序章 我が家事故物件化騒動
「俺、あやしい者じゃないです!」
月曜日、深夜二十三時。
バイト帰りの美鈴を、ひとり暮らしのはずのアパートで出迎えた見知らぬ男。
まだ若く、たぶん、大学生の美鈴と同じ年くらい。
ぼさぼさの髪が目元を覆い隠して顔立ちははっきりしない。オーバーサイズのスウェット越しにわかるのは、細身の体格の、骨ばった肩のライン。
何よりの特徴は――青白くて、半透明。
彼は玄関ドアを開けた美鈴がその姿を目に入れるや否や、両手をきっちり頭の横に掲げて、己の無害を訴えた。
美鈴は思った。
「いや……、無理」
つい声にも出してしまった。
帰宅して、見知らぬ男が家にいたら警察に通報。
見知らぬ男が死んでいた、だと、警察と消防に通報。
では、見知らぬ半透明の男がいた――という場合は、どうすればよいのだろう?
ひとり暮らしをする美鈴の部屋に突如現れた、半透明の若い男。
一般に、たぶん、幽霊と呼ばれるたぐいのモノ。
「無理って言われても……」
呆然とする美鈴の前で、幽霊がしょんぼり肩を落とす。幽霊なんてハプニングに反して、ずいぶん呑気な光景だった。
顔の上半分を前髪が覆っているせいで表情はよく見えないが、途方に暮れているのは雰囲気でわかった。
「いや……、あなた、誰、ていうか、何?」
頭の中は取っ散らかっているのに、一方で、奇妙に凪いでもいる。
人間の脳は、通常、一割程度しか稼働していないとか、何とか、聞いたことがある。そうならば、たぶん、今の美鈴は、その一割のキャパシティをオーバーして、非常時の九割が駆り出されているのだ。
自分の中の混乱と冷静の混沌を、美鈴はそう分析した。
「何……。俺、何なんでしょう……?」
「私が訊いてるんですけど……」
「……」
「……。一般的には、幽霊っての、だと、思う。私にはそう見える」
幽霊は自分の体を見下ろして、うなずいた。
「俺にもそう見えます」
「微妙に他人事なの? 自分じゃん」
「だって……。俺、気づいたらこの姿でここにいて……」
「は?」
どういうことなのだ。今朝、家を出るまで平穏だった自分の部屋に、一体、何が起こっているのか。
困惑が極まって、美鈴がただ幽霊を見つめる。彼の重い前髪の向こうから、幽霊の同じような視線を感じた。
そうして見つめ合って、数秒。
美鈴はハッとして、右手を見下ろした。
スーパーの袋。中身は――
「え」
美鈴が袋に手を突っ込み、取り出したものを振りかぶると、幽霊は反射的に少し身を引いた。
そのままそこで硬直する幽霊に向けて、全力で投げる。
「え……」
袋は、幽霊の体の真ん中を見事すり抜けて、その向こうに着地した。
「……えっと」
幽霊はぴんぴんしていた。袋が通り抜けた自分の体をまじまじ見下ろして、興味深そうにしている。
「うそ……塩、ちっとも効かないわけ?」
「あっ、今の、塩なんだ」
ひとり暮らしを始めてから一年ちょっと、コツコツ自炊をしていたら、実家から持ってきていた塩が切れた。塩なんて滅多に買わないから、さっきスーパーで手に取ったときは、ちょっとした感慨があったりした。
のに、今はその頼りなさに脱力する。
力の抜けた手から鞄が落ちて、足元でドサリと重い音を立てた。幽霊がそこを見て、心配そうに近寄ってくる。
「大丈夫?」
「大丈夫なわけあると思う?」
「思いません……」
うなだれる幽霊は、近くで見ると、半透明のくせに、肌の様子までなんとなくわかった。
美鈴がバイトをしている社員食堂の利用者に比べ、頬の線にハリがあり、いかにも健康そうだ。
健康って何だ。幽霊のくせに。
そう、この幽霊は、幽霊にしては小綺麗だった。髪は目もとを覆っているし、着ているものはゆるいスウェットだが、妙な清潔感がある。
もしこの幽霊が、幽霊らしく不気味だったら、美鈴は即座にここから逃げ出していた。あるいは、悲鳴も上げられず硬直していた。
「あの……とりあえず、靴脱いで上がりません?」
とぼけたことを言う幽霊をじとりと睨み、美鈴は叫んだ。
「ここ、私の家なんですけど!」
ビク、と幽霊の肩が震え、彼は周囲をはばかるように左右を見回し、「しぃ」と唇に人差し指を添えた。
「ご近所さんから苦情が来ますよ……!」
幽霊がそれを言うか。
「あなたに苦情を言いたいんですけど! 今!」
「すみません……」
謝って済むなら警察はいらないのよ!
警察に幽霊が出たって泣きつけるわけないでしょ!
どこが幽霊の苦情を受け付けてくれるのよ!
言いたいことが渋滞し、美鈴は一度開いた唇を閉じてひん曲げた。
少し考え、最も適切だと思われる文句を言う。
「ここが事故物件なんて、聞いてない!」
「俺も、たぶん初めて出ました……」
美鈴の家を事故物件にした幽霊は、大変申し訳なく、と続けてうなだれた。
寝ぐせなのか何なのか、くせっ毛らしい髪がぼさぼさで、つむじが埋もれている。
寝たまま死んだのだとしたら、ずいぶんのびやかな寝相を呈して眠っていたんじゃなかろうか。
何の手立ても浮かばず、深々とため息をつく美鈴の前で、幽霊が「あっ」と声を上げる。
鞄を拾いつつ、何か気づくことでもあったのか、とかすかな期待を抱きながら顔を上げると、上がり框に立っている幽霊は、口元ににこりと可愛い雰囲気の笑みをうかべた。
そして、幽霊に似つかわしくない、温かな声で言う。
「おかえりなさい」
「た……ただいま……」
反射的に口をついて出た。
それに、幽霊が挨拶ができた子どもを褒めるかのような、嬉しげな様子を半透明の輪郭からにじませて、軽やかにうなずき返してきたのが、今夜一番、どうにも納得いかない気がした。