に入った近くの席に腰を下ろし、ふう、と大きく息をついた。
鞄からノートや筆記用具を引っ張り出し、始まった講義に集中しかけたところで、隣からルーズリーフの切れ端を差し出される。
『そういうのやめてくんない?』
え? と意表を突かれ、次いで、見覚えのある字に嫌な予感を覚えながら横を見ると、隣の席の学生は元彼だった。
「うわ」
講義中なのに思わず声が出て、あわてて口を塞ぐ。目立たないように前を向き、手元だけで、『違う』と書いて返した。でも元彼が納得したとはとても思えない。
隣からのもの言いたげな空気を無視して九十分を過ごし、講師が「今日はここまで」と言ったときには、ノートもペンも片づけて立ち上がるだけだった。元彼の文句を聞く前に逃げようとしたのに、「おい」と声をかけられて、振り切れなかった。
ただ「おい」と言われただけだ。
それを無視することのできない自分が嫌だ。
「……勘違いだって。私、今日眠くて、周りなんて見てなかったんだから」
「そういう言い訳、いいから。オレたち別れたんだよ。視界に入ってこようとするなよ」
「してない」
声を抑えつつ、低く返す。まだ人が残る講義室で、注目を浴びたくなかった。
「嘘言えよ。きのうだって、五限のとき、目、合ったろ」
完全な言いがかりだった。以前、ぼんやり前方を見ていて彼が振り返ったときには確かに目が合ったが、きのうの五限はまったく覚えがない。
「気のせいでしょ」
美鈴は苛立ちを押し殺しながら、元彼の頭の悪さに胸中で悪態をついていた。
視界に入っていこうとしているのではなく、被る講義が多いのだ。それは、まだ付き合っていた今学期の始めに、元彼が自由選択は同じ講義を取りたいと言ったのが原因である。
そのことを、彼はすっかり忘れているのだろうか。
「今日もわざと隣に座ったろ」
「わざとじゃない」
美鈴は、元彼は、どうしても美鈴が元彼に未練があることにしたいのでは、と勘ぐった。そんなことに何のメリットがあるかは知らないが、そうでもなければ元彼こそ、別れたはずの美鈴に執拗に絡んできているではないか。
そうだとすれば、美鈴にとっては不愉快極まりない勘違いだった。
美鈴は、彼と別れて落ち込む気持ちひとつ生まれなかったことにショックを受けたくらいだ。ドラマチックな未練なんてないし、元彼が勝手に思い描いている構図に、美鈴を入れてほしくない。
そういうことを、くどくどど説明しなければならないのかと思うと、うんざりする。しかも、何かしら思い込んでいるらしい元彼を、いちいち納得させるのに、どれくらい労力が必要だろうか。
幸か不幸か、次は空きコマだった。元彼にこそ次の講義が詰まっていてほしいのだが、彼は美鈴を睨んだまま動かない。
ここで踵を返して、走り出せるような性格だったら、どれほどよかったろう。
そういう思い切ったことができないから、美鈴はいつも中途半端なのだ。
『付き合っててもつまんない』
そうだろう。美鈴は人を楽しませるような何かなんて、持っていない。
奈子のような明るくて広い愛も、幽霊みたいな美しい体も、キャンパスですれ違う女の子たちの華やかさも、美鈴には、何も――。
「あの、ミリンさん」
美鈴と元彼が同時に同じ方を向いた。
講義室の机と壁の間、狭い通路で、佐藤が美鈴を見つめていた。綺麗な顔にうかぶ少しの遠慮が、より彼の綺麗さを引き立てている。
「このあいだの講義の、中間レポートの範囲を教えてほしいって、言ってたよね」
美鈴には心当たりのない話だった。けれど、佐藤は美鈴の名を呼び、美鈴に向かって話をしている。
「中間レポート……。……あっ」
美鈴は素で呻いて、こくこくこく、と首を縦に振った。
佐藤と約束した覚えはないが、水曜日の、眠気と戦いながら受けた講義のこととわかった。元彼と目が合ったという嫌な記憶も残る講義だが、あとからそのノートを見返していたら、「らいしゅうれぽーとていしゅつ」という、かろうじて解読可能な走り書きを見つけてしまったのだ。その下に、レポートのテーマらしき何かが書かれていたものの、こちらは解読不可能だった。
「……えっと、はい、言いました」
佐藤がなぜ美鈴がそれに困っていることを知っているのかわからなかったが、元彼から逃げる格好のきっかけを、逃す手はなかった。
「このあと空いてるなら、食堂ででも……」
「お願いします!」
美鈴は頭を下げ、急いで荷物をまとめた。最低限の礼儀として、元彼に「それじゃあ」と言い、数歩先で待っていてくれた佐藤のもとへ、小走りで歩み寄る。
佐藤は、美鈴が追いつくのを待って、ゆったりした速さで歩き始めた。股下コンパスの違う美鈴を気遣ってくれているのが、彼がちらちらと美鈴を確かめる視線でわかる。
しばらく歩いて講義棟から少し離れたあたりで、佐藤は立ち止まった。
