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第二話 調味料先輩

 美鈴の名は、『ミリン』と読む。


 字面が『美鈴』とよくあるだけに、初対面ではほぼ確実に『ミスズ』と読まれる。それを『ミリン』と訂正するのは、美鈴にとって、もはや自己紹介でのお決まりのような流れだった。


「おはようミリン!」

「おはよう……」


 幽霊が出て、ひと晩明けた朝。


「どうしたの、いきなりものすごく疲れてない? まだ火曜だよ?」


 講義室前で美鈴の肩を叩いたのは、髪を巻ききれいめのワンピースを身につけて、いかにも今どきの女子大生、という出で立ちの友人、奈子だった。大学に入ってできた友だちの中では、最も親しい相手だ。


「ハハ……」


 奈子とは、すでに気が置けない仲と思っているが、さすがにいきなり幽霊が出た話は切り出せない。うつろに笑う美鈴に、奈子は本格的に心配そうな顔をした。


「ねえ、ホント何かあった?」

「まあちょっと……あとでね……」


 予鈴が鳴る。

 手短に話せる自信のなかった美鈴は、いったん保留にしてもらって、ノートや筆記具を準備した。

 そろそろ本鈴が鳴ろうかというころ、奈子と並んで座る美鈴の右隣に、ひと席ぶん空けて誰かが座った。講義室には、机、椅子ともに固定の、一セット四人掛けの長机が、横三列、縦は雛壇状に十数列並んでいる。美鈴の右は出入り口に近い通路側で、遅刻寸前の誰かが滑り込んできたのだろう。


 何とはなしにその顔へ目をやって、思わず二度見する。

 それから奈子をつつき、無言でその学生を指し示した。


『芸能人にいそう』


 ルーズリーフの端にそう書き付け、奈子に見せる。奈子はその近くにシャープペンシルを走らせた。


『三年の有名な先輩だよ。知らなかったの?』

『そういうの興味なくて』


 奈子は、ちらりと横目で美鈴を見、やや呆れた顔をした。


 美鈴の隣に座った男子学生は、ちょっと見ないくらい綺麗な顔立ちだった。

 肌が白く、くるりと上にカールした長い睫毛の下で、大きな目がきらきらしている。黒目がちの印象的な目だ。童顔だから、先輩と言われても、少し年下くらいに見えた。


 柔らかそうな猫っ毛を緩めに巻いてセットしており、ふわふわした髪型が、かわいらしい系統の顔に、なおのこと甘い印象を与える。


 髪色はダークブラウンで、そのせいか、全体的にティディベアを思わせた。

 身につけている襟付きの紺のシャツの感じが英国紳士っぽくもあって、なおのことティディベアとの相性がよい。


 ついじっと見てしまい、視線を感じたか、彼がふと美鈴を見た。

 しまった、と思ってさっと逸らす直前に、にこ、と微笑まれ、その笑みがまた可愛かった。

 さすが、見られるのに慣れているのだろうか。

 目を逸らした美鈴は彼の笑みを無視したようで、愛想笑いくらい返すべきだったと、すぐに後悔した。かといって、今さら振り向けない。


 終わったことだし、向こうもきっとこんなことには慣れていて、たいして何とも思わないに違いない。

 そう自分に言い聞かせながら、始まった講義に集中しようと意識を切り替える。

 なのに、先輩の笑みと、罪悪感は、しばらく美鈴のなかに居座って、なかなか消えてくれなかった。





「佐藤先輩。佐藤潮先輩だよ」


 講義のあと、昼休憩のランチに生協食堂へ移動してから、奈子はさらりとフルネームを述べた。

 有名な先輩でも、下の名前まで知れ渡るものだろうか、という疑問は、奈子が姓名を完全に続けて発音したことで、美鈴にも理由がわかった。


 サトウ、ウシオ。続けると『サトーゥシオ』に聞こえる。


「さとう、しお……」

「自己紹介では鉄板のネタなんだって」

「そんなことまで知ってるの?」


 美鈴が驚くと、奈子は先ほどよりもいっそう呆れた顔をした。


「去年の農学の特別講座にいたからね、その人」

「え!?」


 去年、奈子も、美鈴と一緒に夏期の特別講座を受けた。

 大学が所有する農場で行われた合宿型の講座は、座学より実習が多いため、受講可能人数が絞られていた。定員を超える申込で簡単なレポート選考があり、受講できたのは三十人ほどだったはずだ。


「あー、でも、ほら、班が違うとほとんど接点なかったし」


 講義のときのことを思い返しながら、美鈴は言い訳をした。

 実際、五人ずつほどの班でカリキュラムが組まれ、班ごとの入れ替わりで、実習や、食事、入浴、掃除当番が回っていた。


 二泊三日で単位取得になるために、スケジュールは詰め込みぎみで、班が違うとすれ違うこともないほどだった。そのころから仲の良かった奈子とさえ、就寝前のほんの三十分程度しか、話す時間もなかったくらいだ。


