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第七話 幽霊だからできること

 ため息とともに、そう言った。言葉にして、それは自分の気持ちにこれ以上ないほどはまった、と感じた。


「恋じゃなかった……、だから、次の恋って言われても、どうしたら恋ができるのか、わかんないよ」


 付き合い始めから終わりまで、美鈴が恋をしたときは、きっとなかった。


 元彼に好意はあったし、付き合ってほしいと言われたときは、確かに嬉しかった。

 でもそれはたぶん、恋という種類の好意ではないのだ。話が合って、一緒にいて楽しいと思うだけでは、恋と呼ぶには足りないのだろう。


 かといって、じゃあ何が恋なのかは、美鈴にはわからない。


「あなたは、どうして私に恋をしていると思うの?」

「……さあ?」


 幽霊は、たった三秒ほどだけ考えて、あっさり肩をすくめた。


「さあ、って……」

「ミリンさんを好きだなあって思うよ。こうして話せたら嬉しくて、ミリンさんが帰ってきて、玄関で会えたときも、すごく嬉しくなる。そんな自分を、恋してるなあ、って思うから、たぶん恋」

「えぇー……」


 釈然としなくて、美鈴は勢いをつけてベッドに倒れ込む。スプリングが跳ね、その拍子に、持っていたスマホがするりと手から滑り、ベッドの下に落ちた。シリコン製のスマホケースをつけているから、たいして心配もせず、すぐに起きあがって拾う気にならない。


「……あ、ミリンさん、ストラップ割れてる」


 美鈴が仰向けで天井を眺めていると、幽霊が言った。


「そう。今日大学で落としたから、たぶんそのとき」


 昼休みに気づいて、心当たりはそれしかなかった。

 仰向けから横に転がり、横を向く。幽霊の透けている頭が見えた。


 美鈴のスマホは、奈子とは対照的に、ストラップはひとつきりというシンプルさだった。それも、お気に入りのキャラクターなどではなく、どこかの店先でたまたま見つけて、ちょっと気に入っただけのものを、ずっとつけっぱなしにしていた。


「これ……ヤタガラス?」

「正解。……って、何でわかるの?」


 美鈴は体を起こして滑るようにベッドから下り、すぐそこにあったスマホを取り上げた。幽霊の視線がスマホを追ってくるのが、不思議とわかる。

 幽霊の横にぺたんと座り、スマホをかかげて、目の前に、割れたストラップの上半分をぷらんとぶら下げる。


「これ、下に三本足が描かれてたから、ヤタガラスってわかる程度のものでしょ?」


 美鈴の目の前で揺れる上半分は、真っ黒な本体に、きょとんとしたような大きな丸い目と、くちばしが描かれているのみだ。何かの鳥だとはわかるだろうが、よりによってヤタガラスと言い当てるのはおかしい。


 ヤタガラス。日本神話の、伝説上の生き物。三本足が特徴。サッカー日本代表のエンブレム。


「確かに……でも俺、それを見た瞬間、これはヤタガラスだ、って思ったんだ」

「なんで?」

「さあ……。ミリンさん、サッカーが好きなの? サッカーのマークでしょ?」

「別に、サッカーとは関係ないよ。たまたま目についただけ」


 美鈴のぼんやりとした記憶では、サッカーのエンブレムは、こんなに間抜けな顔をしたヤタガラスではなかったはずだ。そして、「サッカーのマーク」という適当な言い方で、この幽霊もまた、サッカーに興味があるわけでもないのがわかった。


「俺たぶん、壊れる前のそれを見たことあったんだと思う。どこかの有名なお土産とか?」

「たぶん、違う。私もこれをどこで買ったか、いまいち覚えてないけど」


 割れてしまったストラップを、指先でつついて揺らす。思い入れはないが、しばらく付けっぱなしで愛着はある。割れて、欠片もどこかへいってしまったのが、思いの外残念だった。


