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第十話 肉無しカレーで成仏?

 土曜日。

 美鈴は部屋を掃除し、午後二時ごろ、遅めの昼食作りに取りかかっていた。


 そこに、出たのである。


「ミリンさん」


 美鈴は一瞬、空耳かと思って、それでも反射的に声のしたほうへ顔を向け、「わっ」と声を上げた。だが、幽霊に慣れてしまったからか、たいした驚きではなかった。


「……えっと、もしかして、こんにちは?」


 幽霊は、玄関と廊下の間あたりに現れていた。居室のドアは開け放たれ、突き当たりのベランダに繋がる掃き出し窓まで見通しがいい。その、外の明るさに目をやったらしい幽霊は、自分でも不思議そうに首をかしげた。


「……幽霊って、昼にも出るもの?」

「さあ……。俺たぶん、ホラー関係には詳しくなくて」

「ホラー本人が何か言ってる」


 幽霊のくせに陽光を嫌がる様子はなく、キッチンに立つ美鈴に近寄ってきて、また首をひねった。


「……何を作っているの?」

「カレー」


 美鈴は、鍋で玉ねぎを炒めながら、調理台に出しているルーのパッケージを肘で示した。幽霊がルーと鍋と美鈴を見比べる。


「お肉は? 牛派? 豚派?」

「牛。でも今日は、肉ナシ」

「なんで!? それカレーじゃなくない!?」


 幽霊は信じられないというふうに叫び、透けた体を美鈴の横に並べて、鍋をのぞき込んできた。背が高いから、美鈴の頭越しに鍋を見るのも、簡単にできてしまう。


「お肉は!?」

「買い物に出るのが面倒になっちゃって。大丈夫、ネットによると、肉がなくてもおいしいらしいから」

「そんなあ」

「ほら見てよ、ルーにこれだけいろいろ配合されてるんだよ? このルーがあれば完璧よ」


 美鈴が鍋ににんじんとじゃがいもを入れつつ、ルーのパッケージ裏を幽霊の目の前に突き出せば、幽霊は身を引きながらも、「えぇ……」と納得できない声をこぼす。その幽霊を無視して、にんじんとじゃがいもにも油を回したところで、美鈴はカレーの、肉よりも大事な要素、ご飯のことを思い出した。


「うわ、お米炊くの忘れてる」

「ご飯のないカレー、とか言わないよね?」

「さすがにない、それはない。いいよ、こっち煮込みながら早炊きする」


 鍋にルーのパッケージの指示通りの水を入れてから、米を二合量り、軽く研いで炊飯器の内釜に入れる。最近の米は精米の精度が高いから、あまり研がなくてもよいというのを、どこかで聞いた。


「ミリンさん、夏は、水をちょっと多めにして炊くといいんだよ」

「それ、聞いたことあるなあ。……って、何でそんなこと知ってるの?」

「わかんない。今、ふと頭に浮かんできて」


 話しながら、美鈴が内釜の目盛りぴったりに水を入れると、幽霊は「せっかく言ったのに」と唇をとがらせる。


「普段、そんな調整しないから、多めって言っても、間違ってべちゃべちゃになったら嫌だし」


 美鈴は内釜を持って居室へ入った。炊飯器はキッチンに置き場がなくて、居室の棚の上にある。

 内釜を炊飯器にセットし、炊飯ボタンを素早く二回押して、早炊きモードにする。二十分で米が炊けるのは、たいへん便利だ。


「ほかに、思い出せることある?」


 キッチンに戻り、鍋の様子を見ながら尋ねる。幽霊は、「うーん」と宙を仰いだ。


「……あっ。夏の卵は水分量が多いから、お菓子作りなどでは注意すること、とか」

「……生前、料理とか、お菓子作り、好きだったの?」

「そうでもない、と思う……」


 幽霊は自信なさげにしながらも、はっきりと首を横に振った。


「お菓子を作る手順とか、ちっとも思い浮かばない」

「じゃあどういう知識なの、それ」

「どこかで聞きかじったんだろうなあ。そういうこと、あるだろ?」

「まあ、私もどっかで聞いたことあるとは思ったけど……」


 ネットで何かを調べていたときについでに知ったか、はたまた何かの本か、あるいは誰かに聞いたか。

 いまいち出どころのはっきりしない知識だが、言われてみれば知っている、気がする。


「お菓子作りもしないのに、卵の水分量の話なんて、どこで聞いたのかしら」

「家庭科の授業とかじゃない?」

「それはありうる」


 もはや懐かしい中高時代の調理実習、何を作ったかもあいまいだ。家庭科の先生は知識が豊富で、授業はそれなりに面白かったことは憶えている。ただ、肝心な、先生が何を喋っていたかは思い出せない。


