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第十二話 恋の向き不向き

 幽霊は、土曜の昼に出たとき以外、夜ごと律儀に美鈴の部屋に現れる。

 日曜の夜にももはや当たり前のように出てきて、そして美鈴は床で寝落ちしたから、月曜から深刻な寝不足だった。

 講義開始前、目が回りそうな眠気に耐えていると、ふと、美鈴の座る席のそばに誰かが立つ。


「……あの、ここ、いいかな」


 おずおずと声をかけられて、美鈴はぼんやり顔を上げた。


「…………。佐藤先輩?」


 広い講義室はまばらに埋まっている。こういうふうに中途半端に埋まっていると、どこの席も誰かの近くになるから、座りづらくなるよね、と思いながら、美鈴は数秒、相手を見上げて固まっていた。眠気で頭が回らなかったのだ。


「……えっと、この席、誰か使う予定あったりする?」


 首をすくめて、気まずそうにする佐藤に、美鈴ははっとして首を横に振った。


「いえ! 大丈夫です、すみません。ちょっとぼうっとして」

「こちらこそ、なんかごめんね」


 ふんわり目尻を下げて笑う佐藤へ、美鈴は「いえいえいえ」と返しながら、意味もなく自分のノートの角をつついて揃えてみたりなどする。

 佐藤は、美鈴からひと席空けて横に座った。


「先輩も、この講義、取ってるんですね」

「……うん」


 美鈴がお愛想程度に振った話に、佐藤ははにかむようにうつむき気味でうなずいた。今からの講義は、全学部対象に開かれている教養講座のひとつで、受講生の学年の定めはない。三年の佐藤が取る講義として別段おかしいところはないのに、何を恥じらったのだろう、と不思議に思う。


「俺は理学部だけど、文系にも、興味はあって」


 レジュメや筆記用具を取り出す雑音に紛れそうなほどの小さい声で、佐藤は言った。美鈴は危うく聞き逃すところだった。


「……そういえば何かの講義で、先生が、理系も文系も根本は同じ問い、とか言ってましたね」

「『この世界とは何か』だよね」


 佐藤が、大きな目をひとつ瞬かせ、ぱっと美鈴を振り向いた。目がきらきらしていて、そんなはずはないのに、眩しく見える。


「俺、去年、文学部の哲学の講義を受けたよ。……理解は、あんまりできなかったけど……」

「へえ……まあ、難しそうな印象です、哲学って」

「なんたって世界の根本を知ろうとしているわけだしね」


 佐藤が肩を竦めるのに合わせ、彼の緩い猫っ毛がふわんと揺れる。美鈴はそれに妙に気を取られた。


 どこかで見たような。


「ミ……海野さんは、その、専攻、もう決めてるの? 哲学は取る?」


 佐藤の口調は、後輩の美鈴を相手にしているのに、どこか遠慮がちだ。向こうから声をかけてきたことと、その口調にちぐはぐさを感じる。


「え、専攻……? あれっ、先輩、私が文学部だって、ご存じだったんですね?」

「……うん」


 佐藤は、気まずげに目を逸らしながらうなずく。美鈴にとっては何気ない問いかけだったのに、そういう反応をされると、触れてはいけないことだったかのように感じてしまう。佐藤も自分の反応のまずさに気づいたのか、はっと顔を上げて慌てたように軽く身を乗り出す。


「いや、あの、たまたま……。海野さんと、あの、えっと、仲のいい友だちが話してるのが聞こえたことがあって」

「……そう、なんですね」

「ごめん、こんな、盗み聞き、みたいな……」

「いえ、別に、その程度……。聞かれて困る話は、人がいるところではしないですし」


 ひどく悪いことをしでかしたかのように佐藤が謝るものだから、美鈴は困った。適当に、「つい聞こえちゃった」くらいに流してくれていいのだ。

 佐藤が、何か妙なことをやったのでもないだろう。彼をよく知るわけでもないが、疑うのも失礼だと思える程度には、人が好さそうに見えていた。


「……先輩って、モテそうですよね」

「えっ?」


 顔良し、人当たりも良し。もともと、顔の良さで有名になるくらいだから、さぞ人気だろう。

 思ったことがそのまま口に出て「しまった」と思いつつ、彼ならそう言われるのにも慣れているかと考えたのに、佐藤はきょとんと目を丸くした。


「……彼女とか、いないんですか。そういえば」


 今さらながら、近くの席に座り、ふたりで会話をしている状況に、もし佐藤に彼女がいたらまずい、という危機感が生まれる。だが、佐藤からの回答を聞く前に、彼のぽかんとした顔で、答えはほとんど予想できていた。


「い、いないよ」


 佐藤はなぜか、ふるふると小刻みに首を振り、少し勢い込んで繰り返し答えた。


「彼女、いない」


 そんなに力強く否定することではないだろうに。


「……そう、ですか……」


 どう反応したらいいのかわからず、美鈴は少しぎこちなくうなずいた。そんな美鈴の様子に、佐藤は我に返ったように身を引き、また気まずそうにうつむく。


「……よく聞かれる、けど、俺、付き合うとか、……その、あんまり、したことなくて」

「え?」


 その見た目で? という美鈴の内心は、顔に出ていたのだろう。佐藤は恥ずかしげに頬の内側を噛むような笑いかたをした。


「高校、男子校だったし、大学に入るまで髪とかも適当で、見た目を褒められるようになったのって、大学生になってからだよ」

「へえ……。でも、先輩って三年生ですよね。今まで、一度も彼女、作らなかったんですか?」

「ううん……いるには、いたけど……」


 佐藤は、歯切れ悪く言い、言葉とは裏腹に首を横に振った。


「一度で、自分には向いてないとわかったから、それだけ」

「一度で?」

「人を、好きになるっていうのが、よくわからなくて。何人かに付き合ってって言われても、なんだか、いまいち……」

「付き合ってから相手を知っていって、好きになるパターンだって、あるじゃないですか」


 少なくとも、美鈴はそのつもりで元彼からの告白にオーケーを返した。結果は、うまくいかなかったとしても。


「それはわかっていたんだけど、好きになれなかったら申し訳ない気がして」

「先輩、真面目すぎますよ……」


 大学生のお付き合いって、もっと軽いものでいいと美鈴は思う。付き合っても、別れても、それだけではまだ、人生が大きく変わってしまうことはない。


「それも、よく言われる。……でもさ、人を好きになる、相手がいないとどうしようもなく苦しくなる、そういうのって、怖い気がしてたんだ。だから、誰かを好きになるのも怖くて、好きになろうと思えなかったんだよ。……って、今なら思う」


 佐藤の言葉で、美鈴もふと、気づく。

 変わってしまうのは怖いのだ。だから、美鈴は元彼と付き合う前から今に至るまで自分の気持ちを変化させられなかったし、佐藤はそもそも踏み込まなかった。

 佐藤は、美鈴のもの思いには気づかないように続けた。


「だけど、本当に人を好きになると、そういうこと考える暇ないっていうか、好きっていう気持ちが、怖さを押しのけてくるんだよな……」


 美鈴は佐藤の言葉を二度ほど頭の中に繰り返して、やっとその意味するところを掴んだ。


 今の佐藤には、好きな人がいるのだ。


 そのとき、講師が講義室に入ってきてレジュメを配りはじめ、重なるようにチャイムが鳴る。

 佐藤もはっと背を伸ばし、ペンケースから筆記用具を取り出したりなど、講義の準備をし始めた。

 佐藤の好きな人とは誰なのか。

 うっかりわかってしまいそうな気がして、美鈴は無理矢理思考を逸らし、講師の声に集中した。


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