「それなら俺、ミリンさんのそれを、見たことあったんだろうな」

「こんな小さなストラップの詳細を覚えているくらい、近くにいた人ってこと? うーん、ほんと、全然わかんない。あなた誰なの?」

「……さあ……」


 頼りなく首をかしげる幽霊は、半分他人事のようだった。美鈴がそれを言うと、幽霊は背中を丸め、抱えた膝にあごを乗せるような姿勢になった。


「俺、今、ミリンさんとこうして話して、ちょっと楽しいんだ」

「はあ……?」

「好きな人と話せてるんだから、そうだろ」


 言われてみれば、それはそうか、と思った。


「それでなんで、記憶喪失が他人事になるの?」

「記憶がないことじゃなくて、こうなる前の俺のことが、俺にはよくわからない。理解できない、って意味で」

「どういうこと?」


 幽霊は、背を丸めたまま腕を伸ばして手のひらを開き、そうして向こうが透ける自分の手を、じっと見下ろした。


「ミリンさんが俺を知らないってことは、俺はミリンさんのそこそこ近くにいたのに、声をかけたりはしなかったってことだろ」

「たぶん、そうだね」


 美鈴の大学は、いわゆる総合大学で、学部も多ければ学生も多い。毎日多くの学生とすれ違ってばかりで、会えば話をする程度の関係もレアだし、そこまで親しくなった相手を忘れることは、少なくとも美鈴にはない。


 美鈴の交友関係も、決して広くはないからだ。

 そして大学外の人間関係は高校までのとりわけ仲のよい人たちで、そちらはなおのこと幽霊のような男の子に見覚えはない。


「俺はどうして、こんなになるまでミリンさんが好きなのに、生きてるときに声をかけなかったんだろう、って」


 幽霊の言うことは確かに、美鈴にとっても違和感だった。一方的に美鈴を知っているうえ、名前の読みや漢字だとか、小さなストラップの詳細だとか、どうも美鈴の近くにいたらしいのに、美鈴は彼をちっとも知らない。


 けれど、幽霊になってさえどこか明るい雰囲気をもち、美鈴と気後れせず話す彼なら、美鈴に声をかけるくらい、できただろうと思うのだ。

 美鈴の疑問を、口に出す前から幽霊が答えた。


「俺は今こんなで、開き直っているから、すんなり話せるんだ、とは思う」


 こんな、と言いながら、半透明の手をひらひらさせた。


「でも話してみれば、ミリンさんとちゃんはちゃんと応えてくれるのに……。生きてたころの俺は、たぶん、ミリンさんに声をかける勇気がなかったんだ。それってすごく、もったいない……」


 幽霊は伸ばしていた腕から力を抜き、体の横にだらりと投げ出して、顔を仰向けて中空を見上げる。


「なんで、死んじゃう前に、ミリンさんとちゃんと会わなかったんだろう。こんなふうになっちゃってからでは、どうしようもないのに」

「……」


 美鈴は返す言葉を思いつかず、息を潜めて彼の横顔を見つめていた。前髪で表情がよく見えなくても、彼の切ない気持ちは伝わってきた。


「たぶん、俺はそんなに社交的な人間ではなかったんだと思う。でも、一回くらい、勇気を出せばよかったのに。それとも、声をかけたことはあるけど、ミリンさんが完璧に忘れてるとか?」

「ひとのせいにしないでよ。ちょっと落とし物を拾ってもらったとか、そういうレベルだったら、さすがに憶えてないとは思うけど」

「その程度のラッキーを噛みしめてたのかな、俺……」


 情けない、と幽霊は頭を抱えてしまった。


「生きてるうちに、会いたかった」


 幽霊はぽつりと言って、ため息をつくように肩を上下させた。


「もし今の俺が、普通の人間に戻れるなら、ミリンさんに声をかけるのにな」

「生きてるあなたに声をかけられたからって、私、こんなふうに応えられるとは限らないよ」


 美鈴は幽霊の正面に膝で寄っていった。


「私も、大学ではこんなんじゃないし。よく知らない人と、こんなふうに話せない」


 大学に入って最初にぶつかったのが、どうやって友だちを作ればいいかわからないことだった。

 講義は単位制で、ほとんどをおのおのが自由に選ぶ。講義室は広く、週に一度しか同じ教室に集まらない多くの学生と、どうやって接点を持ったらいいのか。


 奈子とは、体育の講義でペアになったことから、ほとんど奇跡的に仲良くなれた。講義が終わればそのまま解散でもおかしくなかったのだ。それがあの日は、なぜかなんとなく昼食を一緒に取る流れになった。そのあとは驚くほどスムーズに話ができて、連絡先を交換して、大学外でも一緒に遊ぶようになった。


