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第一話 幽霊の告白

 このごろ、美鈴はツイてなかった。


 お気に入りの傘は暴風で折れるし、バイト先でお皿を落としてスカートに染みができたし、彼氏には振られたし。

 実のところ、最後のひとつはそんなにショックではない。

 もっと言えば、ショックではなかったことのほうが、ショックだった。

 彼氏に振られてもダメージがない自分が、ずいぶん薄情に思えたので。


『付き合っててもつまんない』


 別れ際の彼氏の捨て台詞に、そうかも、と思う。


 美鈴なりに彼氏の要求に応えてきたつもりだけれど、別れよう、と言われて、すんなりうなずける自分は、結局、彼女としてその程度だったのだ。


 漫画やドラマみたいに、背景にシャボン玉が浮かんで見えたり、花が咲いたりなんてことは、ちっともなかった。大学の特別講義で同じ班になったことをきっかけに付き合いはじめて、そこそこ楽しいデートをして、その間に彼氏にお弁当を作ってみたり、好みの服を着てみたり、ありふれたイベントをこなした。


 友だちに、


「最近、彼氏とはどう?」


 と訊かれても、


「別に。普通」


 としか答えることのない交際で、とはいえ、美鈴には特に不満もなかった。

 現実ってこんなものだよね、と思っていたからだ。

 漫画やドラマのようなことが実際にあるなんて思わない。それが普通だし、普通で十分。

 それが美鈴の考えだったが、元彼はそれでは不満だった、ただそれだけのこと。


「幽霊はいくらなんでもツイてないを超えてない?」


 独り言のつもりだったのに、答えが返る。


「幽霊だから、むしろ憑いて……」

「今、ものすごくくだらないことを言おうとした?」


 靴を脱ぎながら美鈴が睨むと、幽霊は慌てて口を閉じた。

 フローリングに上がり、背を伸ばせば、幽霊の身長が案外高いことに気づく。申し訳なさそうに縮こまっていたからちんまりした印象だったが、元彼より高い。元彼は百七十センチで、日本人の平均身長とだいたい同じと、凡庸そのものだった。幽霊は百七十後半か、もしかすると百八十センチありそうだ。


 そのぶん、邪魔である。


「ねえ、そこに居られたら、私向こうに行けないんだけど」


 美鈴は幽霊をじろりと睨み上げた。

 幽霊は玄関からすぐの、廊下に立っていた。

 美鈴の部屋はワンルームで、玄関と廊下、それにキッチンはごく狭く、境目があいまいだ。玄関からすぐ短い廊下が続き、その廊下の片方の壁がくぼんでキッチンをなし、もう片方の壁に、トイレと風呂場に続くそれぞれのドアがある。短い廊下の向こうが居室だ。


 廊下は人ひとりが通るほどの幅しかないので、そこに成人男性の平均より背の高い幽霊がいると、彼が細身でも、美鈴は通れない。


「えっと……すり抜けられるんじゃないでしょうか」

「イヤ」

「……ですよね……」


 しょぼん、と肩を落とす幽霊に、美鈴はキッチンと対面にあるドアを指さした。


「……?」

「風呂場か、トイレ」


 ドアを順に指す。狭いワンルームでも、バス・トイレ別なのが、この物件の良いところである。


「どっちかに入ってくれたら、私が廊下を通れるでしょ」

「!」


 幽霊はハッとしたようにぴんと背を伸ばし、近くにある手前のドアへ手をかけ――ようとした。

 ドアノブを押し下げようとして、手がすり抜ける。二、三度無意味な手の上下運動を繰り返したのち、美鈴を振り返る。


「あの……」

「……それこそ、ドア、すり抜けられるんじゃない」


 幽霊はまたも背を伸ばし、そしてこわごわ、頭からドアに突っ込んでいった。美鈴の思った通り、何のつっかえもなく、その姿がドアの向こうに消える。


 まず手を差し込んでみる、とかではなく、いきなり頭とは、思い切りがいいのか、何なのか。

 美鈴は思わず深々としたため息をつきながら、ようやく廊下を通って居室に入った。そのとき、つま先が重く柔らかい何かを蹴飛ばし、それが人体を思わせて、ぞっと背中が粟立つ。


 もし、あの幽霊の『本体』だったら……。


 一瞬でそんな可能性に思い当たってしまった。うっかり異臭を嗅ぎ当ててしまうことのないよう、息を詰めながら、可能な限り蹴飛ばした何かと距離を取って、部屋の明かりをつける。


