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第五話 幽霊の片思い

「幽霊って、ドアはすり抜けたのに、床はすり抜けないんだ。ていうか、足、あるんだね」

「あ、ほんとだ」


 幽霊が右足を浮かせて片足立ちになり、膝を折った右足をつま先までまじまじと見下ろす。

 片足で立つには、軸足がしっかり床を踏んで体を支えていなければならない。

 幽霊の体に支えるほどの重さがあるのかは謎だが、幽霊が片足立ちをしている絵面も、なかなかに奇妙だった。


「変な幽霊」


 今までのあれこれもまとめて、美鈴はそう評した。幽霊は足の裏まで眺めていた顔を上げ、唇をへの字に曲げた。


「そんなこと言われても……幽霊って、ぜんぶ変なものじゃない? 変じゃない幽霊なんている?」

「いち、足がない。に、血みどろ。さん、恨みがましい顔をしている。よん、不気味」


 美鈴は幽霊っぽい要素を指折り数えてみる。そして、目の前の幽霊を頭のてっぺんから、しっかりくっついている足先まで、一通り眺める。


「どれかひとつでもあれば、もっと変じゃない普通の幽霊っぽかったと思う」

「普通じゃなくて、悪かったね」

「……」


 美鈴はもう一度、幽霊を上から下まで見回した。そのうえで答える。


「ううん。普通の幽霊だったら、さすがに怖すぎる。あなたが普通じゃなくてよかった」

「……ミリンさん、さあ……」


 幽霊はなぜか、両手で顔を覆ってうつむいた。


「なによ」

「不意打ちで俺を喜ばせるようなこと、言わないで」

「今ので何を喜んだの?」


 美鈴が顔をしかめて渋い表情を見せると、幽霊は少し顔を上げて、美鈴をちらりと見たようだった。美鈴からは、相変わらず、彼の前髪のおかげでその表情は見えない。


「俺でよかった、って」

「そうは言ってない」


 とんだ解釈違いに、すかさず否定した。


「あのね、まず、幽霊が出るか出ないかで言えば、出ない方がいいのよ。その上で、出てしまったなら、怖くない方がマシってだけで」

「ほかの幽霊より、俺がいいってことでしょ」

「ほかの幽霊って何? 前提がおかしいでしょ。幽霊が、そうホイホイ出てたまるか」


 まだ夏には早いが、昼間の陽気で、美鈴の肌には乾いた汗がまとわりついている。幽霊と話しているうちにうっとうしくなり、さっさとシャワーを浴びようと、ブラウスのボタンに手をかけた。


「わーっ」

「うわ、何?」


 美鈴が何気なくふたつ目のボタンを外したとたん、幽霊が叫んだ。

 この展開、二度目だ。きのうもあったな、と思えば、美鈴は気にすることなく、ボタンを次々外していった。


「ちょっ、ちょっと!」

「何? これ以上は、ちゃんと風呂場に行くよ。きのうもそうしたでしょ」


 幽霊はまた顔を手のひらで覆っていた。というか、もう手が顔面にめり込まんばかりに押さえている。

 こういうところが、美鈴が彼を脅威に思えない理由であって、ストーカーや、そのほか悪さをしていたものじゃない気がする根拠だ。


「見知らぬ男の前で、無防備すぎるだろ……」

「見知らぬ男が透けてなければ、私も真っ先に警察を呼ぶくらいの危機感は持ち合わせていますけどね。でもキャミソールくらい、夏になれば外も歩いてるじゃない」


 いちいち大げさすぎる、と美鈴が言えば、幽霊は悔しそうに「うう……」と唸って、うつむいた。


「ほかの女の子はどうでもいいけど、俺は、ミリンさんが好きなわけで……。目の前で脱がれると、その、支障が」

「どこに?」

「デリカシー!」


 美鈴が胡乱な目で幽霊の体を見たら、幽霊はまた叫んで丸くうずくまってしまった。

 そういう仕草のひとつひとつが、この幽霊はちゃんと元は人間だったんだなあ、と思わせる。

 ドアは突き抜けても床は通り抜けない不可思議、同じように、彼の手や足が、彼自身の顔や体を突き抜けたりもしない。


 今、実は床にしゃがみこんだ彼の背中や肘が、すぐそばにあるチェストにめり込んでいるのだが、幽霊は気づいていないようだった。


 さらに言えば、どこもかしこも半透明で、美鈴からは常に彼の向こうの景色がぼんやり見えているのに、彼の体が服越しに透けていたり、はたまた内臓が透けて見えることもない。