 単なる偶然だったと思う。そういう偶然がなければ、なかなか親しい相手ができない。美鈴は、自由すぎる大学という環境で友人を作るのは、上手にできないタイプだった。


「幽霊にならないと、どっちみち俺はダメだったってことかあ」

「あなたはどこで私を知ってたのかな。大学? 学生っぽいもんね」

「それも本当はわからないけど、可能性としてはそうじゃないかな。ミリンさん、バイト先は?」

「役所の食堂。利用者はほとんど職員さんで、バイト仲間にもあなたみたいなのはいなかったよ」


 美鈴は、バイトでのお客さんの顔を思い浮かべた。

 公務員は定時退社と思っていたら、かなり遅くまで残業していると知ったのは、このバイトによる。定時過ぎ、残業前の腹ごしらえや、残業中の息抜きに来る職員のために、地下にある食堂は遅くまで営業している。


 食堂が地下にあるのは、定時後に庁舎の明かりがついていると、市民から電気代を無駄にしていると苦情がくるためだ。同様の理由で、残業が多い部署は、地下を割り当てられている。


 理不尽だなあ、と思う。

 疲れた顔で食堂の椅子にもたれる職員たちを思えば、誰も好きで残業なんかしていない。単純に、それだけの仕事があるのだ。なのに、税金の無駄遣いとクレームを入れられるのである。

 バイトの先輩は、「外からじゃ、わからないものがあるよね」と、仕方なさそうに笑っていた。

 くたびれた職員たちの様子や、クレームの話を知って、あんなふうになるのは嫌だなあ、と美鈴は思う。でも、そんな美鈴も来年、大学三年生になれば就活が始まり、否応無くああいう社会人にならざるをえない。


 美鈴がバイト先や自分の将来を考えてため息をつく横で、幽霊は抱えたひざにこめかみをつけ、美鈴に顔を向けた。


「どうしたの、ミリンさん」

「ちょっとね。社会人って、いろいろ窮屈そうで、嫌だなって、思ってたとこ」

「わかる気がするな。俺も、たぶん同じようなことを、考えたことあるんだろうな」


 でも、と幽霊の唇がほんのり、情けなさそうに笑う。


「それがわかっても、やっぱり、俺は俺がわからない。声をかければよかったんだよ。そうしなきゃ、何も始まらないんだから」

「じゃあ、今のあなたが、大学とかで私に会ったら、声をかけてくれるの? 私があなたを知らなくても」


 幽霊は数秒、口をつぐみ、じっと美鈴を見た。前髪の奥から、彼のひたむきな視線を感じた。

 美鈴が焦れる前に、幽霊はうなずいた。


「……うん。声、かけたよ。幽霊になってからじゃ遅いって、今すごく見に染みてるから」


 言って、幽霊は少しだけ笑う。


「そうしたら、ミリンさんは、俺と友だちになってくれる?」

「友だち? 恋人じゃなくて?」

「だってミリンさん、恋はしばらくいいんだろ? なら、せめて友だちになりたい」


 友だちからはじめましょうって、ていのいい断り文句だった気がする。

 美鈴はそんなことを思いつつも、幽霊に見えるように首を縦に振った。


「もし、話しかけてくれたら、たぶん、今のあなたとは友だちになれると思う」


 美鈴が真面目に答えると、「あーあ」と幽霊は天井を仰いだ。


「俺の馬鹿。声、かければよかったのに、ほんとにさあ」


 幽霊の後悔に、美鈴は何も言ってあげられなかった。


 決して叶うことのない『もしも』の話をしている。

 生きていたころの幽霊がどんな人だったかなんて、当然、美鈴も知り得ないが、「友だちになれる」なんて言うのは、今こうして幽霊と話をしているからだ。


 現実では、きっとうまくいきやしない。


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