「そういえばビスケットかマドレーヌか、そういうお菓子を焼いた気がする」

「俺も、生クリームの泡立てに失敗した気がする」

「そういう、どうでもいいことばっかり思い出してくるね。ついでに、名前とか、どう?」


 鍋が煮立ったのを見て火を弱め、カレーのルーを入れて混ぜる。視線は鍋に置いたまま、あまり期待せず問いかけたら、やはり幽霊は「それは全然」と軽い調子で言った。


「思い出そうという、努力が感じられない」

「だって、本当に全然、そういうことについて考えようとしても、何にもないんだよ。真っ白、って感じ」

「ここに初めて出てから、今までのことは、全部思い出せるの?」


 鍋を木べらでぐるぐるかき混ぜながら訊いて、美鈴自身も、『全部』は自信ないな、などと思う。幽霊もおおむね同じことを言った。


「全部っていうと、細かいことは思い出せないかもしれないけど、普通に記憶がある、って言えるくらいには、ここでのことは……ここでのことしか、俺は思い出せない」

「ここから消えてるあいだのことは?」

「全然。俺の意識は、ここにいるときだけしかないみたい」


 くつくつと鍋がいい感じに煮え、カレーの匂いがただよい始める。それは、思い立った勢いで、朝食を抜いて部屋を掃除していた美鈴の胃を、これでもかと刺激した。ついでに炊飯器からもお米のよい匂いがしてきたあたりで、ふと幽霊を見る。

 彼は、美鈴の視線に気づいて、首を横にかたむけた。


「どうかした?」

「今、カレーのすっごくいい匂いがしてるけど、あなたは感じないのかなと思って」

「ああ、そういえば全然。息をしてないからかな」


 呼吸以前の問題だろうと、美鈴は思う。


「……物理的に、感覚器がないからじゃない」

「それもそうか」


 幽霊はあっさりうなずき、それでも美鈴の横からカレーの鍋を覗いて、「おいしそう」と言う。


「匂いはわからないけど、カレーはおいしいものだって記憶が、俺においしそうだと思わせる……」


 うらやましげな目で見られて、美鈴はカレー皿と、小さめのスープ皿を出した。炊きあがったご飯を、カレー皿には普通に、スープ皿にはほんの少し盛り、それぞれの量に見合ったカレーをよそう。

 それをローテーブルに並べ、スープ皿は自分の向かい側に押しやった。


「お供えです」

「ええ……」


 美鈴が気を遣ったというのに、幽霊はどこか引いた顔をしている。


「ほかにどうしようもないじゃない」

「まあ……気持ちは嬉しいんだけど、幽霊扱いされると違和感が」

「幽霊のくせに?」


 幽霊は、透けてさえいなければごく自然な動きで、美鈴の座るローテーブルのはす向かいにするりと腰を下ろした。美鈴は、いったんは自分の対面側に押しやったスープ皿を、幽霊の座る前まで引っ張ってくる。


「自分が死んでるんだっていう実感とかないし、こうして立ったり座ったりもできるし、ちょっと透ける程度だから、俺、全然普通の人間の感覚なんだよ」

「ちょっとだろうと透ける時点で普通の範疇を大幅に超えてるよね」


 幽霊の透けた体が常に視界にある美鈴にとって、幽霊は幽霊以外の何者でもない。でも、自分の体を生きていたときと同じように操れるなら、体感では、普通の人間と変わりないのかもしれない。

 幽霊は自分の前に置かれたスープ皿のカレーを見下ろして、それからやはりうらやましそうに美鈴を見た。


「おいしそうなぶん、恨みがつのりそう」

「お手本みたいな逆恨みやめて」


 美鈴が「いただきます」と手を合わせ、カレーをスプーンですくうのを、幽霊がじっと見てくる。気にしても仕様がないから、美鈴はそのままカレーを頬張った。


「いいなあ。俺、なんかお腹空いてきた」

「空く腹があるの?」

「うーん……」


 幽霊が自分の胃のあたりを見下ろしたときだった。

 美鈴はカレーをすくいつつ、横目で彼を見ていたのだが、その姿が、前触れもなくふっとかき消えた。


「えっ」


 周囲を見回しても、半透明の姿は見当たらない。


「ちょっと……? 消えたの?」


 呼びかけても、応じる声はなかった。

 スープ皿のカレーだけを残して、幽霊の姿はどこにもなくなっていた。


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