「幽霊って、ホント、変」


 目の前に現れるまで、幽霊のそういう部分を考えたことはなかった。

 今、あらためてしみじみ美鈴が言うと、幽霊はぱっと顔を上げ、そして勢いよくうつむく。


「ミリンさんは、俺の何をそんなにじっと見てるの」


 気のせいでなければ、拗ねた声音だ。


「珍しいモノがいるなあ、と思って。幽霊なんて、滅多に見られないでしょ」

「もうちょっとこう、遠慮とか、ないんですか」

「え? うちを事故物件にしたどこぞの幽霊に、なんで私が遠慮する必要あるの?」

「ウッ」


 幽霊は、上げかけていた頭をまた下げて、呻いた。


「そういうあなたも、わりと自由よね。それこそ臆面もなく私を好きだと言ったり、恥ずかしいのを隠しもせず叫んだり。生きてるときも、そうだったの?」

「憶えてないけど……たぶん、違う」

「なんで?」

「俺が今みたいに、言いたいことを好きに言えて、動けていたら、俺はたぶん、こうはなってない」


 こう、と言って、幽霊は顔を上げ、手を広げて彼の姿を示した。


「未練でこんなことになる前に、きっと、ミリンさんに声かけてたよ」

「すごい、説得力ある」


 美鈴が深くうなずくと、幽霊はやや不本意そうに何かを言いかけたが、それは取りやめたらしく、軽く息をつくような間をあけて続けた。


「……俺、今こんなで、失うものなんか何もないから、すごく気が楽なんだ。胸の中から、重石がなくなったみたいな、解放感がある」


 幽霊が胸の中というから、うずくまった幽霊の膝に埋もれた胸元に、思わず視線が行く。そこは、折り曲げられた膝も、胸も透かして、その向こうの小物類を納めた低い棚が見えていた。


 言葉通りでないのはわかっているが、確かに彼の胸からは、何もかもが取り除かれているかのように見える。


 残っているのは、きっと、青白く光る綺麗な魂がひとつきり。


「それだけすっきりしているのだったら、今夜あたり、成仏できそうじゃない?」


 そうではないのだろうな、と思いながら投げかけた問いだった。幽霊は口笛を吹くみたいに唇を尖らせた。


「俺の未練は、そんなに軽くない。そんなに……簡単なことで、幽霊にまでならないよ。……たぶん」

「たぶん?」

「だって、幽霊になったのなんて、……たぶん、初めてだから。一般的な事例も知らないし」

「なんか、それこそたぶんだけど、あなた真面目なんだね」


 律儀に可能性についての断りを入れる幽霊である。美鈴は、几帳面な性質を感じた。


「……あっ、それはもしかしたら、言われたことあるかも」

「あら」


 幽霊のふわふわの前髪越しに、目が合った気がする。


「生きていたころのこと、思い出せそう?」

「ううん……そういう感じはしてないけど……。思い出したほうがいいよね?」

「そりゃあ、成仏するのに、そのほうがうまくいきそうでしょ?」

「……」


 美鈴が言うと、幽霊は急に黙り込んで、丸く縮こまるように膝を抱えた。背中の曲線をかたどる青白い輪郭が、心なしか頼りなさげに弱々しく見える。


「どうしたの?」

「……成仏って言われると、俺、死ねって言われているみたいで、ちょっと、なんか……」

「いや、もう死んでるでしょ」

「頭では、わかってるけど……!」


 前髪で表情は見えないのに、その奥に子犬のようにつぶらな目があって、縋る思いをうかべているのが、容易に想像できる。

 美鈴は彼の前に膝をつき、わざとらしいくらい優しく微笑みかけた。


「大丈夫よ」

「何が?」

「怖くないよ」

「その、子どもに注射を受けさせるみたいなトーン、やめて!」


 言葉こそ否定系だったが、その声は小さく震えていて、笑いをこらえているようだった。知らないふりで美鈴が彼の顔をのぞき込もうとすると、幽霊はのけぞって、その拍子に体勢を崩し、後ろにころんと転がってしまった。


