第十一話 きみのすきなところ
消えた幽霊は、夜になってまたやってきた。
消えているあいだの幽霊がどこにいるのかわからないから、やってきた、と表すのが正しいかはともかく。
そのとき、ベッドに寝転がって本を読んでいた美鈴は、どこからか「ミリンさぁん」とくぐもった声で呼ばれてベッドから飛び上がった。
「な、な、何!?」
「ミリンさん、大丈夫!?」
飛び上がった勢いのまま床に下りたから、大きな足音を立ててしまい、そこへ泡を食った幽霊が居室のドアをすり抜けて飛び込んできた。
彼の半透明の姿を見て、美鈴は心底ほっとした。
「なあんだ……あんなふうに呼ばれたら、びっくりするでしょ」
幽霊を見て安心するのもどうなのか、ということが頭の片隅をよぎるが、素知らぬふりをする。
「だって、ドア閉まってたし、勝手に入るのも悪いと思って……」
「化けて出るくせに、そういうとこばっか常識的なんだから」
「傍若無人のほうがよかった?」
「そうではないけど、幽霊らしさは傍若無人のほうよね」
美鈴は、有名なホラー映画を思い浮かべていた。霊に目をつけられたら追い回されて殺されるというものだ。目を付ける理由もさながら、対抗手段もないという理不尽さに、美鈴は恐怖ではなく、怒りを抱いた。
改めて幽霊に目をやって、ホラーとはかけ離れたその姿の美しさや、穏やかな雰囲気にちょっと感動する。
「傍若無人な幽霊だったら、キレてる気がする」
「えっ、怖がるんじゃなくて?」
「怖かったら、よけいに。だってこっちには反撃の手段がないのよ」
「幽霊と戦おうとしないで……。ミリンさんは、か弱い一般人なんだから……だよね?」
ふと、幽霊が真顔で尋ねてくるのにうなずき返す。
「だからこそ腹が立つのよ。お祓いができるなら、とっとと祓って終わりなのに」
はー、とため息をつきながら、美鈴は飛び上がったときに蹴り飛ばして床に落としていたタオルケットを拾い、ベッドに戻しつつ腰掛けた。幽霊も、もはや慣れたように美鈴の足下、ベッドのマットレスに背中を預けるように座る。
以前、転んで棚には透けたくせに、ベッドのマットレスにはしっかり背中をつけている。だが、その長い足は、美鈴のサイズで配置された家具には窮屈らしく、つま先がローテーブルの脚を突き抜けていた。
理屈の通らない奇妙さだけれど、幽霊を相手に考えても、しかたのないことなのだろう。
「あ、そうだ。見て」
美鈴は、枕元に置いていたスマホを取り上げ、幽霊の前にかざす。
ひとつだけのストラップが、ぷらんと揺れた。
「あっ、直ったんだね!」
ぱっと雰囲気を明るくした幽霊が、自分のことのように喜ぶ。相変わらず口元しか見えなくても、案外、感情はわかるものだ。
それくらい幽霊は明け透けだった。
「で、この状態に見覚えはある?」
元の状態に戻ったスマホごとストラップを揺らしてみせる。
「うーん……」
幽霊は、まじまじとストラップを眺め、首を右に左にとかたむけた。
「あるような、ないような……。見た瞬間、ヤタガラスだ、とはわかったんだよ。でも、そのスマホと……っていうと、なんか微妙」
「微妙?」
「見かけたことはあると思うんだ。でも、馴染みがあるわけではない……」
幽霊は軽く宙を仰いで、記憶を探るような仕草をみせた。美鈴がストラップを指先ではじいて揺らすと、彼が美鈴を見る。
「ミリンさんに対するのと似てるんだよね。俺は、ミリンさんを好きだと思うくらいには知ってた。だけど、直接は知らない、そういう微妙な距離感」
「そのほうがわけ分からないのだけど」
「だからね、俺の儚い片思いだったってわけ。草葉の陰からミリンさんを見てたんだよ、きっと。……はあ」
幽霊は悩ましげな息をついた、ような声をこぼした。
「草葉の陰っていうのは、あの世から、って意味だと思うんだけど、あなたいつから死んでたの? 死んでから私を知ったってこと?」
「いつ死んだか……俺、あのミリンさんに初めて会ったとき、あの日からの記憶しかない」
「じゃあ、それが命日ってこと?」
めいにち、と鸚鵡返しにつぶやいて、幽霊は首をひねる。
「さあ……。俺、幽霊の仕組みには詳しくないから……。死んですぐ、幽霊になるのかな」