「あっ……」


 その正体を見て、間抜けな声が漏れた。


「……塩かあああああぁ……」


 家を出るとき、居室のドアは開けっ放しにしていた。そのせいで、先ほど美鈴が投げ、幽霊を通過した塩の袋が、居室の入り口すぐに落ちていたのだ。


 思わずうずくまる美鈴の後ろから、幽霊の「大丈夫?」という声が聞こえた。


「……大丈夫に見える?」


 美鈴のほうが化けて出られるほど、恨めしい呻き声が出る。


「……ですよね……」


 ハハ、と乾いた笑い声は、先ほどより遠かった。どうやら後ずさったらしい。


 幽霊は、その声以外、衣擦れの音や足音を立てないので、見ていないと動きがわからない。幽霊らしくなく、気配さえないのだ、ということに、美鈴はふと気づいた。

 普通、幽霊ならもっと、何か、おどろおどろしい気配とか、不気味な感じとか、発しているものだろうに。


 ゆっくりと振り返り、幽霊の姿が見える位置で、美鈴は立ち上がった。そうしないと、うっかり自分の体が彼の霊体を通過しかねない。それはちょっと遠慮したい。

 廊下の半ばで立ち尽くす幽霊を後目に、塩の袋を拾う。表面を軽く手で払い、居室のドアからすぐのキッチンの調理台に放った。


 そのままいつものくせで服を脱ごうと、シャツのボタンをいくつか外したところで、「ギャー!」と悲鳴が響いた。


「何で服を脱ぐの!?」


 幽霊が、彼の目の辺りを両手で覆いながら叫んだ。

 透けた両手の向こうに、重い前髪がうっすら見えている。果たして、彼が目を覆う効果はあるのだろうか。


 幽霊の反応で、美鈴は自分の行為がいくらか恥ずかしいものだと気づいた。幽霊とはいえ、見知らぬ男の前で、うっかり服を脱ぎかけたのである。


「おっと……」


 だが、幽霊が慌てているせいか、美鈴は冷静なままだった。たかがボタンを外したくらいで、まだ肌が見えていなかったからかもしれない。


「……大げさじゃない?」

「危機感どうしたの!?」


 幽霊は相変わらず叫んで返してきた。

 危機感も何も、と美鈴は肩をすくめる。


「危機って言うなら、あなたが部屋に出てきたことが一番の危機だし、それ以上はないんだから、もうどうってことないよ」

「でも、俺、男なんですけど!」

「じゃあ訊くけど、あなたに何かできるわけ?」

「……」


 幽霊は静かに口を閉じた。


「ついでに、そうやって透けた手で目を覆って、本当に意味ある?」

「……少し、前が見えにくくなる、かな……」

「正直なこと」


 美鈴は鼻で笑い飛ばし、それでも幽霊の死角になる開け放したドアの陰に回って、残りのボタンを外し、シャツを脱いだ。下に着ているキャミソール一枚になり、すっと涼しい空気が肌を撫でる。


 五月になって、ここのところぐんと気温が上がった。日によっては夏が来たかと思うくらい暑いときもあるが、去年の夏の記憶が、本物はまだまだこんなものじゃないぞと脅しにかかる。