「急に、ごめんね。なんだか困っているように見えたから……」
「いえ、確かに困っていたので、助かりました。ありがとうございます。っていうか先輩、私の名前、なんで……」
美鈴が背の高い佐藤を見上げた首をそのまま横にかしげると、佐藤は少し笑って、それを「ごめん」と律儀に謝ってから、答えた。
「去年の夏、農学の特別講座を受けたでしょ。そのとき、『ミリン』って呼ばれる子がいたから、気になってしまったんだ。俺の名前、佐藤潮っていうから」
「もしかして、調味料繋がり……」
「そう」
佐藤はまたおかしげに小さく笑った。
「ミリンさん……あっ、ごめん、海野さんも、俺のこと、知ってたんだね」
佐藤がそう思ったのは、美鈴が迷いなく「先輩」と呼んだからか。
美鈴は、本人を前に、奈子から有名人と聞いた話をしていいものか迷った。
目立つのが好きなら、そういう評判も好ましく思うだろうけれど、目の前の佐藤からは、どうもそういった空気を感じない。美鈴の名前を呼んで、それを謝って名字呼びに変える真面目さなどは、むしろ外見の噂は苦手かもしれないと思わされた。
佐藤は、印象的な大きな目をゆるくたわめて、美鈴を見下ろしている。背の高い彼からの威圧感をさほど感じないのも、甘い顔立ちに、柔らかな表情を浮かべているからだろう。
「……私の友だちが、その特別講座で、先輩と同じ班だったんです」
「ああ、俺が海野さんの名前を知ったきっかけの子。なんとなく憶えてるよ。確か……えっと」
佐藤は、美鈴の名前はすぐ出てくるのに、奈子は思い出せないようだった。
「牧村奈子。スマホに、ストラップを大量に付けてる子で……」
美鈴が言っても、佐藤にはピンとこないらしい。確かに、あの講義でスマホを使う機会はなかったから、奈子の推しストラップを見る機会もなかったかもしれない。
「あっ、ストラップといえば、これ」
奈子の話は流して、佐藤は自分の鞄を探り、ペンケースから黒いプラスチックの欠片のようなものを取り出した。美鈴が佐藤の手のひらの上に載せられたそれを確かめたところ、美鈴のヤタガラスの、割れた半分であることに気づいた。
「これ……」
「きのう、海野さんが行ってしまったあとで、俺の足下にあったのに気づいたんだ」
はい、と手のひらをかたむけられたので、美鈴も手を差し出して欠片を受け取る。
ほぼゴミのようなものだ。足下に見つけたとして、そのまま放っておくか、拾ったとしてもゴミ箱に捨ててしまってもおかしくないものを、佐藤はわざわざ無くさないようペンケースに入れて持ち歩いていたらしい。
その律儀さは、美鈴を戸惑わせた。佐藤も美鈴の困惑を察したのか、ペンケースを鞄に仕舞いながら言った。
「いらないモノかもしれないけど、もし、海野さんにとって、思い入れのあるものだったら、と思って」
「いえ、あの……ありがとうございます。何か意味があるものじゃないんですけど、長く使って、愛着はあったので……」
「ならよかった。ヤタガラスは縁起物だった気がするし、捨てるのも忍びなくてね」
受け取った欠片には、三本足のペイントが見える。三本足の何かとして、ヤタガラスが思い浮かぶのは不自然じゃない。というか、美鈴もほかには知らない。
「せっかくだから、ボンドでくっつけてみます。それと先輩、あの、どうして私がレポートのことで困ってるって、知ってたんですか?」
「え?」
佐藤はきょとんと、もともと大きな目をさらに丸くした。
「えっ?」
その反応に、美鈴もぽかんとしてしまう。美鈴は、目を瞬かせて我に返った。
「さっき、講義室で……」
「アレ、出任せだったんだけど……」
「えっ」
美鈴は、うっかり醜態を告白してしまったことに気づいた。じわじわ顔が熱くなってくる。
そんな美鈴を気遣うように、佐藤は何事もなかったかのように笑った。
「なら、教えてあげるよ。このあとって、時間、大丈夫?」
「はい。次は三限なので、この時間、いつも暇なんです」
大学のスケジュールは、ひとコマ九十分で、一限が八時四十分から十時十分まで、二限が十時三十分から十二時まで。そこから昼休みの一時間を挟んで、三限目は十三時から始まる。
つまり、二限目に講義を取っていなければ、十時十分から十三時までが空き時間になるのだ。
「先輩は、大丈夫なんですか?」
「うん。俺も、次は三限からだから」
答えて、先輩はやけに嬉しそうに美鈴へと笑いかけた。
「なら、よかったら、一緒にお昼、食べない?」
「はい、ぜひ」
広いキャンパス、大学生活では、いつも友人と昼食をとれるわけではない。普段はひとりで潰す時間を、誰かと過ごせるのは、悪くなかった。
それがほとんど初対面の先輩で、普段の美鈴なら気後れしてしまう相手でも、なぜか、今は自然な親しみを感じていた。