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第六話 幽霊の幸せな恋

 ゆうべは、幽霊と話しているうちに寝落ちして、硬い床で朝を迎えた。幽霊はやはり消えていて、床で目覚めた事実がなければ、奇妙な夢と思ったかもしれない。

 寒い季節ではないから風邪の心配はなかったものの、床はやはり良くなかったのだろうか、キャンパスについて一限目の授業からもう眠かった。


 高校の教室が三つか四つも入りそうな大学の大講義室は、学生の数も多く、居眠りの精神的ハードルが低い。受講する学生の学部や学年が入り交じった基礎教養の講義なんて、机に伏せても講師には見えないか、見えても名前なんて覚えられていない。

 それでも美鈴はギリギリまで眠気に抵抗した。

 この講義には、あとからノートを写させてくれる知り合いがいない。

 一度や二度、講義を飛ばしてもそこまでヤバくはないといえども、不安はある。閉じそうな目をこじ開けて、それでも頭がぼんやりしてくる。


 意識が遠のき、ぼうっと前方の席を見ていたら、ひとりの男子学生がふと振り返った。視線が勝手に動くものを追い、その学生と目が合う。

 彼は、美鈴が見ているのに気づいて、顔をしかめて前を向いた。

 数秒遅れて、美鈴はそれが元彼であることを認識し、げっそりとため息をついた。




「何見てたんだよ」


 講義終わり、さっさと講義室を出るつもりだった美鈴は、出入り口の混雑に巻き込まれている間に、元彼に追いつかれてしまった。

 無視してくれればいいものを、と、ため息をかみ殺す。


「別に、そういうのじゃないから」


 元彼は、隣に新しい彼女らしき子を連れている。その状態でわざわざ声をかけないでほしかった。案の定、その子からの視線が痛い。


「そういうのって何だよ。オレら、別れたんだから」

「あなたを見てたわけじゃないって」

「嘘言え」


 まるで美鈴が彼に未練があるような言いぐさだが、元彼と言い争う気力は、今の美鈴にはなかった。

 とにかく眠い。次の講義をサボって、食堂あたりで仮眠したいほどだ。


 今度は押し殺せなかったため息を、小さな欠伸とともに吐き出して、美鈴は彼氏を避けて講義室を出ようとした。

 眠気でうまく頭が働かず、うっかり周囲を確かめないまま身動きしたせいで、ちょうど通りかかった誰かにぶつかってしまう。


「わっ」

「あっ、すみません!」


 相手がばらばらと筆記用具やノートなどを落とし、美鈴の頭はぱっと覚めた。驚いた拍子に美鈴も自分の持ち物をいくつか落として、慌てて屈む。

 相手とともに、床に散らばったものを拾う。相手が落とした教科書やレジュメから、同じ講義を受けていたらしい学生と知る。


「すみません、私、周りを見なくて」

「いいえ、こちらこそ」


 おっとりと落ち着いた、男の人の声だった。

 完全に美鈴が悪いのに、相手の学生は、苛立ったふうでもない。

 美鈴は、拾ったもののうち、相手のぶんを渡すときにその人の顔を見、それがついきのうも見た顔だと気づいて、少し驚いた。


 佐藤先輩だ。


 彼は、甘めの童顔にやや申し訳なさげな表情をうかべ、美鈴から丁寧な手つきで落としたものを受け取った。


「ありがとう」

「いえ、私のせいなので……」

「大丈夫。そちらは、怪我は?」


 美鈴はアイドルなど、いわゆるイケメンと呼ばれる部類に興味を持つたちではないのだが、このときは、ついうっかり見とれそうになった。失態を優しく許すような顔で、近くから見つめられることには、かなりの威力がある。