「うわっ……アハハ……」


 幽霊は、美鈴の態度と、自身の体勢、双方をおかしげに笑う。起きあがるのにやや難儀していたから、手を差しだそうとして、美鈴は彼が透けてしまうことを思い出した。

 彼の転がった先には、コンパクトな棚がある。もし生身であれば、その棚に背中をぶつけて、そこで止まっただろう。

 幽霊は体の半分ほどを棚にめり込ませつつ、何でもないように笑っていた。


「……えっ、ミリンさん、なんで暗い顔するの?」

「別に、幽霊だなあ、って思っただけだよ」


 美鈴は幽霊の肩辺りを指さし、その体が棚を透かしているのに気づかせてやる。幽霊は「うわっ」と嫌そうに顔をしかめて、慌てて飛び起きた。


「……成仏するのが、たぶん、あなたのためでもあるよ」


 何とも言えない顔で自身の半透明の肩のあたりを手でさすっている幽霊に言う。幽霊も、さっき拗ねたり笑ったりしたのとは違う雰囲気で、顔の前に彼の透ける手のひらをかざした。


「……そう、わかるよ、俺も」


 じゃあ成仏に向けてがんばっていこう、と言える空気ではなかった。

 もう死んでいるのにその自覚がないなら、確かに、死ねと言われるのに等しいのだろう。美鈴は、彼にその意味を含む言葉を言えなかった。


 それでも彼は幽霊なのだ。


「……あなたの未練って、さ」


 美鈴は、思いついてしまったことを否定してもらうために、おそるおそる口を開いた。幽霊の視線がこちらを向くのが、不思議とわかる。


「わたしを道連れにしようってことじゃ……」

「ないよ!」


 全部言い終える前に、幽霊が被せて叫んだ。


「ミリンさんに死んでほしいとか、そんなこと絶対ない。絶対ダメ!」


 床に手をついて身を乗り出して、幽霊は必死に言う。美鈴は、棚はすり抜けるのに、床に手をつけるのか、と思いつつ、勢いに押されて何度かうなずいた。


「わかった。もう言わない」

「……うん……」


 幽霊の声は、相当落ち込んだように暗かった。


「俺、こんなだから、そう思われるのもわかるよ……」

「それは私の幽霊への偏見っていうか、……ごめん」


 美鈴が軽率さを謝ると、幽霊が、ふと笑った気配がした。


「ミリンさんも真面目だよね。俺、そういうところ、好きだったんだ」

「……そう……、うん? いや、でも、どうしてあなたは、そんなふうに私を知っているんだろう?」

「……さあ……」


 幽霊が首をかしげる。その、自分のことなのに、どうにものん気そうな様子を、今は咎める気が起きない。


 どこの誰で、どうしたら未練が消えるのか。


 明らかにしないといけないはずなのに、知りたくないような気がする。

 幽霊は美鈴を知っていて、美鈴はさっぱり知らない。その差は、美鈴が生前の幽霊に冷たい仕打ちをしたかのような気持ちを、美鈴に抱かせた。


 私は、薄情な人間かもしれない。


 その可能性は、元彼についてそう思ったときよりも、今のほうが、重く冷たい鉛のように、美鈴の胸の中に落ちてきた。

 美鈴の心中を知らない幽霊は、唇に弱い笑みをうかべて、明るい声を出す。


「そんな顔しないでよ。俺も、成仏できるよう、がんばるから」

「……うん」


 幽霊に励まされるなんて。


「ミリンさんは気にしないでいいんだよ。俺の、勝手な片思いだったんだ」

「まあ、それはそう」


 美鈴が言うと、幽霊は少しほっとしたように口元を緩めた。

 美鈴はそれに意識して微笑み返しながらも、彼の片思いが『勝手な』で片づけられてしまうのを、無性に悲しく感じていた。


 恋って、悲しいこともあるけれど、いつか振り返って、何だかんだいい経験と言って笑えるものだと思っていた。特に、自分たちみたいな大学生にとっては。

 美鈴が気にしなければ、きっとこの幽霊の最後の恋は、未来で思い出されることもなく消えてゆく。


 それでいいんだろうか。


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