「私が知るわけないじゃん。頼りがいのない幽霊ね」
言ってから、頼りがいのある幽霊とは、と自分でも疑問に思う。何かのファンタジー小説に出てくる幽霊は、長くこの世にある年の功で、主人公たちに助言をくれた気もする。が、今目の前にいる幽霊には、貫禄などあったものではない。
「俺ひとりじゃ、比較・検討するサンプルが足りないよ」
「それ、大学生っぽい。このあいだの講義で、先生が卒論作成の注意点として言ってた」
「えっ、ミリンさんって何年生? もう卒論?」
それもまた大学生らしい発言である。
「二年だよ。まだ先だけど、レポートも同じだから、安易に結論を出すなっていう指導がね」
あー、と、面倒そうな声をあげて、幽霊が頭を抱えた。美鈴は、卒論に取り組みはじめた奈子の彼氏、岡田先輩が、同じような声を上げて、同じように頭を抱えていたのを、わりと最近に見た。いつも快活で、ちょっとしたトラブルなんかも笑って片づけてしまう彼さえそんなふうになるのかと、美鈴をおののかせた一件である。
「卒論、身に覚えがあるの?」
「あるかも。しかもそれ、俺にとってなんかものすごく重要だったかも」
「もし、あなたが大学生なら、私と同じ大学だった可能性が高いよね」
「そうかな」
「だって、違う大学の学生なんて、私の名前を読みも漢字も両方知る機会、絶対ない。同じ大学なら、何かの講義でたまたま、って可能性が無きにしもあらず」
同じ大学だとしたら、すれ違うことはいくらでもありそうだし、一方的に知られていても、たぶん気づかない。
それこそ佐藤潮などは、知らない学生からいくらでも見られていそうだ。彼ほどの人なら、佐藤が全く認識していなくても、スマホのストラップを知っている女子学生もいるだろう。
とはいえ美鈴のほうは、学校の有名人とか、そういう枠ではない。
「だけど、いったいどういうわけで、あなたはわたしを……、好き、とか……」
「それを思い出せたら、俺は自分が誰なのかわかると思うんだけど……」
ちょっと言いにくく、ぐりぐりとラグマットを指で掘りながら疑問を口にした美鈴に、幽霊はもどかしそうに答える。
「誰かに好かれる心当たりとか、ないんだけど……」
「そんなことはないと思うよ」
幽霊が床に手をつき、美鈴のほうへ身を乗り出してくる。
「ミリンさんの、俺みたいなのにもちゃんと向き合ってくれるところとか、真面目で優しいところ、今の俺でもすごくいいなって思うし」
「私、そんなんじゃ……」
「こういうことは、ミリンさんが自分でどう思うかより、他人から見てどうか、が問題なんじゃないかな」
「それって単なるイメージとか、理想じゃない? 本当の私じゃないっていうか……」
美鈴が視線を落としている先で、幽霊の床についた手がぎゅっと拳を作った。少しの沈黙のあと、幽霊は言う。
「……俺、ミリンさんとこうして過ごしていて、そう思ったよ。イメージじゃなくて、俺から見てミリンさんは、本当にそういうひとだよ」
視線を上げると、幽霊は悔しそうに唇を噛んでいた。それを見て、美鈴は、彼の気持ちをうまく受け取れなかった自分に気づく。
「……ごめん。私、自分がそういう人間か、わからないけど……、でも、そう言ってもらえて、嬉しい」
「ミリンさん、そういうところだよ」
幽霊は頬を優しく緩めて、ふっと笑った。
普段、ちょっと頼りない幽霊のくせに、こういう慈愛を向けられると、美鈴はくすぐったい気持ちになる。
そわそわして体が火照るような感覚に慣れず、軽く頭を振って、話題を逸らした。
「……ところで、卒論が重要ってことは、学部が絞れそうね。だけど、最近大学で誰かが死んだ話なんて、聞いてないけどなあ」
「学部もたくさんあって、学生がいっぱいいて、そのうえみんな知り合いってわけじゃないんだから、誰かが死んでも、話は伝わらないんじゃないかな」
「それはそうかも」
でも、と美鈴は思ってしまう。
「あなたは私のことを知ってたんでしょ。それなのに、私があなたをちっとも知らなくて、知らないまま終わるって、すごく寂しいね」
「だから俺、こうなったのかなあ」
膝を抱えて幽霊がつぶやく。
「せめて、ミリンさんにちゃんと会いたくて」