「私も大丈夫です。あの、それじゃあ……」

「あっ、待って」


 立ち去ろうとした美鈴を呼び止めた声まで、柔らかで綺麗な音だった。思わずどきりとして、振り返る。


「これ」


 と、佐藤が差し出してきたのは、美鈴のスマホだ。気が動転して、自分の落としたものをちゃんと確かめていなかった。


「ありがとうございます」

「いいえ」


 彼は美鈴と違い、慌てる様子もない。美鈴は恐縮しつつスマホを受け取ると、軽く会釈して彼に背を向けた。

 元彼はいつの間にかいなくなっていて、不謹慎ながら、先輩にぶつかってよかった、とつい思った。





「それで、その先輩に恋しちゃった?」


 と、まるで女子会のノリで発言したのは、美鈴の部屋を事故物件にしている幽霊である。

 美鈴はやや呆れながら首を振った。


「そんなわけないでしょ。元彼より、先輩のほうがずっといい人っぽいな、と思っただけ」

「そういうのが、恋の始まりになるんじゃないの?」

「ない」

「えー」


 幽霊は膝を折り畳んで抱え、体育座りの体勢で、ゆらゆらと左右に揺れた。スマホで大学のホームページから夏期特別講習の一覧を眺めていた美鈴は、顔を上げて目を幽霊に向ける。


「いったいどうして、恋がどうのという話をしてるの?」

「俺、考えたんだけどさ」


 幽霊が膝を抱えた手を解き、ベッドに座る美鈴へにじり寄ってくる。そうして美鈴の足もと近くから美鈴を見上げ、自信ありげな笑みを唇に描いた。


「俺はミリンさんが好き。だけどこんななりで、未練をかなえるのは無理だってのはわかる」

「まあ、そうね」


 悲しむべきだろうことを、幽霊があっけらかんと言うので、美鈴のほうが彼の反応をうかがいながら、慎重にうなずく。幽霊は変わらず明るく言った。


「だったらさ、ミリンさんが幸せになるのを見届けたら、未練も消えるんじゃないかなって、思うんだ」

「うーん……わかるような、わからないような」

「好きな人が幸せいっぱいだったら、それはそれで嬉しいし、諦めもつくでしょ」


 いかにも善人の発想だ、と美鈴は思った。


「だから恋?」

「うん。恋が叶うって、幸せだろ?」


 幽霊になってしまうほどの未練を残しておきながら、相手が別の人と幸せになるのを見届けたいとは、なかなか変わった望みである。

 だが、「あなたはそれでいいの」と訊けなかった。幽霊の望みを否定したところで、美鈴にできることはない。


「私が恋を叶えないとあなた成仏できないの? 幸せって、ほかにもあると思うんだけど」

「それはそうだけど、わかりやすさを優先して」

「そんなこと言っても……私、しばらく恋愛はいいやって、思ってたところなのに」


 恋人と別れたら、すぐに次の恋を探す人もいる。

 でも美鈴は、とてもそういう気になれなかった。元彼のせいと思うのも悔しいが、実際、彼のせいで、恋愛は面倒なものだと思わされた。


「えー」


 幽霊が唇を尖らせ、不満の意を表す。前髪で目元が見えないわりに、彼は表情豊かで、感情がわかりにくいこともない。


「恋って、そんなにいいものかな」


 美鈴がぽつりと言うと、幽霊はきょとんとしたようだった。彼はじっと美鈴を見上げてくる。


「誰かと付き合っても、幸せいっぱい、というわけでもなくない?」

「……俺には、誰かと付き合った記憶はないんだけど」


 幽霊は美鈴をうかがう様子を見せながら、速度を落として話した。


「俺にとって、片思いでも、ミリンさんを好きでいるのは、良いことだったと思う。じゃないと、俺は恋を幸せだって思えないはずだから」

「……」


 美鈴は、幽霊をうらやましいと思った。


「いいなあ」


 思うだけでなく、つい声に出た。幽霊は黙って、美鈴が何かを言うのを待っている。


「彼氏がいた私より、片思いしてただけのあなたのほうが、幸せそうだよ」

「彼氏と付き合って、幸せじゃなかったの?」


 美鈴は軽く首をかしげた。


「付き合ってるときは、楽しいと思ったときもあったと思う。でも今思い返して、そうでもなかったかも、って。別れてすっきりしたのは、そういうことでしょ」


 それに、と美鈴は幽霊が何かを言う前に続ける。


「たぶん、恋じゃなかったよ」

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