 去年の夏は、二泊三日を大学所有の農場で過ごした。とある理由から、そのときの暑さを、美鈴はよく憶えている。


「ギャー!」


 去年を思い出して少しぼんやりしていたら、いつものくせでキャミソールのまま部屋を歩いていたらしく、また悲鳴が上がった。


 しかしながら、美鈴は何も裸になったわけではなくて、ちゃんとブラの上に、白い綿のキャミソールも身につけているのである。下はスカートをはいたままだ。


「このくらいで、大げさすぎる」


 今度は断言すると、幽霊はまた、半分ほどは意味のあるらしい両手で目を覆いながら、するすると後ずさった。


「いやっ、あのっ、これを言うと俺、やばいかなって思ってたんだけど!」

「もう存在がやばいんだけど」

「それはそう……じゃなくて、その、えっと、あの」


 本来、幽霊の被害者は美鈴で、この状況に慌てふためくべきなのも美鈴で、怖がるとしたら、それも美鈴のはずである。

 けれど美鈴がわりと冷静なせいか、幽霊がいちいち慌てるから、美鈴はもう、驚く・慌てる・怖がる、それらのタイミングを逃してしまった。


「何?」

「あーっと、つまり、俺が、ここに出た理由、なんですけど……」

「心当たりがあるなら先に言いなさいよ」

「いやあの、タイミングが、なくて……」


 幽霊はごにょごにょ言い、腹の前でもじもじと手を組み合わせた。

 その幽霊を前に、美鈴はこの部屋の前の入居者について考えていた。


 男性か女性か知らないが、その人も学生で、卒業を機に退去したらしい。それと入れ替わりに美鈴が入居したのだ。新入生の部屋探しは早い者勝ちで、条件の良い物件はあっという間に埋まってしまう。美鈴も、受験を終えたその足で不動産屋を訪ね、その日にこの部屋を知り、仮契約をした。もし入試に落ちていたらキャンセルできる契約で、合否発表後には、そうして放出された物件がまた早い者順に押さえられてゆくのだという。

 大学の近くや、通学に便利な安価な物件は、だいたいそういうサイクルが決まっている。


 美鈴は、改めて目の前の幽霊を観察した。

 全体は青白い半透明だが、青白さの濃淡で、髪や肌、服のおおまかなところは判別できた。


 くせっ毛らしい黒っぽい髪は寝ぐせでぼさぼさ、前髪が重く顔の上半分を覆い、その下から瑞々しさのある頬から顎にかけてが続き、緩いトレーナーとスウェットのパンツを身につけている。首の細さからも見てとれるが、全体的に細身らしく、大きめのトレーナーはやや肩が落ち、服の中で体が泳いでいるようだった。


 その緩さのせいか、元気そうな頬のせいか、社会人にはあまり見えない。

 美鈴の中で、社会人男性といえば、いくらかくたびれた印象があるのだ。


 つまり、この家を退去した前住人が、何かの拍子に亡くなって、何の因果か前の住居に現れた、というセンではなさそうだと見た。

 美鈴がそこまで考えているあいだ、幽霊はまだ口ごもっていた。


「そういえばあなた、誰?」


 美鈴は、この幽霊に見覚えがなかった。幽霊に、というか、この男に。

 至極ありふれた問いのはずが、幽霊はぎくりと動きを止め、そろっと亀かカタツムリかのように首をすくめた。


「え、何?」

「それが……あの、えっと、俺、自分が誰だか、わからなくて……」

「え?」


 幽霊はものすごく困った様子だった。目元が隠れて、表情の半分が見えなくても、案外わかるものなのだな、などと思う。霊体で、要は魂がむきだしのようなものだからだろうか。


「どういうこと?」

「その、ほとんど何もわからないんだ。自分が誰かも、どうしてこんなふうなのかも」


 こんなふう、と言いながら、幽霊は両手を軽く広げて自分の体を示した。


 身元および死因、不明。


 ずいぶんと小綺麗な幽霊だった。

 寝ぐせはあっても着衣に乱れや損傷はないし、それは体のほうも、傷ひとつ見当たらなければ、どこかが変な方向へ折れているということもない。くたくたのトレーナーとスウェットは明らかに部屋着で、リラックスした装いだ。

 普通すぎて、幽霊としての情報がなさすぎる。


「……。わからない――『ほとんど』?」


 幽霊のひと言を聞き留めて、尋ね返す。

 すると幽霊は、ますます困ったように、今度は肩まですくめて小さくなりながら、おずおずと美鈴を見つめた。

 例によって目は見えないが、視線をひしひしと感じる。


「その……、ひとつだけ、わかることがあって」

「……何?」


 幽霊のあからさまな態度に嫌な予感しかなくても、聞き返すほかの選択肢はない。

 幽霊はぐっと息を飲んだかのような――呼吸はないだろうに――気配を見せたあと、そろりと口を開いた。



「俺、あなたが――ミリンさんが、好きです」



「…………。は……?」


 自分の顔から、すべての力が抜けた気がした。

 たぶん間抜けな無表情をさらしたあと、美鈴はすう、と息を吸い、


「はああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!?」

「苦情が来ちゃうよ!」


 肺が空っぽになったと思えるほど、思いっきり叫んでしまった美鈴に、幽霊は飛び上がり、それから、ものすごく平凡な、平凡すぎてこの場にはまったくそぐわない忠告をした。


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