美鈴は小さくため息をついた。
「私にとって、よかったのか、悪かったのか……。寂しいとは言ったけど、あなたはそのうち成仏するわけでしょ。そうなると、私はあなたを憶えてる分、今度はそっちが寂しいよ」
「寂しいって思ってくれる?」
「そりゃあね」
幽霊は、ふふ、と小さく笑って、膝から顔を上げ、美鈴を振り仰いだ。その口元は、笑うより、もう少し寂しそうな気配をにじませていた。
「生きているうちに、ちゃんと会えたらよかった。もう何度も思ってる」
後悔し、そんな自分に諦めたような、切ないつぶやきだった。
「俺、勇気を出せばよかったんだよ。意気地なしだなあ」
「……声をかけてくれてたら、私……」
勢いで言いかけて、美鈴は途中で詰まった。
ついこのあいだまで、美鈴には彼氏がいた。その状態で声をかけられても、たぶん、自分は素っ気なくしただろう。彼氏より、幽霊の生前の男の子に好意を感じたとしても、彼氏を振ってその人と付き合うようなアクションを、自分が起こしたかどうか、自信がない。
もし、恋をしたら。
そうしたら、面倒なことでもしようと思える、熱量が自分に生まれただろうか。
幽霊は、美鈴のためらいを見透かしたように、からりと笑った。
「俺を好きになるとは、限らない、でしょ?」
「違うよ」
つい反射的にそう言って、美鈴は自分の口元をおさえた。
「いや、違うとも言えないけど……。考えてたのは、そうじゃなくて、ちょっと前まで、私……」
「彼氏がいたもんね、ミリンさん」
「……過去形?」
美鈴のスマホのストラップまで知っている幽霊だから、美鈴に彼氏がいたことくらい、知っていてもおかしくはない。だが、別れたことまで知っているとは、予想しなかった。
「私が彼氏と別れたって、知ってるの?」
「え……うん。なんでだろう、そうなのかなって思ってた」
「落ち込んでいるように見えたとか?」
「ううん」
幽霊にあっさり首を振られて、美鈴は、この幽霊にも自分の薄情さを知られたようで、胸が痛んだ。それは、彼氏と別れたことよりも、ずっと大きなショックだった。
だが、幽霊には美鈴を薄情とののしる様子はなく、むしろ朗らかに話を続ける。
「ミリンさんが落ち込んでたなら、俺はもうちょっと、別れたってことを言うのに気を遣ったよ。でもそうじゃないのに、なんでかはわからないけど、俺はミリンさんが彼氏と別れたことを知ってた」
「けっこう最近のことなのに」
「俺はわりと、ミリンさんの最新情報を手に入れられるとこにいたんだな」
「そこまで近い人が死んだのに、私はちっともそれを知らないわけ? 本当にストーカー……だとしても、私、自分がストーカー被害に遭ってることに、全く気づいてなかったってこと?」
美鈴が自分に呆れていると、幽霊は「ストーカーって決まったわけじゃないだろ」といささか早口に言った。
「じゃあ何なの?」
「何って言われると……困るけど……」
「ストーカーなんて、しそうな感じじゃないけどさあ」
ストーカーになる人間の特徴を美鈴はよく知らないけれど、幽霊は、幽霊のくせに、わりと礼儀正しく、人間だったころに異常者だったとも思いづらい。
「普通じゃない、変なところはないのかしら」
「好きな人のことを知りたいって思うのは、普通だろ……」
「あなたが自信なくさないでよ。ほかに分かることは? この際、全部言ってみて」
「えぇ……。そうは言っても、ほかには特に何も……。うーん……」
幽霊はうつむいて考え込んでいる。美鈴は、その彼の頭のくせっ毛の、ぴょんと跳ねている一ふさを見下ろしながら、本当に見覚えはないのだろうか、と自分の記憶を浚っていた。
背の高いくせっ毛の男子、という情報があれば、それなりに対象を絞り込めそうなものだ。しかしながら、心当たりのある人物は浮かんでこない。
こんなに緩い雰囲気で、周りの空気さえゆるゆるにしてしまいそうなひとなら、印象に残りそうなものなのに、ちっとも思い当たらなかった。
「ほんと、誰なのかしらねぇ、あなた」
幽霊のつむじに向かって尋ねると、その頭は、「さあ?」と頼りなく右に傾いた。
さあ、じゃないのよ、と小突こうにも、透けてしまうものだからどうしようもない。