「同じ班だった人たちの顔も、もう思い出せないし……」

「まあ、色んな学部から集まってたし、講義終わったら会うこともないもんね」

「そうそう」


 美鈴は、食堂の壁に大きく掲示された日替わり定食のメニューを見上げながらうなずく。


「奈子は、その佐藤先輩のこと、よく憶えてたね。確かに顔、印象的だけどさあ」

「同じ班だったから」

「それなら憶えてるでしょうよ。私でもたぶん記憶に残ったはず」


 二泊三日もあの顔を見ていたら、そうそう忘れはしないだろう。おまけに名前も覚えやすい。


「ミリンは、その実習で彼氏作ったんだから、他の男子なんて眼中に無かったんじゃない?」

「別に、彼氏作ろうと思って講義受けてないよ。たまたま気があって、向こうから付き合おうって言われただけ」


 からかわれているとわかっていても、つい真正直に言い返すと、奈子が肩をすくめた。


「ミリンが真面目に受けてたのはわかってるよ。じゃないと、絶対佐藤先輩のこと知ってるはずだもの。知らないってことは、実習のとき、彼氏とか全然考えてなかったんでしょ」

「だって、実習、ちゃんとしないと先生にも悪いし……」


 レポート選考があっても、夏休みの遊び気分でいた学生も少なくなかった。美鈴だって、目当ては主に単位で、べつに農業に興味があったわけではない。

 それでも、実際に参加してみれば、真剣にならざるを得ないことばかりだった。

 機械の扱いは間違えば大怪我に繋がるし、牛や豚、鶏といった動物を相手にすることもあった。彼らは、うかつに近づくとやはり怪我をしたりトラブルになってしまう。


「ミリンは超真面目だからねぇ」

「別に、そんなことないんだけど……」

「嘘。よく言われるでしょ」


 奈子がからかう通り、美鈴は小中高と通信簿に「何事も真面目に取り組みます」と書かれていた。

 でも、美鈴がやったのは、宿題をきちんと出すとか、掃除の時間にサボらないとか、そういうくらいのことだ。むしろ、ふざけて先生を困らせる子たちを見て、ちょっとやればいいだけなのに、どうして叱られるようなことをするんだろう、と思っていた。


「元彼との付き合いもそうだったよね」

「そう、って?」

「真面目にやってたってこと」

「そんなことないよ。夜中まで遊んでたり、したし」

「思いつく不真面目がそれってのが、『本物』よね」


 言うだけ言って、奈子は今日の昼食を決めたらしく、ごった返す学生の列に交じっていった。丼ものの列だ。美鈴の大学の親子丼は、なぜか名物らしい。名物と貼り出されてはいないものの、学生新聞か何かに、そう書いてあった。

 出汁がどうとか、ナントカ。

 美鈴は魚のムニエルを選んで、奈子とはべつの列に並ぶ。


 この大学のキャンパスは、数年前にこの場所に移転してきたばかりで、建物も設備もまだ新しい。そのせいなのか、生協食堂なのに、カレーやうどんとともに、小洒落たメニューがある。量り売りの総菜まであるのだ。

 会計を済ませ、先に席を確保してくれていた奈子と合流する。奈子の前には、山盛りの天丼があった。


「海老追加しちゃった」


 化粧もバッチリ、髪はコテで巻いて、すらりと伸びた足にはストラップ付きのエナメルパンプスと、女子大生として完全武装している奈子だが、その外見と中身は必ずしも一致しない。美鈴が来る前にいじっていた携帯端末には、漫画のキャラクターのストラップが五つもぶら下がっていた。

 奈子の『推しキャラ』だ。五つあるうち、四つが同じキャラクターらしい。もうひとつは奈子の彼氏が「好きなんだろ」とくれたものだという。

 奈子が熱烈に推しているキャラクターではないが、彼氏枠として、奈子と行動をともにしている。


 奈子がスマホを扱うたびに揃ってぶらんぶらんと揺れるから、「邪魔じゃないの?」と尋ねたところ、「これは愛の重さだから」と返ってきた。


「天丼と親子丼で迷って、天丼にしたけど、ミリンの見てると魚もよかったな。それ日替わり?」

「そう。ムニエルなんて、自分で作らないし」

「天丼も作らないんだよなー」

「揚げ物はね」


 美鈴はひとり暮らしを始めて、一度だけ、唐揚げを作ったことがある。

 たぶん、もう二度とやらない。


「美鈴の元彼は、美鈴に鶏、揚げさせたでしょ」

「今ちょうど、そのこと思い出してた。唐揚げと肉じゃがは定番だってさ」

「聞いた聞いた。大学生の狭いキッチンには無茶だよ」

「だね」


 うなずきながら、少し冷めてしまった魚とご飯を口に運ぶ。コンロがひとつしかない部屋で自炊していると、温かいおかずのありがたさが身に染みる。


「わたしだったら言われた時点で冷凍買いに行くのに、美鈴はちゃんと作ってあげるんだもんね」


「一回だけね」


 奈子は、美鈴がよほどすごいかのように言うから、美鈴は軽く笑って首を横に振った。


「あんなに大変と、思ってなかったから。壁も床も油っこくなって、丸一日掃除する羽目になるなんて」


 居室のドアを開けたまま揚げたせいか、キッチンのみならず、居室の床まで油でべたつく感じがして、しかもそのぬめりを取るのに、雑巾を三回はかけた。

 フローリングの床などまだいいほうで、キッチンのコンロ周りやらレンジフードやら、とにかくそこらじゅうのぬるぬるが取れるまで、何度もちまちまちまちま擦ったものだ。


 だから、元彼がいかに唐揚げを喜んで「また作ってくれよ」と言っても、美鈴は二度とうなずかなかった。

 そういうところも、振られた原因だろうか。


 でも、あの油掃除と、元彼と付き合うことを天秤にかけて、元彼を取るほどの熱量は、美鈴にもない。


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